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本当はオタク趣味なんて好きでもなんでもない
、仕方なくオタク趣味やっている
、そんな人が脱オタ者には多い、と天馬氏は言う。でも、人は最初から最後までそうであるとは限らないのかもしれない、途中からそうなってしまうものなのかもしれない、と、Masao氏のエントリと天馬氏のエントリを見比べていて思った。
今日はいつにも増して嫌らしいことを書いちゃうよ。いやらしいって、エロいって意味じゃなくて、見ててムカツクって意味よ。
脱オタ――オタク趣味を捨てるという意味ではなく、ここでは、オタくさい外観の改善を図るという意味で――ということを考え始めるようになってから、僕は、ずいぶん気が楽になったように思う。自由にものを考え、自由に表現できるようになったと思う。
本格的にエロ同人誌を作って売るなんて、脱オタを意識し始めるまでは、あり得なかったことだと思う。「脱オタ」を意識し始めてからこっちの方が、オタクとしてしたいことをしたいようにやっていると思う。それよりも以前の方が、「健全であること」「一般にも受け入れられること」にこだわって、自ら枷をはめていた気がする。皮肉なことに。
性格にしろ存在にしろ技能にしろ容姿にしろ、価値判断をするということは、評価をするということは、値踏みをするということは、「それより優れているもの、交換可能なもの」の存在の可能性を認めるということではないだろうか。
評価そのものをしないこと、ただ受け入れることが、恋愛に至るような関係では、必要なのかも知れない。でも「そうすることが必要」と理屈をつけることで、価値判断を保留する言い訳にしているだけなのかも知れない。「より上」を見ようとしてしまうことによる相手への不誠実を非難されるリスクから逃れようとしているだけなのかも知れない。
O君はバーバリーでカバンを選んでいたんだけれども、二つのカバンをとっかえひっかえしながらどっちがいいかで悩んでる彼を見て、僕はこらえきれなくなって涙があふれて泣き出してしまった。
似たような所にいたとばかり思っていて、僕と相変わらず友達でいてくれてる彼は、しかし、ここ数年でもう、僕の手の届かない遠い世界に行ってしまった。僕には分からないようなハイレベルの所で物を選んでいる。僕なんて、彼が選んでいる物のどっちを買ったところでどうせ使いこなせないし着こなせない。僕はかつて、脱ヲタした別の友人を見て、「彼にもできるんだ、僕にもできるんじゃないか?」と思った。でも昨日は、商品を手に取って選ぶ友人の姿を生で見て、「ああ、僕は彼には永遠に追いつけない。大きく引き離されてしまった」と思った。
それで恐怖と悲しさと焦りと情けなさと悔しさと諦めと羨望と嫉妬と絶望が心の中で急激に膨れあがって、ついに涙となって溢れてしまった。いい年こいたオサーンが人前で涙目で鼻すすり上げてんの。キモイね。キモイにもほどがあるね。
何より大きな、そして絶対追いつくことのできない差は、それで僕のことを慰めてくれる彼の懐の広さだろう。そんな人間にどうすればなれるのだろう。これが分からない限りきっと僕はずっと、怯えて生きていくことになるんだろうな。
脱ヲタしたいと願う人の性格にも色々あると思うけど、僕みたいに激しい劣等感と歪んだ優越感と空虚な自尊心ばかりの人間が人を頼って脱ヲタを望むとしたら、こういう負の感情をいかにコントロールしきるかが大きなポイントになるんじゃないかという気がする。
脱ヲタした友人に聞いた話。バーバリー・ブラックレーベルはヲタ御用達の脱ヲタブランドだと言われてる、とかなんとか。
ガノタの僕としては、この状況をガンダムの例で考えずにはおれん。よく分からんのだけど、これは例えて言うなら、ガンダムシリーズではΖガンダムの商品が一番よく売れるという話に似てるんじゃないだろうか。
Ζは顔、脚、胸、腰など、各部のパーツが鋭角的で、平たく言えば、かっこよく見える。また、言うまでもないけれども、変形という最大の魅力を持ってる。要するに、男の子の憧れる要素の塊なんだ。
脱ヲタブランドと呼ばれてしまっているようなブランドも、万人に分かりやすいかっこよさを持ってるから、選ばれるだけなんじゃないのだろうか。格好いいものが欲しい人が、かっこよく見えるものに飛びつくのは当たり前なんじゃないのか。これは、物事の導入編としては非常に妥当な選択なのではないだろうか。
