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みかんの星の人が完全に「あっち」に行ってしまった件というエントリを過去に書いてて、偶然読み返す機会があったので読み返してて、ここでいう「あっち」とはまぁ平たく言えば「リア充」の事なんだけど、このエントリを書いた2008年当時は
という状況で、きっぱりと「あがり」を表明した人達の事を「すげえなあ」「自分はああはなれないなあ」と思って見てた。
最近読んだ長刀漫画の「あさひなぐ」で、剣道やってた子が長刀に転向するにあたって防具を長刀向けに短く切る(そうするともう剣道に戻れなくなる)という話があって、その子は剣道に戻るかもしれないからと防具を切る事を躊躇するというエピソードがあるんだけれども、ちょっとそれに似てると思う。ここで防具を切ってしまったら、もう慣れ親しんだ世界には帰れなくなる。ここでリア充表明をして非モテ時代に決別してしまったら、もう非モテな話は書けなくなる。切るべきか、切らざるべきか。
といっても、その子の場合は「やっぱり剣道の方がいい」と思った結果能動的に戻っていく事になったのだろうという予想ができるのに対して、僕の場合は「彼女と別れる事になっちゃって、やっぱり非モテは非モテだよねアハハハ(泣)」的な単なる脱落というか挫折というかそういう事になるだろうという予想だった、という点では大きく違うんだろうなあと思うんだけど。
でも今だったら、僕もためらいなく「あがり」を表明できるなあと、冒頭のエントリを読み返してて思った。(今このタイミングで「あがり」を表明してしまってよいものか? という葛藤を乗り越えて敢えて「あがり」を表明するという格好いい選択ではなくて、自分を省みた時に「あがっちゃってたわー」と後から言うというのが、僕の卑怯な所がよく表れててアレだなーと思う所はあるけど。)
ひょっとしたら同じような事を既に書いたかもしれないけど。
僕は、あまり束縛はしたくないと考えてる。理由はいくつかある。
「不安にならないのか?」と訊かれたけれども、不安がってもしょうがないというか、相手が束縛を嫌がるからという理由でまず「束縛したくても束縛できない」し、束縛されるのを嫌がってるのを無理に束縛するのはただの嫌がらせにしかならないと思うし、束縛したって(腰の退けた束縛の仕方にしかならないから)いくらでも浮気二股やろうと思えばできると思うし。結局、相手の言ってる事を信じるしかないよね。という感じで僕は開き直ってます。
もちろんその信用を裏切られる事はないと思いたいけれども、もし裏切られても、まあいいか、と。もちろん、本当に裏切られたらきっとものすごいショックを受けるだろうけれども、でも「裏切られる事」を恐れて束縛を強めることが結果的に相手を「裏切り」に走らせる事に繋がるのなら、束縛してもしなくても結局同じだと思う。僕は相手の事を信じる事にした、その上で相手が僕の事を裏切る事にしたんだったらそれはもうどうしようもないだろうなあ、と。裏切って欲しくないと僕が思っていて、そう言っていて、それでも裏切らずにはいられなくなったのであれば、そりゃもうしょうがないよね、と。
ところで、束縛というと「相手が自由意志で何かをしようとすることを、無理矢理引き留める」というイメージがあるけど、「相手がやりたくないと思ってる事を、無理矢理やらせる」のも本質的には同じ事だと思う。料理が嫌いな人に手料理を無理矢理作らせたりとか。クリスマスやバレンタインデーといったイベント事に何かする事を強要したりとか。
束縛って、要は相手の事を完全に支配したい、コントロール下に置きたいと願うという事だと思う。相手をコントロールしたいなんておこがましいと僕は思うし、コントロールしきれるとも思ってない。じゃあ、そんな僕が相手を束縛するというのは、コントロールしきれるとも思ってないしコントロールする権利もないと思っている相手の事を、コントロールしようとするという、賽の河原で石を積むような行為だよね。それって意味無いよね。と思ったら、束縛する気が萎えてしまいました。そんな感じ。
