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わが子の結婚 - 檜山正幸のキマイラ飼育記とか、友人の「結婚バトン」への回答とかを見て。
幼稚園児とかそのくらいの歳の子だと、ちょっと好意を持った異性の相手について、すぐ「○○ちゃんと結婚するんだー!」とか口走るものだと思う。その子に悪気はないんだな。ただ自分の事しか見えていなくて、相手の気持ちや、自分を取り巻く状況といったものが判断材料として組み入れられていない、ただそれだけのこと。
ンで、ふと思ったけど。キモヲタとか喪男とか呼ばれるようなタイプの人が何かの間違いで異性の好意に少しでも触れたら、すぐ「結婚!」と舞い上がってしまうという例(みんながみんなそうなのではなく、そういう人もいるということで)。これも、別に人格障害とかキモイとか一言で断じてしまわなくてはならないような病理などでは決してなく、むしろ致し方ないものなのではないかと思った。
何故なら彼らはそれまで異性と触れ合う機会が全くなかったのだから、色恋沙汰に関しては幼稚園児未満と言ってもよい。幼稚園児ですら好みの異性に対して「○○ちゃんと結(以下略)」のようなセリフを吐くほど恋愛のスタートラインが低年齢化したこの時代に、彼らはスタートラインにすら立っていなかった。彼が今スタートラインに立てば、幼稚園児の時点で既にスタートラインに立っていた人と同じ事を考えても何らおかしくない。
それは「子供の恋愛観」の芽生え。そのプロセスを経ずして一足飛びに「大人の恋愛観」に達することなどできないのではないか? 彼らに対して「年相応の恋愛観を最初から持っていろ」と命じることこそがおかしいのではないか? 放っておいても時間とともに進んでゆく肉体・精神年齢と、恋愛体験を通じてしか進み得ない恋愛観の成長度合とは一致しないのが当り前なのではないのか? 恋愛観の成長度合が低いからといって、それは本人の責任と言えるのか?
性欲には少なくとも2つ以上の段階があるのではないだろうか。異性(あるいは同性)一般に対する「物理的にヤリたい」欲求と、特定個人に対する「精神的なところまで深く交合したい」欲求。
前者は本来の意味での性欲だが、後者は性欲の一言で表すのはいささか乱暴だ。愛し合いたい(ヤリたいという意味の隠語ではなく)欲ということで「愛欲」という言葉を考えてみたけれども、これは普通に性欲の同義語として使われているように思う。何と呼ぶのが適切なのだろうか。
ともかく、思うのは、前者は風俗で解消できても、後者は風俗では解消できないだろうということ。
彼女もいなけりゃ現在特に気になる女性もいないという人ならば後者の欲求を持つのは理屈からいっておかしいのではないか? 相手が誰でもいい・相手がいないのにそんなことを考えてるのは、単に「恋に恋してるだけ」で「本当の恋ではない」んじゃないのか? ――といった表現で断じて思考停止してしまうのは早計なように思う。
「何に対して怒ってるのか自分でも分からないがとにかく無性に腹が立つ」とか「なんだか分からないが無性に不安だ」といった感覚は珍しいものではないと思う。
あるロボット研究の場においては、人間の感情をシミュレートする方法として、まず「快か不快か」で感情を分類しようとしたという。しかしそれだけではうまくいかず、結局「対象が明確かどうか」「具体的かどうか」の二つの軸を加えて3次元で感情を捉えることにしたそうだ。例えば「対象が明確で、具体的な、不快感」は「怒り」、「対象が不明瞭で、具体的な、不快感」は「恐怖」、「対象が不明瞭で、抽象的な、不快感」は「悲しみ」といった具合に。
誰かに対して怒っているなら、その誰かに対して怒りをぶちまければよい。何が怖いのか分かっていれば、それに対して備えをすればよい。でも、対象が不在だと(あるいは、こちらの感情が鎮まる前に消滅してしまうと)、振り上げた拳を振り下ろす先が見つからない。恐怖を軽減する備えのしようがない。そういうときには、いろんなものに八つ当たりしたり、何にでも怯えてしまったりする。対象が不在だから、解決の糸口が見つからないのだ。
それと同様に、対象が不在なままの「特定個人向けの性欲」というのもあるのではないか。僕らは、彼らは、ずっとそいつに悩まされてきているのではないだろうか。それが「風俗では満たされない性欲」の正体なのではないだろうか。
「恋愛感情」って、そういうのを言うのだろうか。もしかして。
――ということを、彼女が欲しい - Kammy+'s spaceブログ版というエントリのコメント欄でのやりとりを見ていて思った。
