たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
以下、ネタバレ感想です。未視聴の方は読まないことを強く強くお勧めします。
仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA、神秘の法に続く、幸福の科学制作の映画のチケットを譲って頂いたので見てきました感想です。
総じて、実写にすることで違和感が引き立つというか粗が目立つというか、一線を張ってるプロの脚本家や声優や俳優ってやっぱすごいんだなあという事を逆説的に感じる結果となった次第でした。
宗教本体の教義がアップデートされるわけでは当然ないので、教義の説明部分は回数を重ねれば重ねるほど「あ、また同じ事を言ってるな」となっちゃうのは致し方ないんだけど、それにしても、以前に見た映画と同様に「言いたい事を言う」が優先されていて「伝わるように言う」がなおざりにされてるなあと思った。
例えば「メッセージ」(テッド・チャン「あなたの人生の物語」が原作の物)は「悲劇的な未来が既に決定されていても、それでも人はその選択をする、ということの尊さ」をストーリー内に織り込んでたし、「オデッセイ」(アンディ・ウィアー「火星の人」が原作の物)は「折れないこと、諦めないこと、ユーモアを忘れないこと、の大切さ」を主役の演技から演出からすべてを投じて描いてたし、「LEGOムービー」は「自由な発想を忘れないことの大事さ」を語りつつも「お堅いルールに自由な発想で立ち向かった主人公達が、さらに次元の違う自由さを目の当たりにする」という落とし方をしてたし。上手くやるやりようはいくらでもあると思うんですよ。
例えば、「地獄に堕ちる」とかの恐怖を語るんだったら徹底的にホラーに振り切って救いも何も無しに終わらせるとか。
例えば、修行の大切さを語るんだったら修行そのものにテーマを置くしんみりした作品にするとか。
例えば、退魔的なところにフォーカスを当てるんだったらエクソシストみたいなエンターテインメントに振り切るとか。
全部語ろうとするからシッチャカメッチャカになるんであって、1作で全部語ろうとしないで、それぞれ分けてちゃんと掘り下げなきゃ。
こっちの言いたい事を全部言いたいだけまくし立てても相手が聞いてくれるのは、相手が最初から好意を持ってくれている場合だけなんだよね。そう考えると、これはやっぱりまだまだ「身内」向けの物で、「外」に出す性質ものではないんだと思う。
トレイラー見てちょっと面白そうかなって思ってチケット譲ってもらったんだけど、実際見てみたら、見せ場だけ繋いで面白そうに見せるトレイラー編集の妙というか、あれはあれで大した技術だよねと再認識したというか……市井のレビューを見ても「宗教映画と知らずに見に行った。(僕の挙げてるようなツッコミの後)お金損した。」みたいに後悔してる物すらあって、なんというか、いたたまれない。身内向けなら身内向けと分かるように振り切る、外向けなら外向けでもっと外の人が見ても面白く作る、どっちつかずが一番罪作りだというのを実感する。単に不出来ならまだ仕方ないけど、「普通のセミナーを装ってて、誘われて行ってみたら宗教だった」みたいな狙ってやってるんなら、騙すのは駄目ですほんと。
対象視聴者でないにも関わらず「見たい」って言ってチケット譲って貰っておきながら(あまりに本編だけでは訳がわからなかったので補足情報を求めてパンフレットは買いました)、批評とも言えないようなくさすばかりの感想を公開するのって道義的にどうなん?というのはあると思うんですが、貰うだけ貰って何も言及しない方が問題かなと思って書いてみました。
NETFLIXで映像化されたやつを映画館で見てきた。「すげえええ~~これまさに『俺の見たかったBLAME!のアニメ』やああ~~」って大興奮だったんだけど、帰宅後原作を読み返したら意外と色々違ってた。「シドニアの騎士を経た後の弐瓶勉」感もミックスされて色々アップデートされたBLAME!と言った方が適切なようだ。パンフレットは売り切れで買えなかったので、以下パンフレットに書いてある話と違う的外れなこと言ってたらごめんなさい。
総じて、原作のぐにょぐにょした有機的イメージは抑えめで、メカはメカと分かりやすい描かれ方に統一されてるなあと思った。これはCG作画だからという制約による部分もあるのかもだけど。
とりあえず、この1作だけじゃなくもっといろんなエピソードをこのクオリティの映像で見せて頂きたい、そしてそれに浸りたい、なんならVRでこの超構造体に挟まれた階層都市内での生活を体験したい(絶対後悔するけど)、という「もっとこれくれぇぇぇええ!!」感を覚えた次第でした。
イミテーション・ゲーム / エニグマと天才数学者の秘密、やっと見た。
コンピュータの歴史をかじったことがある人なら知らない人はいないだろうと思われる超有名人の、現代コンピュータの礎を築いた1人であるアラン・チューリング(チューリングテスト、チューリングマシン、チューリング完全、といった言葉に今でも名前が残ってる)。エニグマ暗号の解読に関わったものの、晩年は同性愛の嫌疑をかけられて、最終的に自殺した、という程度の事は知ってたんだけど、この映画を見て初めて知った事もたくさんあった。