それに対する反発、すなわち、そんな十把一絡げにくくれる有象無象とは俺は違うんだぜ、俺はあいつらには分からないかっこよさを理解してるんだぜ、有象無象に含まれてるお前は浅い人間だな、と揶揄するのが、いわゆる「中二病」。中二病に囚われている人からの攻撃をいかにかわすかが、新しい物事に挑戦する上で挫折しないための鍵になるのではないだろうか。
とかなんとか何となく思った。
大人の脱オタは、若者のそれと比べ、ローリスク・ローリターンである!を見て。なお、以下の文脈では「脱ヲタ」を主に服装・概観面での向上の意で用いている。
以上のような理由から、Masao氏は「若いうちの脱ヲタはハイリスク・ハイリターン、歳をとってからの脱ヲタはローリスク・ローリターンである」と述べている。
つまり、歳くったら脱ヲタなんてやってもムダ。
確かに言われてみればそれが世の中の事実なのだろう。脱ヲタしたがっている僕のような人間は常々、脱ヲタしさえすれば薔薇色の未来が開けると思っているが、実はそんなものは最初から無い、あってももう永遠に手に入らないようになってしまっている、既に手遅れの状態なのだろう。
僕らは、いや、僕は、脱ヲタが、閉塞した現状を打ち砕き、一度は死んでしまった心を生き返らせる唯一の手段だと無邪気に信じてしまっている。救いを求めてすがりついている。手遅れだと認めてしまえば、絶対に手に入らないと認めてしまえば、希望を失う。脱ヲタを諦める者が臆病者であるなら、脱ヲタを希望する者は、永遠に手に入るはずのない喪われた青春の幻影を追い求めて彷徨い歩く夢想者でしかない。
ファッションに興味を持ち、それを趣味として楽しめるようになるのなら、歳くってからの脱ヲタも、<ruby><rb>QOL</rb><rp>(</rp><rt>Quality Of Life:生活の質</rt><rp>)</rp></ruby>の向上にはなるだろう。だが、ファッションを趣味として楽しむつもりの無い人間にとっては、<ruby><rb>QOD</rb><rp>(</rp><rt>Quality Of Death:死の質</rt><rp>)</rp></ruby>の向上にしかならないのかもしれない。
まあ、僕は淡々と自分のQODを向上することに努めるのみです。
昨日、菊地さんとまた会って少し話した。
「今の僕やら服装面での脱ヲタを図ろうとしてる人やらは、彼らに十年遅れで取り組み始めたのだから、最初は無様で当たり前。」この事について少し考えた。
冷静に考えれば確かに当り前なのだけれども、社会はそれを当たり前と認識するだろうか? その人が「今取り組み始めたばかりで、まだ学習中だから、無様でも仕方がない」のか、「前から取り組んでいるけれども根本的にセンスが無いから無様」なのか、ファーストインプレッションでそれをどれだけの人が見抜けるだろうか?
小学生なり中学生なりの未成年は、色々な事をまだまだ学習中の「社会に出るまでの準備期間」ということで、色々な面で未熟が許されていると僕は思う。対人スキルが未成熟な「ガキっぽい態度」であっても、子供だから仕方がない、という風に周囲も好意的に見守ってくれるのではないか。
しかし成人して社会に出た瞬間から、人は彼のことを「いい歳した大人なんだから、もう色々な事の学習を終えているはずだ」という期待をして見るようになるのではないか。失敗が、取り組み始めた時の無様さが、「大人」になってしまったら社会的に許されなくなるのではないか。無様な失敗が公に許されるのは、子供の特権なのではないか。
もし仮に僕が中学生で「脱ヲタツアー」体験記をこのような形で公開していたら、ここまでボロクソに貶されただろうか。あるいは、もし僕がこの歳でこれから絵を描くことを始め、ひどく無様で失笑すら買い得るような「美少女イラスト」を、自信たっぷりな様子で「できたよ、みてみて〜!」と公開したとしたら、親が幼稚園児を褒めるように「よく描けたね〜、上手いね〜」と頭を撫でてくれる人がいるだろうか。否、許されまい。具体例を挙げるなら、ネットウォッチ板のヘタレ絵スレ(下手なイラストをウォッチするという趣旨)にすらリア消〜リア工のヘタレ系は×
(小学校から高校生までで絵が下手なのは許容する)という但し書きが付いているが、これは言い替えれば、いい歳した大人が無様な様子を晒していれば嘲笑われて当然であるということではないのか。
「脱ヲタ」には金がかかる。慢性的に金欠なヲタにとっては、大人になって収入が増えてからが「脱ヲタ」最大のチャンスだろう。だが、大人になってからの脱ヲタは、いい歳した大人が無様な格好を晒すこととなり、嘲笑に晒される。ナイーブなヲタはそれに耐え切れない。脱ヲタを望みながらも動き出すことが難しいのは、それが一つの理由なのではないだろうか?