彼女と東京ドームシティに行ってきた。遊んだレポ。
tokyo-emacsで何故か言及された話のことを考えてて改めて思ったんだけど。もうそろそろ本当に「非モテ」という言葉と自分を関連付けて語らない方がいいな……と思うようになってきた。
「非モテ」という言葉の定義自体が今となっては拡散しまくってて訳が分からんことになってるので、改めて自分の認識を示しておくけれども、僕は「非モテ」とは単なる「モテない」とは違うと思ってる。自分が他人から愛されないことを辛いと感じる。誰でもいいから誰か一人でも自分を必要として欲しいと思う。自分と自分を取り巻く世界との繋がりを欲している。人生の主役になれていなくて、主役になりたい。それを切実に感じ、満たされない思いに苛まれている。ということを僕は「非モテ」という言葉で言い表したいと思ってる。人によっては全然違う認識かもしれない。なのであくまでこれは僕が思う「非モテ」ということで。
益田ラヂヲさんほか何名かの方々から(ちゃんと把握してない。すんません。)再三言われてはいたけれども、なんか「居心地が良くて」決別できてなかった。でも、自分の今の心境であるとか置かれた状況であるとかを改めてよく考えてみて、「スゲー非モテの人(非モテでスゲー人? 非モテのスゲー人?)」と言われるには相応しくないと、今では思ってる。
一番大きかったのは、元彼女と別れた後、「あれ、一人で生きていけそう?」と思えたという事だと思う。付き合うまでや、つきあってからずっと、ひょっとしたらカウンセリングを受けるようになるまでずっと、「異性と付き合える」という事柄が何より大きな価値を自分の中で占めていた。他のどんな事で評価されていても、恋愛できない人間に生きる価値は本質的にはないんだろう、遺伝子を残せない奴に価値はないんだろう、世間はそういう人間を本質的には評価しないんだろう、そう思ってた。
世間的にはやっぱりそうなのかもしれない。やっぱり僕には価値がそれほど無いのかもしれない。でも、以前と違って今はわりと「別にそれでいいよ」「羨んだってしょうがないし」「どうせ手に入らないし」「それは僕の居場所じゃないし」と思うようになった。「自分に自分の居場所があるのならそれでいいじゃん」と思えるようになった。と思う。
書かなきゃ書かなきゃと思ってまだ書けてない加齢会のこともそうだ。人に言われて初めて「そうなのか!」と思ったのだけれども、そこにはちゃんと僕の居場所があったようで。その事に本当に今の今まで注意が向いていなくて。それはとても良くないことだと感じた。無自覚に人の厚意を食い潰して、「そうしてもらって当然」とすら思わない――意識すらしない、そんな風なのはとにかく良くない、と思った。
折しも、最近彼女ができて。これを機に、自分の中でひとつけじめをつけた方がいいんじゃないかという気がしてきたんで。だから「非モテ」という言葉と自分とをしつこく関連付けて語るのは、やめようと思う。少なくとも、自分がその代表(の一人)みたいなツラをしたり、そういう風に受け取られそうな事を言ったりするのはやめようと思ってる。自重しようと思う。
いや、彼女ができたら非モテ卒業、というのは多分違うんだろうと思う。自分の気持ちが楽になってないなら、本人にとっては何も救いになってないわけで。僕自身「あれ、なんか自分と非モテって言葉を関連付けるのに違和感があるな」と思えるようになったのは、前述の通り、元彼女と別れて以降だったわけで。でも、まあ、「別れた」の時に「非モテ」と自分とを切り離す機会を逸してしまったので、今がその次のちょうどいいきっかけのように思ったから。
今度の彼女との関係? うん、今の所良好だと思いますよ。(←デレデレした感じで)
NGワード:ラブプラス
ライブの打ち上げの場でたまたま同席した人相手に色々と愚痴っていた(このところ、会う人会う人にこの話をしてる気がする)時に、言われたりして自分で気がついたんだけど。