婚約者になった女性(ジョーン)が参加した経緯とか、脚色の部分も色々あるそうなんだけど、パンフレットを見ると上記の点は全部実話だとのことで、驚くほかない。
チューリングといえば計算機科学、みたいな連想をする人間からすると物足りないくらいにそういう部分の描写や説明は控えめで、メインはあくまで、上記のような特異な人物であったアラン・チューリングその人と周囲の人達の人間ドラマや政治ドラマという感じだった。とはいえ、それは全然正しい判断だし、アラン・チューリングという人の人生のハイライトをドラマティックに描いてるし、1つのストーリーとして綺麗にまとまっていて良かったと思う。IT系じゃない人でも全然面白く見れる。
その時代の常識から外れた「変な人」であったチューリングやジョーンが社会の中でどう扱われるのか、同性愛者として生まれてしまったチューリングが世間からどう扱われるのか、という所の描写もすごく考えさせられた。世の「普通」から外れる事が一体どういう罪だというのか。少なからず世の中のメインストリームから外れた所で生きている自覚があり、メインストリームに完全に合わせては生きられないとも思っている自分としては、他人事に思えず結構感情移入してしまった。
脚色はあるにせよ歴史的な事実の要点を知る事はできるし、それだけでなく、マイノリティの生き辛さを生々しく感じられたり、そういうのをなくしていかなきゃいけないという思いを新たにできたりするし、何より、一人の人の悲しく切ない人生の物語として、大いに見る価値のある映画だと思う。
年が明けてから、ベイマックスを見た次の日(1日で2本ハシゴするのはちょっと体力的に不安があったんです……)に楽園追放も見ました。
事前に仕入れていた情報では、フル3DCGの映画(いわゆる3D映画ではなく、人が人物を手描きしないトゥーンレンダリングのアニメという意味の)で、SFで、主人公のアンジェラの声が釘宮理恵で、3DCGによる生尻描写に妙に力が入っていて素晴らしいらしい、と。なんやそれ。
ほんで感想なんですけど、そこそこ面白かったです。でも突き抜けた感じの印象はなかった。「まあまあ、かな?」ほんとこれ。
いや、決して悪い出来ではないと思うんですよ。むしろよくできたアニメ。でも、期待していたほどの「今まで見た事の無かったすんげえ物を見ちまった」感が無かったっていうか。想定の範囲内に収まってしまったなあ感というか。「そうそう、俺が見たかったのはこれだったんだよ!」を外していたというか。
これは多分、見たタイミングも悪かった。手放しに大絶賛できたベイマックスの直後だったので、どうしても比べてしまって……(莫大なコストのかかった映像と比較して、っていう事だけじゃなく、ディズニーフォーマットの鉄板のシナリオと比べて、っていう意味で) あと、見たっていう人の評判が非常に良かったので期待しすぎたってのもありそう。
まあなんだかんだ言いつつ、限定版のブルーレイ注文したくらいには気に入ってるんですけどね。
思いつくだけでもざっと挙げてみると……
などなど、類例は多いんですよね。いや、別にこれらの特定の作品が参考にされたということではなく、これらの作品もまた他のルーツからの引用だったり孫引きだったりするのかもしれなくて、ともかく、今ではむしろ陳腐化してしまったと言えるようなネタだということで。
無論、「ありがちネタ」ばっかりの作品でも、思わず大絶賛したくなったような物はたくさんある。なのに、僕にとっての「楽園追放」は、なぜそうではなかったのか。そこが問題で。
多分、個々のガジェットや設定が「どっかで見たなあ」だったから、じゃあなくて、全体的に「どっかで見たなあ」ばかりに感じられてしまって、「楽園追放」で初めて見たと思えるものを見いだせなかったから、なんじゃないかと思う。「そうそう、俺が見たかったのはこれだったんだよ!」っていうのは、もっと詳しく言うと、「そうそう、俺はこれが見たかったんだけど誰も今までやってくれなかったんだよ! それをやってくれてありがとう! やっとこれで、今まで見たくても見れなかった物を見れたよ!」っていうことなんですよね。発想の転換なのか、予算が付いたのか、技術的ブレークスルーがあったのか、理由は何でもいいんですけど。
作品全体をまとめる一本通った筋というか、本質的なその作品ならではの何か(それがオリジナリティと言われる物なんだろう)があって、それを補強する材料として各種のガジェットや設定がある、という見方をした時に、補強材がどっかで見たようなものの寄せ集めでもそれは全然構わないと思うんですよ。その作品ならではの芯材があれば、「どっかで見たような要素」であっても「おおお、こういう見方ができるのか!」という新しい感動を生み出すから。でもそういう芯材が無い限り、「どっかで見たような要素」は「どっかで見たような要素」の域を出ない。
今まで、僕自身が好きだった作品に対して、他の人が「中身が無い」「空っぽだ」と評しているという場面が何度かあって、不思議に思ってたんですよね。「中身が無いだって? こんなに詰まってるじゃないか!」って。でも、今なら分かる。それはその作品を見る人の持つバックグラウンドによって生じる見え方の違いなんだ、と。古典や名作をたくさん見てきた人達が見た時に「この要素はアレと同じ、こっちの要素はアレと同じ。で、この作品ならではの物はどこにあるの?」と感じてしまう、というのを端的に言い表した言葉が、「中身が無い」という評価だったんだなあ、と。
