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元々あった霧吹き?は100円ショップで買ったもので、目が荒いというか大量の水がドバドバ出るため、アイロンがけに使おうとしたら乾いたはずの洗濯物がビショビショになってしまった。ということでもっと目の細かい霧吹きが欲しくて、池袋まで行ったついでに東急ハンズでそれらしい物を探してみた。
売り場を見てみたら、詰め替えボトルのコーナーにそれらしい物がたくさんあったのだけれども、目が細かいかどうかまでは分からなかった……一種類だけ「ミスト状になります」と書いてあったのがあって「これかな?」と思ったけど確証が持てなかったので、ダメ元で店員さんに声をかけて聞いてみた。「アイロンがけの時に使うような目の細かい霧吹きを探してるんですが、一番目が細かいのはどれですか?」と。そしたら、そのうちの一つを「自分が試した中ではこれが一番細かかった」と教えてもらえたので、それを買うことにした。
買ったのは、ノズルを押すとプシューと中身が吹き出してくる普通のヘアスプレーみたいな形をした奴。タグにはthe SCENTPUMPとか書いてあった。892円。輸入物らしい。市販のヘアスプレーの入れ物と違ってキャップに長い足が付いていて、キャップを押したり引いたりすると自転車の空気入れみたいに空気が入っていって圧縮される。で、キャップを外してノズルを押すと、圧縮空気の圧力によって中身がプシュート吹き出す、という物だった。面白いことを考える人もいるもんだなあ。実際に水を入れて試してみたら、確かに目の細かい霧状になって水が出てきた。これはいい買い物をした。
聞いた店員さんがたまたま「当たり」だったのかもしれないけど、商品知識が豊富な人が売り場にいるというのは素晴らしいことだと思った。またここで買い物をしたいなと思った(乗せられてます)。
あと、今までの自分だったら、こういう場所で右も左も分からない状況になったら、悩みに悩んでカンで選んで買って帰って期待外れで後悔、というオチになっていたんじゃないかと思うけど、自然に人を頼ることができたという事実を改めて意識して、深い感慨を覚えた。
ここに来るまでにどれだけの事があっただろう。自分のホームでない、アウェーの場所に飛び込むという事。恐怖を乗り越えて人に話しかけるということ。したいこと・求めていることをきちんと伝えて、自分から相手にできる限り協力して、相手の協力を引き出して、一番いい結果を得られるようにするということ。
自分一人で全てを抱え込んで、人の手を借りずにパーフェクトにこなせるようになることを目指すのでなく、(人の手を借りないとどうにもならないことから目を背けて、その時の自分にできることの範囲が世界の全てだと思い込む、のではなく、人の手を借りないとどうにもならないことも含めての世界だと認識して、自分にはコントロールできない事がたくさんあるのだと認めて、)必要に応じてアウトソーシングすることで自分も相手も利益を最大化し、閉じた「個」として生きるのではなく流動的な「状態」として生きるということ。
自分一人じゃここまで来れなかった。ゆずほさんとかいろんな人が手助けしてくれてやっとここまで来れたという気がする。
おお。いい結果になったみたいでよかった。オサレ小物まで行くと僕にはちょっと付いていけんけど……
これのBeforeとAfterの違いが分からん(どっちもダセえ)と思う人というのは、きっとオシャレさんなんだろう。そういう人達と、脱オタしたいと思ってる僕達みたいな人とでは、そもそも目指してる物が違うんだから、まあ、そういう人達から辛辣な意見が出てきたって、それは無視してイイと今では思える。
彼らは「いかに凡人から抜きん出るか」とか「いかに自分が楽しめるか」を目指しているんだと思うけど、そうじゃなくて僕らが求めてるのは、「凡人から二歩も三歩も出遅れて悪目立ちしている状態から、いかにして凡人レベルまで引き上げて溶け込むか」「いかにして最下層から脱して、劣等感を感じずに済むようになれるか」っていうこと。
敢えて露悪的な言い方をすれば、仮に物凄いオシャレさんな人達から見て「プッ、ダセえ」と思われるような服装であったとしても、それでもまだ「見下せる先がある状態」になれてはいる。それだけでもう僕らにとっての「脱オタ」は十分に意義あることだと思う。『下の下』でも『下の中』でも『下の上』でもない、『中』のレベルになれた、その間にある谷を越えられた、っていうことが大事。
そもそも他人の目線をいつも気にして劣等感を抱いて「脱オタしたい」なんて言っちゃってるような自意識過剰な弱虫たる僕らのような人種は、その程度のことで劣等感を解消できてしまえる、満足できてしまえるのですよ。オシャレさんな人達が「自分が楽しむために」「自分が満足するために」ファッションにコストをかけるのと同じで、僕らもまた、「自分の心を満足させるために」そこにコストを投じているわけで、本質的に別に間違ったことをしているとは思えない(まあ、動機のベクトルは不健全に歪んでると思いますけどね)。
