Nov 13, 2005

幸せをシェアすることと、シェアする幸せと、愛を感じること

でも、どうして他人に奨めるんだろ? 「幸せ」は譲れないからこそ、自分だけのものにしておきたいのに…。――これを見て、前のエントリで言いたかったことがやっと自分の中ではっきりした。

元々「他人と幸せを共有することに歓びを感じる」という性質がある人が、ひねくれて「他人の幸せに興味ないね」なんて言ってて、いざ彼女ができたらその本性が露わになる、だから恋愛教の手先になったような行動に出るのではないか。また、「他人と幸せを共有することに歓びを感じる」性質があるから、他人を幸せにしてやろうと(押しつけがましくも)考えることができて、それ故に、幸せを求めている異性をゲットできるのではないか。ということを僕は言いたかったんだ。

誤解されると困るので言っておくと、僕も僕の人生の歓びをまるごと全て他人に譲渡する気はない。自分の手元に物が残らない「譲渡」ではなく、自分も持ち続けることのできる「共有」か、せいぜい「お裾分け」程度が、僕のできる限界だ。

ただ、これは「素質」「才能」ではなく「性質」と敢えて言っているところに意味を込めたいんだけれども、自分が愛されなくては他人を愛せないってところにも通じるんじゃないかと僕は思っている。

今現在誰からも愛されていない喪男が素敵な女性に愛されることで「愛される歓び」を知り他人を愛せるようになる、というシナリオは、相当あり得ない。もしかしたらあるのかも知れないけど、限りなく「無い」に近い。だから現在誰からも愛されなくて困っている人は、これ以外のシナリオで「愛される歓び」を感じなくてはならないと思う。

全てのことに幸せを見出す、身の回りで起こる全てのことを祝福するのは、広義の自分が祝福されるのと同じであり、極論すれば自分を自分で愛するという事になるのだけれども、その間に「広義の自分、狭義の他人」というワンクッションをおくことになる。それ故、直接的に自分で自分を愛するよりは「他人に愛される歓び」を感じる疑似体験として有効に働くのではないだろうか。

エントリを編集します。

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