僕自身そんなに熱心にたくさんSFを読んだり見たりしてる方ではないと思ってるし、映画だってそうしょっちゅう見てるわけでもない、漫画だって読んでる方ではあると思うけどその範囲はごく狭い、そんな視野の狭い僕ですら「あ、これはアレで見たやつだ」「これもアレで見たやつだ」と感じてしまった。それが、僕が本作を心の底から「面白かった!」と思うことができない理由なんじゃないかと思う。
設定だけじゃなく制作面でも、「ハイクオリティなトゥーンレンダリングで美少女キャラが電脳&物理バトル」というのは前年に蒼き鋼のアルペジオで散々見てしまったんですよね。あっちには生尻はほとんど出てこなかったけど。
もちろん、楽園追放の映像が僕の見たことのある既存のSFアニメに比べて高品質なのは間違いないです。お金も手間もかかってると思う。順当に進歩してる事を感じられる(アルペジオ見てなかったら、もっと感動してたかもしれない)。設定も、定番の設定を安直に使ってるわけじゃなく、この作品なりのひねりが加わってると思ったし。
でも残念ながら、僕が見たかったのは「前の作品に比べて良くなってるね。じゃあ前の作品に代わって暫定一位だね。本棚の一番いいところに置いておこう。次にもっと良くできた物が来たら、その位置は明け渡してもらうけどね。」っていう温度の物じゃなくて、「なんだこれ!! 前の作品とか他の作品とかどうでもええわ!! ようわからんけどこの作品単体が大好きになってもうたわ!! お気に入り作品の棚に突っ込んどくわ!!」っていう物だったんですね。ナンバーワンよりオンリーワンな魅力を求めてる。そういう意味で、本作はオンリーワンな物としてのパンチがちょっと弱かったと思うのです。
強いて言うなら「フル3DCGでここまでやれてる」っていうのがこの作品ならではのポイントでしょうか。だとしたら、仮にこれがフル3DCGじゃなかったら、僕は見てみようと思っただろうか。そこでYESって言えないかもしれないなあっていうのが、僕の率直な感想なんですよね。それに、それはあくまで「ナンバーワン」の方なので、いずれは追い越される運命にあるわけで。
見ていて人物達の個性が掴めないなあと感じてしまう箇所があったのも、僕の中で本作の評価がいまいち高まらない理由の1つな気がします。特にディンゴ。
シナリオの都合がいいように、その場その場で言う事考える事がコロコロ変わってるというか、作者の操り人形にされてるというか、そんな感じが否めなかった。いや、本当に思ってる・考えてる事と行動が一致していない、嘘をついている、敢えてそういう人物像を演じているだけで実はそういう人物ではない、っていう演出なのかもしれないんだけど。そしてそういう演出であるという事を僕が読み取れてないだけなのかもしれないんだけど。
この感覚に近い物を最近味わったなあと思ったら、あれですよ、アナと雪の女王のハンス王子。あの唐突感。それまで誠実な王子様だったのに、シナリオの都合上悪役が必要になった途端に、豹変して悪人になるっていう。元々のシナリオではエルサが悪の魔女の役回りだったのが、「Let It Go」の歌があまりに良かったからってんでシナリオを変更して姉妹の愛の物語にすることになって(←ここまでの経緯は制作者のインタビューで公式に語られてたので事実なんだろう)、それで悪役不在になっちゃったから適当な人物を代わりに悪役にしちゃいました、みたいな感じ。
「何かを演じている人」を描写するのって基本的に、鬼門っていうか難題っていうか、チャレンジングな事だと思うんですよね。「あ、この人はほんとはこうは思ってないんだな」とか「あ、この人はこう思ってるんだな」みたいなのが視聴者に伝わってないと、シナリオライター的には仮面を外して正体を現しただけのつもりが、正体も仮面も何もないただの操り人形だという風に見えてしまう。「実は、何々でした」っていうのは、丁寧な伏線無しに安直に使うと痛い目を見る。
同じ虚淵脚本のまどマギでキュゥべえがそういう豹変を見せてたけど、あっちがそう不自然に感じられなかったのは、キュウべえが一見すると可愛らしいマスコットキャラ風でありながら、アニメーションの中では妙に無表情で不気味な存在として描かれていたから、豹変した時にも「やっぱりね」と自然に受け入れられたんじゃないかと思う。
……こうも立て続けにこんな感想を抱いてしまうと、逆にやっぱり僕の方が話や空気を読めてなさ過ぎるんじゃないか?って不安になってくる。こんなに金と手間がかかった作品で、僕ごときがこんな風に思ってしまうような程の大穴が、残ったままでリリースされるわけ無いんじゃないのか。実はハンスもディンゴもちゃんと「嘘をついてる」ことを臭わせる伏線が張られていて、僕がそれを見落としていただけなんじゃないか。誰にでも分かる明々白々な伏線を、僕が読み取れていなかっただけなんじゃないか。僕は自分で思っている以上に、読解力も注意力も無い人間なんじゃないのか。どうなんでしょうか、実際の所は。