それに「誰にも見下されたくない」とまで思ってしまうと、どこまで行ってもきりがないじゃないですか。「とりあえず世間の平均から見下されずに済むレベル(平均の平均までいかなくても、『中の下』までいければ『中』には引っかかれている)まで上れたら、それでいい」と思えるレベルは、コストパフォーマンス的に最も妥当な落とし所だと思う。
……とまで書くときっと言いすぎで、リンク先の記事で「革命」した人はここまで黒い感情を抱いてはいないと思うし、大多数の脱オタ希望者ももっと健全な物に近い感覚ではあるんだろうけど、まあ、そーいうタチの悪い人もここにいるんですよってことで。
amachangさんのエントリと金子さん(刺身さん)とのやりとりとを見ていて、どうにも違和感をぬぐいきれなかった。
僕の中ではamachangさんの人間像というのは、朗らかで健全でモテ系で努力家でイケメンでスーパーハカーで非の打ち所のない人、という印象だった。なので、そのamachangさん自身が「外見で他人を差別すること」に殊更嫌悪感を表明している事が、不思議に思えた。今はもう削除されている、金子さんのエントリへのコメントに書かれていた過去のトラウマの話を読んでも、「ねじれてるなあ」という印象が強くなるばかりだった。
「外見で差別するのが許せない」と言いながら、そう言っている自分自身もまた「外見で差別」してる(自分自身がダサくならないように心がけている)、という事に、僕は矛盾を感じる。
外見での差別は何が何でも許せないということなら、世間の価値観に逆らいいわゆる「ダサイ」格好を貫き通すという生き方が、一本筋が通っててある意味で「正しい」と思う。逆に、自分自身もまた外見で差別する価値観から逃れられない・無意識のうちにその価値観に支配されているという業を受け入れるのであれば、他人が同じような業に踊らされている様子を見ても、虚しさを感じこそすれ、激しい怒りを感じる事はないだろうに、と思う。
なんでそこで攻撃性が外に向いちゃうんだろうか、受け流してスルーできなかったんだろうか、と、無責任な第三者の立場からはそう思ってしまう。僕のように自虐キャラが染みついてると、普段から弱みを晒しまくってガスを抜きまくってるから、いざ痛い所を突かれた時も、慣れで案外流せてしまったりして。少なくともヤバいほどのファビョり方はしないで済みそうな気がする。気がするだけかもしれんけど。
CNET JapanのMozilla特設コンテンツのコラムが更新されて、Norahさんの小技紹介記事の第3回が公開されています。はい、性凝りもなく今回もナレーションをやらせていただいております。宣伝です。今回のテーマは履歴機能の使いこなしのようです。
セッションの保存と復帰において、履歴の保持日数って関係するんだろうか? 気がついたらセッションを復帰できなくなってることがたまにあって困るんだけど。とりあえずこの記事を見て(ぉぃ)、履歴(ディスクキャッシュ)の保持日数を30日にしてみた。世の中にはキャッシュはメモリキャッシュすら使いたくないという人もいるらしいけど、その気持ちは僕にはよく分からないなあ……
自分でビデオ見てみて、改めて、なんで自分の声ってこんなにキモいんだろうかと悩んだ。自分の認識する自分の声と、録音されたものを聞いたときの声との違いに違和感を感じる、とかそういう話ではなくて、純粋に、この男の声はキモいなあ、と。声優のスクールとかでちゃんと発声練習をした人とは根本的に違う声の力の無さと、そのくせ妙にカッコつけている、そしてスベっている、というミスマッチ?が、それを際立たせているのかもしれない。
日曜日、靴を買った。
いつぞやの脱オタツアーin東京からちょうど1年経ったからというわけではないけれども、というか、あれから丸1年間、穴が開いたからパンツ(下着の方)を買い換えたのと長袖のインナー?を2つほど買い足したのを除けば、着る物を買うということを全然していない。
しかし普段の靴が爪先の所が削れたりとだんだん寿命を感じさせるような感じになってきていたのと、1年前のツアーで買った靴が底まで革張りで晴れ且つ路面が乾燥しきってる時でなければ履けなくて買ってから数えるほどしか履けてないのとで、もっと気楽に履けてオサレっぽい靴を買おうと思った。
まあ正直いうと、今週末に母校繋がりでプチ同窓会?をやるらしくて、勢いで参加表明してみたものの、「うわぁみすぼらしすぎるwwwwwwwこいつあの頃から全然進歩してねえwwwwwwwwww」みたいに思われるのが怖かったから、というのが一番決定的な理由だったんだけど。
傷つけたくない症候群の鬱陶しい空気感を見ていて、思い出されたこと。
そういえば僕は割とつい最近まで、同級生の名前を覚えられなかった。いや、男子はなんとか覚えられたけれど、女子は壊滅的だった。大学の研究室のような狭い小人数の場ですら、そうだった(卒業制作のために籍を置いた研究室では男だけだったんだけど、1年かそのくらいの時の一般教養の課題の一つで、無作為に選ばれた学生達でチームを組んで……というのがあったんですよ)。