よく、「自分から動かなきゃ出会いなんて無い、もっと外出ろ! 外!」という言説を目にする。別の場所では「趣味のオフ会にナンパ目的で参加して来る奴ウゼエ!」という言説も目にする。自分はその両方を見て「一体どっちなんだよ!!」とイライラしていたのだけれども、話をしていた人達の語り口からなんとなく、「普通」のケースでは「趣味を楽しみながら恋愛」という平行処理をできるのが当たり前らしい、僕はどうもそうではないようだ、と思った。
そう。ほんとにねえ、そういう「頭の切り替え」ってんですか? 世渡りっていうんですか? そういうのが壊滅的にできない。「趣味の活動をしながらいい人探せばいいじゃん」と言われても、「趣味を楽しむ時は趣味を楽しむ」っていう風に一直線にやらないとできない。
というか、その逆を考えてみると、「いい人を探す」事に関心を向けた途端、全ての物事を「いい人を見つける」という言わば繁殖行動に結び付けて考えるようになってしまい、趣味の事を楽しむという事ができなくなる。全ての物事が自分にとっては「セックスさせてくれるママ」探しになってしまう。そしてどうも世の中的には、趣味の分野においてその趣味に一直線である人と、趣味の分野において恋人探しに躍起になってる人とでは、後者の方が圧倒的にキモイ人扱いされているように見える。だから、どっちがマシか(どっちの方が自分自身が非難に晒されて嫌な思いをしないで済むか)と考えて、前者(趣味の時は完全に趣味の事しか考えないようにする、繁殖行動への関心には頭を持って行かないようにする)にならざるを得ない。そういう事なのではないかと思う。
クリアコード カレー部部長(部員0名)としてだいたい週2回くらいのペースで同じインドカレー屋でカレー食ってるわけですが、この間のお得意さん認定に続いて、今度は注文する前からメニューを読まれてる&名前を聞かれるというイベントが発生してしまいました。
着実にフラグが立っていっているようですが、その店員さんは男の人なわけで。
つい先日お別れした元彼女に「きっともっといい人が見つかる」的なことを言われましたが、僕の身の回りで立つフラグといったらこんなんだけですよ……
頭で分かったつもりになってても本当のところは理解できてないことって、多いもので……自分が当事者になってみないと分からなかった。今もちゃんと分かってるか怪しいくらいだ。賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと言うけれども、僕はまさに愚者だなあ。愚者未満かも?
何でも話せる関係、とか、何でも受け入れられる関係、とかって、一歩間違うとズブズブの共依存に陥っちゃうアレですよね。多分その一種。あまりに典型的すぎるのに……自分のこととなるとなんで気付かないんだろ。いや、気付きたくなかったんだな。必死で目を逸らしていただけだ。
自分の「至らないところ」までも相手が受け入れてしまうと、自分でそれが「至らないところ」だって気付けなくなる。根拠レスな自信が増大していく。まぁ、自信喪失状態からのリハビリにはなったのかもだけど。でも、甘やかされると図に乗るタイプの人間は……度が過ぎても自分で気付くことができないんだな。人に言われても分からない。鏡のように自分の有り様を見せつけられて、なんとか分かるのかもしれない。
ありのままを一人で全部受け入れられることなんて、そうそうないんだろうな。本来なら多分どっかで破綻するんだと思う。破綻してなかったら何かがおかしい。会社だったら、赤字垂れ流してどうやって成立してるの?みたいな話だ。その裏には何かカラクリがあるか、そもそも最初から商売なんかしてなかったのか……
最初は自分が被害者みたいな気分にもなってしまったけど、違う、共犯だ。共依存だもん。むしろ自分が主犯だろ、自分の人生的に考えて。
それに、サインは出してくれてたんだな。決められたのは間違いなくそのおかげだ。なのに今まで僕は自分から、それを無視してた。まじめに取り合おうとしてなかった。サインの意味を懇切丁寧に教えてもらってやっと、「ああそういうことなのか」って分かったわけで。どこまで僕は人任せなんだよと。救いようがないなホントに!