後で見かけた情報によると、諸々の都合から本来やりたかった尺よりもだいぶ短い尺でやらざるを得なかったそうなので、僕が抱いたような違和感は、本来の尺があれば解消されていたのかもしれませんね。
人によっては「紛い物じゃないホンモノの板野サーカスや!」みたいなのもあるのかもしれないんだけど、正直、僕はこの種の映像表現については「他の人がやってるのでも十分格好良く見えるんだけどなあ」って思ってるので、あんまりそこは有り難がれなかった。行きすぎると、過去を美化しすぎて新しい物を認められない老人って事になっちゃうし。いや、本作のバトルが格好良かったし見応えあったのは間違いないんですけどね。
クライマックスで出てくる新型メカ、よく見るとディティールが違うのは分かるんだけど、基本的にずっと激しく動いてるからというのもあって、これはあんまり違いがよくわからなかった。話の内容(設定)的に、新型と旧型をビジュアルや性能ではっきり分けると変だよねってのはあるし、現実的で妥当なラインだとは思うんだけども。
細かい所だけど、新型で降下中のバトルでの、コクピットが無人なのにペダルとかだけ動いてるっていう描写、あれはとても好き。ゼーガペインで「実際はこうなんだよな」って思ってたのが、いい感じに映像化されてたと思った。コクピット内に仮想アンジェラを投影するという表現の仕方もあるだろうっていうか一昔前ならそう描写されてたかもなって思うんだけど、ここは敢えての無人描写で正解でしょう。肉体をただのアバターの一形態としか思ってないっていう、データ人類らしさがよく現れてると思った。
あと、絶体絶命のピンチに駆け付ける救援だったり、タイムリミットが迫る中で何分間だけ凌ぎきれっていうミッションだったりっていう状況自体、定番だけどやっぱ燃えますよね。あのいまいち外連味の無いアーハンがあれだけ格好良く見えるっていうのは、そういう状況があるからって部分もあると思う。
これも誰かが言ってたと思うけど、「目新しい物は無いけど、無難によくできてて、そこそこ面白い。今の日本のアニメの技術力を表したマイルストーンとして価値がある。」っていうのが、今の所は僕の中でもしっくりくる落とし所ですね。蒼き鋼のアルペジオの視聴動機と同じで、マイルストーンを見るために映画館に行こうと思った、っていうのはやっぱりありますから。その意味では、ちゃんと良い物見れたなあって思ってます。
それに、ただの技術デモンストレーションのプロモーション映像ではなく、キャラクター達はキャラクターとして作画的にも演技的にも魅力的に成立しているし(「アンジェラの尻」ってのはそれを端的に言い表してる)、テーマ性もストーリーも演出もちゃんとあって、普通に映画として見れる、そういうラインはちゃんと満たしてる。昔の「DoGA CGAコンテスト」で見られたような、ロボットものパロディを「CGでやりました」っていう事こそがその作品の価値で、キャラクターがカクカクしてるとかデザインがダサイとかシナリオが無いに等しいとかそういう点にはどうか目を瞑ってください、みたいなのとはもう全然違う。そうでなきゃ、キャラ描写がどうとかシナリオがどうとか僕も言いませんもの。
冒頭にも書いたけど、ベイマックス直後の鑑賞での感想ということで、それに引きずられて冷静に見れてない部分はありそうなので、ディスク届いて再視聴したらまた何か書くかもしれません。
最初はあんまり興味なかったんですよ、ベイマックス。少年とロボットの心の触れ合い的な、いわゆる普通のハートフルアニメなんだろうなと思ってたから。WALL-Eもまだ見てないし、これもそのうち見る機会もあろう……くらいの感じで。
でも、たまたま行った銀座三越でベイマックス展みたいなのやってて、そこに実物大?ベイマックスの風船人形もあったんだけど、それよりもグッズ販売にあったオモチャのアーマーアップ・ベイマックス見て「え、何このオレンジのやつ。ベイマックスのライバルか何か?」と思って、検索したら元々ベイマックスの原作がマーベルヒーローの「Big Hero 6」というやつだということを初めて知って、「え、ディズニーでマーベルヒーロー!? どうなってんの?!」と、俄然興味が湧いてきまして。
年末が多忙すぎて見に行けなかったんだけど、年が明けてからやっと見に行きました。3D吹き替え。
で、感想なんですが、いやー、掛け値なしにとても面白かったです。「万人が楽しめるハートフルヒーローアニメ」って感じ? マーベルヒーローから暴力描写を抜いて可愛らしさをミックスするとああなるのか。ほんと安心して見てられる。ブルーレイ出たら買うんじゃないかな。
子供とその面倒を見るロボが事件を解決というフォーマット自体はよくある話の作り方だし(ドラえもんとか)、そのフォーマットの上で展開されるのはこれまた定番の「力を手に入れる→誤った選択をする→状況が悪化する→正しい選択をする→問題が解決する」っていうハリウッド映画の黄金パターン(自分がぱっと思いつくやつだと、アメイジングじゃないスパイダーマンの「スパイダーパワーを手に入れる→調子こいてたら悪漢におじさんを殺される→正義に目覚める」って話の流れはまさにこれ)。そこに色々なフレーバーを足して定番中のド定番を丁寧に作った良作。横綱相撲っていう評価は非常に的確な表現だと思います。