今まで「女なんてめんどくさいだけだ。そもそも恋愛なんてのは男に金を使わせていろんな業界がみんなして儲けるために作り上げた幻想だ。俺はそんな下衆な企てに踊らされたりせずに、一生孤高に生きるぜ。」とか言ってたような人が何かの間違いで彼女ができた途端に「恋愛っていいもんだぜー君も彼女早く作りなよー」と恋愛教の手先に変貌してしまうのは何故だろうか、と考えてみた。
人によっては、そういった行為は単なる「余計なお世話」「ゆるい同調圧力」だけれども、ある意味では「幸せを分け与えようとしている」「善意の奉仕者」「いい人」と言えなくもない。
で、ふと思った。「彼女ができた奴がこぞってそうなる」のではなく、「そういう奴だから彼女ができる」のではないだろうか、変化してそうなったのではなく元からあった資質が表出したのではないだろうか、と。自分の価値観での「幸せ」を譲れないものと信奉し、大事な相手にもその幸福観を押し付けようとする性質。
なぜなら恋愛って多くの場合は、互いに、自分の求めるものを相手がくれるという関係だと言えると思うから。互いに幸せを求めていて、互いに幸せを押し付けあおうとしているのなら、その「幸せ」のイメージさえ共通していれば何も問題は無いだろう。
その「幸せ」のイメージが合わないか、あるいは、需要が極端に少なかったり大きかったり、供給が極端に少なかったり多かったり、そういう時に、彼らのようなタイプの人は「性格の不一致」「価値観の相違」で別れることになるんじゃないだろうか。
とはいえ、そういう性質は「あると確率が高まる」という程度のもので、必要条件ではないのだろうとも思う。与えるばっかりで満足する人も、もらうばっかりしかしない人も、組み合わせ次第では相性良くぴったり収まるだろうから。
……なんか何言ってんのか自分でよくわからなくなってきた。
他人から愛を受けなければ他人を愛せない。他人を愛せなければ他人から愛を受けられない。本当に救いが無いですね。
子供の写真を年賀状に貼り付けるというのがよく分かる例だけど、どうして人はこうも自分の妻やら子やら子の作ったものやら(図画工作の授業の課題など)を他人に見せびらかしたがるのだろうか。――とずっと不思議に思ってたんだけど、なんだか少しその心理が分かった気がする。
見せたいのは、容姿や制作物の出来やなんかじゃあないんだ。「それを手にしている幸せ」そのものなんだ。物理的なそれそのものじゃあなく、自分がそれに対して抱いている思い入れなんだ。それが、「見栄」じゃあない「誇り」から来る自慢というものなんだろう。
誇れるものがたくさんあるということは、いろんなものを持っているということではなく、その人がいろんなものに思い入れがある、愛しているということなんだろう。
そう考えると、他人の子供自慢だとか嫁自慢だとかダンナ自慢だとかも、見てるだけで微笑ましく思えてきませんかね。
他の分野の人についてはよく分からないけれども、少なくとも僕が属しているような、視覚文化に関するヲタについては、なんだかんだ言って、面食い(外見の良さで人を選ぶ)的要素が他より強いことは否めないだろう。
「より美しいものを」「より見栄えのするものを」作ろうとする、買い集めようとする心理は、つまり、そういった物を良しとし、求めているからに他ならない。にもかかわらず「自分を愛してくれるなら外見なんてどうだっていい」などと口にするのなら、それはとんだお笑いぐさだろう。
だから開き直っちまえ、外見だけで選んじまえ――とまで言おうとは思わないけれども、自分自身がそういうものに心の奥深くでどうしようもないほど強く囚われていることの「業」は、忘れてはいけないと思うんだ。
……なんかこの話、前にも書いたことがある気がするんだけど。気のせいかしらん?
僕は本質的にはやっぱり「萌え」じゃ満足しきることはできない人間なんだろう。
萌えとは、ある意味では、恋愛感情の自家発電だ。自家発電で構わないという人もいるだろうけれども、自家発電では困るという人もいる。僕は困る方の人だ。誰か他人の目を通して承認されないと、自分で承認したのでは意味がないと思ってしまう。ということは、承認してくれる他者が必要だ。他者は自家発電では作れない。
ただ、満足しきれるかどうかということと、それでやっていけるかいけないかというのとは、また別の問題だ。例えば僕は満足しきるほど広大な大邸宅に済むということはできていないけれども、こぢんまりとした家でも生活は送っている。
生活に必要な電力全てを供給できものとして萌えによる自家発電を用いている人と、萌えでは電気スタンドを点けるくらいの電力しか供給できない人との違い、っていうかなんというか……