だからなあ。恨めないわ。っていうか自分だけおいしいとこいただいてちゃっかりエクソダスしちゃって、むしろ恨まれておかしくないよなあ。
ありがとうね。本当に。さようなら。
話を聞いてみると「自分が理想とするステップを踏みたい」のだそうだ。友人関係みたいなところから始まって、何か困難があって、それを乗り越えて結ばれるみたいな感じなんだという。
「顔が良くなきゃ嫌。顔が悪いのは論外。」とか「趣味が合わないと嫌。」とか「この人こそが!って求められるのでなければ嫌。こいつしかいないからしょうがないか、ってのは嫌。」とかとの違いが、僕にはわかりません。それらと同程度に、「ふうん、そこがその人の譲れない線なんですね」としか思えません。何故この人が殊更「間違ってる」と言われなきゃいけないのかが分かりません。
いちごの学校(作:きづきあきら+サトウナンキ)(Amazon.co.jp)
ヨイコノミライの作者の作品ということで気にはなってたんだけど、組長が紹介されていたので、自分でも見てみた。
元教師で、教え子の女子高生を妊娠させたことが原因で失職して電器屋店員として再就職している主人公。元教え子の妻は今では一応専業主婦。これに産まれたばかりの娘を加えた3人家族が中心となっている。教師・女子高生時代のエピソードと、失職後のエピソードとを織りまぜながら、この家族の、主に夫婦二人の心の動きを、主人公の視点から描く。
普通の恋物語だったら「いろんな苦難を乗り越えて二人は幸せになりました。めでたしめでたし。」となって、乗り越えた後の苦難に対してはきれいさっぱり忘れたり割り切ったりで、みんな「カッコイイ」生き方に辿り着く……というのが定番なんだろうけれども、本作では、夫婦二人とも未練たっぷりで非常に格好悪い生き方のままエンディングを迎えている。
多分、現実によくあるリアルな恋愛がここには描かれているのだと思う。少なくとも僕にとっては、共感可能な「リアルさ」がある。つきあい始めて2年以上が過ぎて今なお自分の中で消化しきれていない、手の届かない物への醜い嫉妬であるとか、取り返しの付かない物への下らない執着であるとか、そういう負の感情をいつまでも心の中に持ちつづけてしまうような人間は決して物語の主役を張れるような器ではないのだろう、そういう人間にフォーカスを当てた作品なんてものは無いんだろう、と思っていたんだけれども、これはそういう作品だった。
救いは無い。この先にあるのは絶望だけなのかもしれない。でももう逃げられない、この道を歩き続けないといけない。罪を背負って償い続けないといけない。赦されることは無い。癒えることのない傷を抱えていかないといけない。
きづきあきら氏という作家はこういう、人が目をそらしたい・「理想が描かれていて心地よい、物語の世界」から消し去りたいと思っている物を見せつけるのが本当に好きな人なんだなあ、Sなんだなあ、ということを改めて思った次第なのです。
僕自身は絶叫マシンはあんまり興味がなくて、進んで命を危険に晒すことのリスクと爽快感なり何なりとを天秤にかけても命の方が絶対に大事(より正確に言えば、死ぬのが怖いって事なんだけど)なので、風神雷神にも乗ったことはないのだけれども、名前は知ってるし下から見上げたこともあるので、このニュースの第一報には結構驚いた。
杜撰な運営が事故の原因だったとか、運営会社が中国のディズニーパクリ遊園地と同じだとか、後から出てくる情報に「うへーマジですかー」と驚くやらウンザリするやらでした。