何をおいてもまずとにかく、ベイマックスが卑怯な程にカワイイ。歩く度にきゅむきゅむ音が鳴る(ラピュタの園丁ロボットみたいにわざわざ鳴らしてるんじゃなくて、風船ボディだから音が出るという描写)とか、優しい声だとか、真面目で言う事は杓子定規なんだけどそれでもヒロの言う事には逆らえず、ヒロの事をあの手この手でケアしようとする所とか。お尻が邪魔で本棚を崩してしまったり、空気漏れを自分でセロハンテープで塞いだり、パンチもキックもプニプニでまるで効果が無かったり、アーマーアップした後でも町の上空の機械の上で座ってる時に脚をゆらゆらさせたり、仕草もいちいちカワイイ。
しかし、ただのカワイイだけのキャラでもないんですよね。感情表現は限りなく薄くて、基本的には人をケアするというプログラムに忠実なだけだから、ケアプログラムを抜かれると途端に無慈悲な戦闘マシンに変わってしまう。その辺が、日本のロボット感と西洋のロボット感の差なのかもしれない。でも、ポータルを前に立ち止まる様子や脱出のシークエンス等は、まるでパーソナリティを持っているかのようにすら見えて、それがまたドラマチックさを強調してる気がする。受け手がそこに勝手に感情を見出してしまうというか。
そういえば、劇中では「あなたの健康を守ります」としか言ってないじゃないか、CMの「心とカラダを守ります」ってのは感動系映画に見せようとした恣意的な訳だ、なんて声もよく見かけました。確かに劇中のなんてことのない一言を大げさに切り取りすぎとは言えるかもだけど、これは案外「ケア」ってことの本質を突いてる切り取り方だと思うんですよね。ケアされる方も、常に悪態つかれてたり嫌そうな顔されてたりしたら嫌じゃないすか。それはいいケアの仕方ではないですよね。ベイマックスは見た目も喋りも動きも全て、人に警戒心や不信感を持たせないように設計されている。パンフレットには「実際の介護分野のロボットを参考にした」的な事が書かれてたし。ディズニー侮れない。
そんなベイマックスは、主役の片割れではあるんだけど、ヒロの現状を映し出す鏡でもあるんですよね。ヒロが未熟な間は未熟な振る舞いを見せるし、ヒロが怒りに駆られた時は無慈悲な破壊マシーンになるし、ヒロが成長したら彼の背中を押す親のようになる。そういう意味で主人公はやはり、ヒロなんですよね。
第一印象はちょっと傲慢な少年なんだけど、自分の知らなかった物や事に触れた時にちゃんと受け入れる素直さもある、聡明なキャラクターとして描かれている。安直な天才少年キャラだと、自分の計算結果を過信して頑迷なイメージがある(そして、その頑迷さを打ち砕く事だけで1つのエピソードになりうる)と思うんだけど、ヒロはそうじゃないという所に、僕はより聡明さを感じさせられました。
でもヒロがそういうキャラクターに見えるのは、彼の周りにいる仲間達もまた同様に聡明な人達だからこそなのかもしれない。ヒーロー戦隊の他のみんなは同じ研究室のメンバーでそれぞれが得意分野を持つ科学者だし。フレッドも、本人は知識がないにせよ科学は好きで、分からない物を分からないと認めはするけど軽んじはしない。それってかなり「できた」人の振る舞いだと思うんですよね。
そう、この作品では全編通して、科学者に対するリスペクトが溢れてる感じがあるんですよね。いや、まあリスペクトに溢れてるってのは言い過ぎかも知れないんだけど、でも少なくとも、よくある典型的な「頭はいいけど実戦ではからっきし駄目」「知識はあるし頭の回転も速いけど傲慢」みたいな描かれ方はされてない。一人の天才科学者が人格的にも高潔で……っていうのでもなくて、(優秀な学生達というフィルタリングはなされているにせよ、)普通に科学の徒をやってる人達が、ボサボサ頭にヨレヨレのネルシャツという感じのテンプレートにはまっていない「普通の人達」として描かれていて、自分の持っている力をヒーロー能力として活用するっていうスタイル。それが僕にはとても新鮮に感じられた。
そういう意味で、研究好きな人とか科学好きな人とかで「どうせ俺らは主役にはなれないんだ」みたいな鬱屈した思いを抱えてる人にとっては、鬱憤を晴らしてくれる話かもしれない。だいたい、研究者とか科学者とかでキャラが立ってるキャラクターって、いても全キャラの中では二軍止まりって印象が僕にはあるけど、それが一軍、それもチームで第一線ですよ。これを痛快に思わずにいられますかってもんです。
3D上映だと空を猛スピードで飛ぶシーンとか臨場感満点で、それだけでも僕としては「映画館で見る価値あったな」と思えました。自宅で気軽にHD映像を視聴できる昨今であっても、視界を覆うような大スクリーンでいい音響で映像を見るというのはそれだけでもうエンターテインメントなので、見るならやっぱり良い物を見たいじゃないですか。
あと、ゴチャゴチャした町並みの感じがCGアニメーションで描かれているという様子そのものも、僕は面白かったです。サンフランシスコと東京の両方をミックスした仮想の未来都市の風景は、それ単体でビジュアルとして見応えがある。帝国少年みたいなイラストや、精巧なミニチュアを鑑賞するような感覚に近いかも。