最近になってmixi経由で高校時代の同級生の人達と少し交流が復活したけれども、正直言って、顔と名前が一致しない人の方が多かった。一応同じクラスだったらしいと分かっていても、「これはあの人だ」と、名前から顔を思い浮かべることがなかなかできなかった。自分からマイミク申請できるくらいに相手の事を思い出せたのは、ごく数名だけだった。思い出せた人の中には、自分は思い出せても相手は思い出せないんじゃないか、っていうか僕の事なんて覚えてないんじゃないか、むしろ在学中から「知らなかった」んじゃないか、という人もいて(なぜそう恐れるのかといえば、自分自身が他の人を「覚えていなかった」り、「知らなかった」りするからに他ならない)、自分からマイミク申請できなかった。
いや、そもそも、顔を知らなかったと言った方が正しいだろう。同じクラスの人でも、女の人を前にして僕はまともに話せなかった。学祭の準備やなんかのためにどうしても話さざるを得ない時でも、相手の目を見ない、顔を見ても表情を認識しない、ただそこにその名前の人がいるということを示すアイコンとしてだけ相手の姿を認識することで、僕はやっと女性と話すことができていた。
全部読んでもいないうちにえらそうなことぶっこいちゃいましたが、改めてちゃんと最後まで読みました。
よもやここを見ていて知らない人はいないと思いますが一応紹介しとくと、某大学の「現代視覚文化研究会」という名前のオタクサークルを舞台にして繰り広げられるオタク男女達の青春物語、みたいな。そんな作品です。
最後まで読んで思ったのは、ああ自分のメンタリティ的に一番近かったポジションは斑目だなあ、ということ。
「あれ、そういえばアイツどこ行った?」「ちょっと私、探してくるね」「Piroくん、こんな所でどうしたの?」「ん……いや、ちょっとね」みたいな展開を妄想して勝手に一人でふらっと場を離れてみたりして、でも実際には別に誰かが探しに来てくれるほど大事な存在とは思われてなくて、っていうかそもそもいなくなった事にも気づかれないような影の薄い存在で、ていうか小さい頃子供会だか何だかで動物園行ったときホントに僕のこと忘れ去られて一人だけ置いてけぼりにされちまったことがあったんですがそんな事はどうでもいいです。とにかく変なところでキャラ作ってかっこつけたがる。そのくせ本当に言いたいことは言えず、寒いと分かっていながら道化を演じる。
そして、オタク趣味やオタク丸出しのキモイ格好は恥ずかしがらないくせに(いや劣等感からくる恥の感覚はずっとあったんだけどさ)、一番本当の本心を明かすことだけはどうしても恥ずかしくてできない。本当の自分、素の自分、正直な自分、偽らない自分を、表に出す勇気がない。表に出したところで実際にはどうせ誰も気にも留めないような「本性」でしかないのに。あるいは、どんな酷い「本性」であれ、晒したところで誰も気にも留めてくれないような薄い存在感しか、または、生活に何の変化も現れ得ないような薄い人付き合いしか、無かったくせに。
一言で言って、演技くさい生き方。自意識過剰の「メタ」視点の塊。
以前にも似たような事を書いている気がしますが。
「脱オタ」の政治的解釈において、republic1963さんは「脱オタク」という言葉の意味として、以下の2つがあるということをさらっと書いておられます。
しかし、ここから単純に「脱」という漢字とその意味を外して考えれば、そもそも「オタク」という言葉自体が
という2つの意味を持っている(持つようになってきている)という事実が、自明の理として浮かびあがってきます。
「電車男」という単語自体がもう懐かしの物となっている今日この頃だけれども。
天馬唯氏は「『変わる』事を過剰に賛美する風潮が気にくわない、世間の価値観に迎合することを自ら選んだ『電車<ruby><rb>宦官</rb><rp>(</rp><rt class="読み">かんがん</rt><rp>)</rp></ruby>』連中は軽蔑の対象でしかない。自分の持って生まれた特性を引き立てて魅力にすることにこそ励むべきだ」、という風なことをよく書いておられる(た)。
確かに「電車男」と同じ道を歩むことにした人というのは、「世間の価値観に迎合」して魂を売り渡した人である、と、言うこともできる。しかし、それは特定の価値観だけに基づいて述べた一方的な見方であるように思う。
基本的なオシャレオフの時に天馬氏に話したことと繋がることを改めて思ったんだけど。
天馬唯氏は、太っている人には太っている人なりの、チビにはチビなりの、個性的なオシャレの方が似合う、という風なことを以前から何度もおっしゃっている。「脱オタ」の文脈で持ち出される「オシャレな格好」が「丸井系」とか「綺麗め系」とかの系統に限られていて、(彼の目から見て)明らかにそれが似合わないだろうという系統の人間までもがそれに手を出そうとしていて、また、そうすることを脱オタ説教厨は奨励している、それが腹立たしいという風なことを、氏は常々おっしゃっている(と、僕は理解している)。
でも、オシャレに詳しい人が「個性的なオシャレ」を脱オタ希望者に推奨するというのは、「オシャレなんて自己満足」というオシャレのひとつの本質を否定する行為なんじゃないだろうか、と思うんだ。