土曜日に買った1000円(税込み1050円)の、これなんて呼べばいいんだろ、ニット? 返信うんぬんの最後の写真で中に着てるやつ。昨日は出勤時にこれを着てみたのですが、なんか、一日で駄目にしちゃいました。テヘ☆
鞄とこすれるところに「もっさぁー」と物凄い勢いで毛玉ができて、気がついたらこんなことに。通勤時の往復計2時間ほどでこんななっちゃいました。状態的にはエチケットブラシでこすり続けたみたいなことになっちゃってたんだと思いますが……
「安物(中国産、アクリル100%)だから」なのか、「こういう服は安かろうが高かろうがこういうものだから、こういう事に気をつけながら着ないといけない」のか。前者であるなら「安い物はやっぱりそれなりなんだなあ。それなりの物買っといた方が結局は安上がりなんだなあ。安物買いの銭失いだなあ。」後者であるなら「使い方には重々気をつけなくてはならないものなのだなあ。そういうところに気が回らない、ファッションのイロハが分かってない人間がファッションげな物に手を出すと銭失いだけでなく物失いにもなるのだなあ。」ということでいずれにせよ勉強代1050円は良心的なところなのですが、どっちのケースだったのか分からないことにはまた銭失いになりそうな予感。
そんな金銭感覚の人間が7万近く使った上でそれを材料にベコベコに凹まされたらどうなるかなんて、もう、ギャグにしかなりませんね。
某所で、ファッションとか考えずに純粋にどんなカッコがしたいか、どんなのが好きか、と問われて、何となく出てきたイメージ。
「IT系っぽい頭良さそうな感じ。すらっと細く見えるのが理想。」
というかなり漠然とした言葉から紹介されたモデルさんの例がええなあーと思ったので冗談で首だけ合成してみましたよ。
うは。なんかワロける。服と顔の国籍が合ってねえ! でもまあこうやってイメージ固めてくのって大事なのかもなと思った。
なんでだろう。なんでこんなに焦るんだろう。
服装のこととか、異性との付き合いであるとか、人間関係であるとか、他の普通の人が10年くらい前からやっていることに大幅周回遅れでやっと取り組み始めたこと、あるいは、まだ取り組みを始めてすらいないことがあることに、焦って仕方がない。同い年の人が、自分より若い世代が、自分より遙かに経験豊富であることに焦りを感じて仕方がない。自分が劣っていることが許せなくて仕方がない。挽回するための「残り時間」が刻一刻と減っていっていることを考えると、息が詰まる。
過ごした時間を費やしてきた先が違うだけ、と、客観的には分かっているつもり。でも、自分の過ごしてきた時間は薄っぺらく、他人の過ごしてきた時間は濃密なものである、という風に何故か主観的に僕は考えてしまう。
つまり自分が誰より圧倒的に優れていたいと思っている。なんて驕り高ぶった考え方だろう。それに気付いていながらその考えを捨てることができない。なんて情けない人間なんだろうねこの子は!(なんとなく名作劇場に出てきそうなお母ちゃん風に)
自分をしっかり持っていれば焦る事なんて無いはず。つまり僕はこの期に及んで自分というものを持てていない。
自分がないから、良くも悪くも……いや、悪いことばっかりだ、人の意見にすぐ流される。何か言われればすぐ鵜呑みにする。それで感情が大きく左右され考え方まで左右される。自分だけならまだしも、他人にまでその迷惑を広げる。たしなめられてすぐ態度を豹変させる。貶されてまた態度を変える。そんなことの繰り返しが僕の人生のすべて。
そんな僕でもそれなりに相手してもらえてることが、今はしみじみと幸せに感じられてならないのです。