アバターの時にも思ったけど、モノクロ映像がカラー映像にグレードアップするように、ジェットコースター・ムービーとしての映画において「3D」は明らかに「2D」よりも上のグレードなんだと思います。すべての映画が3Dになるのかどうかは分からないけど、少なくとも、より高いグレードの没入感や爽快感を得るなら3Dだよね、っていうのは言えると思う。本作もブルーレイ出たら買うだろうと思ってるんだけど、そうなるとやはり3Dが見れる再生環境も欲しいなあって思ってしまいます。
とりあえず、ディズニー映画にもヒーローものにも抵抗がない人は、見ておいて損はないと思います。ということで。
リメイク版のロボコップ見たんですよ。
端的に言うと、映像格好いいしドンパチやってるし結構面白かった。でも、旧作ロボコップ(特に1)のセンスが良すぎて、それを知ってる状態で見てしまうと見劣りしちゃうなあ、と思ってしまった。
まあなんというか、ドハマリするほどでもないんだけど、見て後悔するほどではない、きちんと作ってある今時の映画やなーって感じでした。
アナと雪の女王見てきた。3D字幕。
率直な感想としては、映像美すげーなあと思いました。ほんとに雪山にいるみたい。3D映像のためだけに映画館に行く価値ありだと思います。同時上映のショートフィルムも、3Dならではの演出で面白かった。
映像美以外でも、楽しく見られる映画だなあと感じた。実はこの手のディズニー映画はちゃんと見るのは初めてだったんだけど、いちいち小ネタが効いていて、見てる人を飽きさせないなあと感心する事しきりだった。「映像が動く楽しさ」というか「動く映像だからこその楽しさ」というのか、そのための心配りが隅々にまで行き届いている。ディズニーリゾートの楽しさに通じる気がした。
いまいちノリきれなかったのは、話の運びの細かい所がアラとして気になってしまったからなのかなあ、と思ってる。(あと、字幕の翻訳。直訳が多いせいなのか、こなれた日本語になってなくて「??」ってなる事が多かった。)
前出の批評の受け売りだなあと自分で思うけど、総じてちぐはぐな印象を受けた。「両親が死んで姉妹だけが残される」とか「愛してたと思ってた人が裏切る」とか「姉妹の愛が問題を解決する」とか「王女は真実の愛を見つけて結ばれる」とかの断片的なお話を並べて繋げて1つの映像作品にしましたというふうな。あるエピソードから次のエピソードに至るまでの「過程」の描写がことごとく欠けてるように、僕には思えた。まあ、ディズニー映画ってそういうものだよということなら、そういうものか、で納得するんだけど。
誰が言っていたか忘れたんだけど、「自動的なヒロイン」という言葉があったと記憶していて、どういう物かというと、動機付けや翻意のきっかけといった適切な心理描写も無しに何故か勝手に主人公に恋してくるという感じの、客観的に「それならそうなるのも当たり前だよね」と思えるだけの材料の積み上げを省いたままに、作者が「このキャラには最終的にこういう行動を取らせたい」と思った通りの行動だけを取らせてしまって、結果的に「なんでそのキャラがそういう行動を取ったのかが、そういう役だったから、という事でしか説明できない」状態になってしまったキャラ描写を揶揄した言葉だったと思うんだけど、それに近いものがあちこちにあるような気がするんだよね。
例えばハンス王子は、エルサが出奔したときも、アナの馬が戻ってきたときも、「面倒な事になりやがったな、クソッ」みたいな表情をチラリとも見せない。実際の計算高い人間だったら確かにそう簡単に真意を漏らすはずもないだろうし、だから自然な描写としてはそうあるべきなのかもしれないけど、大衆向けの作劇としては、それは分かりにくい。くどくても、ニヤリとした口元であるとかの細かい描写を重ねて「コイツは腹黒いキャラだ」という種を撒いておくべきじゃないだろうか。だって、べつに、ハンス王子の真意を探るサスペンス作品じゃないじゃないすか、この映画って。裏切りの直前まで、隠しておく必要がないでしょ。最初から「いかにもコイツは裏切りそうなキャラだ」と描いておいても、登場人物達にそれを気取らせてさえおかなければ、観客は「ああ、駄目だよアナ! そいつに頼っちゃ駄目!!」とハラハラさせられ、「ほらやっぱり裏切られた! あーあ……」と落胆させられて、どんでん返しで「やった!」と盛り返す、そういう楽しさは十分に味わえるはず。
単に僕に読解力・共感力が無さ過ぎるせいなのだろうか。世の中的には十分ヒットしてるようだし、そうなんだろうな。
……と思って検索したら、ハンス王子は他の登場人物に対する鏡として設定されていたという考察が見つかった。なるほど、それならキャラとしての心理描写の薄さ・動機の薄さにも納得できる。
そういう整合性がどうとかの点を気にしないで、映像美に酔いしれ、動きの面白さに目を奪われる、「アニメーション映画」を見るという事ならではの体験にフォーカスして楽しむ限りにおいては、十分楽しくて面白い映画だと思いました。小難しいこと考えないで頭空っぽにして見るのがいいってことですね、これは。雑念を抱えたまま映画館に行ってしまった僕の負けです。
はがないの映画見てきましてん。
実は原作未読・アニメ未視聴で、1巻の序盤の所だけチラッと読んだ事があるのと、あとはWikipediaで各キャラの設定・関係性を把握していたという程度の前知識だったので、最初に実写化の報を聞いた時には「フーン」って感じだったんですよね。でもPVが出てきて、ストーリーは映画オリジナルだということが公式サイトに書かれていて、それなら自分でも取っつきやすいかも(原作もアニメもマンガ版も既に結構数が出てるから、今から見始めるのはハードルが高いなあと感じてたんですよね)、と思って興味を持ったのでした。
結論から言うと、普通に楽しめました。映画館に2度見に行くか?と言われるとそうでもないのですが、ブルーレイあたりで出たら買って棚の中に置いときたい感じです。「涼宮ハルヒの消失」とか、映画館で見たけど後で買ってはいないという物もあるので、それらに比べると気に入ってますね。
総じてダイジェスト感・安上がり感が強く、いくつか要素削ってその分個々の要素を丁寧に描いて欲しかったなあという感想を持ちました。例えば夜店のシーンはもっと使ってよかったんじゃないかなあとか、講堂に集まった生徒は低品質でもいいからCGで増やしてもっと全校生徒感を出して欲しかったなあとか。
ただ、話としては「小鷹少年がなんやかやあって成長の片鱗を見せるという所までの成長物語」「不器用な少年少女達が友達という関係を築くまでの物語」としてうまくまとまっていて、後味爽やかな印象です。まだまだ彼らの前には多くの苦難が待ち受けているだろうけれども、成長した彼ならきっと乗り越えていけるだろう、そんな希望を感じました。僕が「ディスク買おう」と思ったのもそれが理由なんじゃないかなあ。
特に、「恋愛物語」じゃなく「友情物語」であるところが良かったなあと思います。この先恋愛に発展するのかどうかというのはさておき、少なくとも本作で描かれた範囲内では「彼らはいかにして友達という関係を築くのか」という所にフォーカスしていて、恋のさや当てや駆け引きといったドロドロが出てこない。大勢いる嫁候補の中からさあどの娘を選ぶのだ?みたいな視点で見なくてよくて、実に健全で、安心して見ていられました(所々入るあざといエロカットは不健全ですけどね!!!)。
しかし、そう見ると主役はやはり小鷹、夜空、星奈の3人ということになって、他のキャラが「成長物語」「友情物語」にあんまり絡んでいないのが残念だったなあと思えてしまいます。個性の強いキャラ達がどんどん出てきてハーレムが形成され、さあこれからどうなんの、と思ったら上記3人以外はどんどんフェードアウトしてしまう(その場にはいても「いるだけ」になってしまって、そのうちほんとに退場しちゃうし)ので、拍子抜けしてしまったんですよね。それだったら、複数のキャラを1つにまとめるとかしてでも、主要な3人の(あるいは主役2人の)話であるという形で見せた方が分かりやすかったんじゃないかなあ、と。でもまあそれやっちゃうと元のキャラが好きな人からはきっと大ブーイングだろうから、やりたくてもできない事ではあるんでしょうけどね……(追記。実際、星奈の父とか後で他の人の感想を見たら、原作とかけ離れすぎてて原作ファンほど大ブーイングという感じみたいだった。サブキャラでこれなんだからメインキャラだったら……おおこわ!)
ともあれ、僕にとってはこれは手元に置いておきたいと思える1作でした。とりあえず主題歌はiTunesで買っちゃいました。
僕は日常的に映画の感想を語り合うような友人がいないので、自分が見た映画の感想をWebで検索してニヨニヨしているのですが、映画を見終わった後に本作の感想を検索してみたら、まあなんとも酷評されまくりで、「えぇぇ……僕楽しめたんだけど、僕の方がおかしかったんか……?」となってしまいました。(その後さらに探してみたところ、酷評オンリーというわけでもないようだったので、ちょっと安心しましたが。)
言われてみると確かに、シナリオの質だったり演技の質だったりは手放しで「最高!!!」と絶讃できるものではないと僕も思うし、誰もが見るべき・後世に残すべき名作とまでは、正直なところ言えないです。
ただ、「客観的に言って出来が良いか悪いか」と「主観的に好きか嫌いか」は全然別の話で、僕の場合はこの作品(映画)に対してはどっちかというと「好き」の部分の方が大きいんですよね。欠点は確かに多いんだけど、なんか、心に引っかかる。放っておけない。「パシフィック・リム」の時に「見立てが必要のないクオリティの圧倒的な映像って素晴らしい」みたいな感想を持ったけど、それはそれとして、見立てが必要でも「好き」であれば僕の中では映像のクオリティもそこまで問題にはなりませんでした。
誰かが「人に積極的に勧められるほど面白いかっていうとそうでもないけど、ゴミカスって言われると否定したくなる」という感じのコメントをしているのを見ましたが、僕の感想も一言にまとめるとそういう感じになるような気がします。実際に見た人が酷評するのは妥当だと思いますが、まだ見てない人が「だから実写はやめとけと……」といった下げ方をしているのを見ると、ちょっと擁護したくなってしまいます。
そんな風にもしかしたら心のツボに引っかかるかもしれないので、そう毛嫌いしないで、機会があったらレンタルででも見てみるといいんじゃないでしょうか。と、まだ見てない人に対しては言っておきたいと思います。
公開から数日経って、相変わらず客の入りは大変悪いようですが、感想をちらほら目にするようになってきました。まとまったレビュー記事を見た感じでは、「原作と違いすぎてダメ」「単体の映画として普通につまらなかった」「(期待しないで見たら)案外楽しめた」の3パターンが多い印象を受けました。以下、自分が見かけた物。
先日、パシフィック・リムを見ました。
「ハリウッドで、巨大ロボと怪獣が闘う映画が作られました」というと、こう、なんていうか、「怪獣が現れた!(最初の30分のイントロ)→人類がピンチだ!(この辺をたっぷり描く)→巨大ロボ完成した!(この辺でもう残り30分くらい)→どうにか退けた!→やったね!(エンドロール)」という感じの、ビミョーに残念な物が来るんじゃないのかなーって、本作の最初のニュースを見た時は思ったんですよ。その記事にあった画像のロボのデザインも、ああなんだかアメリカンなテイストだなあ、違うんだよなぁ「コレジャナイ」んだよなぁ……とガックリくる感じだったし。
それで映画の存在をすっかり忘れてた頃に公開が始まったわけですが、なんか妙な事になってたんですよね、自分の観測範囲の景色が。Twitterのタイムラインでは、「パシフィック・リム最高」みたいなTweetがフォローしてる人のTweetだったりその人によるRTだったりで妙に流れてるし、フィードを購読してるブログ(普段は辛口・うるさ型な感じの記事が多い)でも大絶讃されてるし。こうなると俄然興味が湧いてきまして。Tweetで紹介されてたNAVERまとめも見たりなんかして、一部の人に絶讃されてる割に興行的には苦戦しててあっという間に映画館から姿を消してしまいそうだみたいな記述も見かけて、これはちょっとほんとになるはやで見に行っとかないとヤバいなという焦りが出てきまして、コミケが終わって一段落付いた後にようやく3D吹き替え版を見てきたわけです。
結論から言うと、最高だった!!の一言に尽きます。
どのくらい良かったかというと、あまりに最高すぎて超ドハマリしちゃってうっかり2回も見に行ってしまい(初回は3D吹き替え、2回目は3D字幕)、さらにもう1回(2D字幕)行く予定になっています。同じ映画を何度も映画館まで見に行くのは人生で初めてです。パシリム成分に飢えすぎて、ブルーレイの発売(12月)を待てずにサウンドトラックのCDも買ってしまいました。
ライムスター宇多丸さんのムービーウォッチメンでも「減点はあるけど、怪獣で100億点、巨大ロボで100億点の、200億点満点からのマイナス15点くらいだ(=19999999985点)」なんて高評価がなされてたりして、もう既に多くの人によって感想とか評論とか色々と出尽くしてしまってるんですが、せっかくだから自分も記念に書いておこう、と思って書き始めたのがこのエントリというわけです。
巨大怪獣が太平洋の海底から突如出現して、環太平洋地域の都市を襲ってきましたよと(タイトルの「パシフィック・リム」とはまさに「環太平洋地域」という意味)。で、最初の何体かは核兵器で倒したけど、核兵器は使った後が大変だし、でも怪獣はまだまだやってきそうだし、なんかクリーンな倒し方が必要だと。それで開発されたのが、全高80メートルの巨大ロボット(劇中では「イェーガー」と呼称される)だと。操縦はパイロット2人が協力して行い、主にぶん殴って怪獣にダメージを与えて倒しますよと。そういう設定のお話です。
という設定から真っ先に想起されるのは多分やはり「「怪獣が現れた!(最初の30分)→人類がピンチだ!(この辺をたっぷり描く)→巨大ロボ完成した!(残り30分くらい)→どうにか退けた!→やったね!」ってな感じのハリウッド式パニックムービーテンプレだと思うのですが、本作ではこれを最初の10分くらいで「前回までのあらすじ!」みたいなノリであっさりと消化してしまいます(本作は何かの続編ではなくて完全新作なんですが、そういう感じでさらっと流されちゃうという事です)。劇中でメインのエピソードとなるのはむしろその先の、対怪獣の切り札・イェーガーを環太平洋地域の各国がそれぞれ保有するようになってから後の話。
一旦は盛り返した人類であったものの、怪獣がだんだん強くなってきて、せっかく作ったイェーガーもどんどん倒されていく。今まで快進撃だった主人公機も、新たな敵に思わぬ苦戦を強いられ、辛くも勝利したもののこちらも大ダメージで倒れてしまう。破滅が刻一刻と迫ってくる追い詰められた状況での、主人公の復活から起死回生の最終決戦までが、たっぷり2時間使って描かれています。
そう。本作は「パニックムービー」ではなく、まさしく「巨大ロボ対怪獣の映画」なのです。
スーパーマン然り、スパイダーマン然り、ハリウッドでは度々アメコミヒーローが実写映画化されていますが、それらは基本的にはちゃんとヒーロームービーしてる印象があります。なので、また何か別のヒーローが実写映画化されると言われても、そんなに驚きは感じないというのが僕の正直な所です。
が、巨大ロボとか怪獣とかの「日本のお家芸」のハリウッド映画化となると、俄然不安になります。というのも、「ゴジラ」をハリウッドで1998年にリメイクした「GODZILLA」が非常に残念な出来でしたし、「DRAGONBALL EVOLUTION」も、設定を聞くだけで「ないわー……」な感じでした(←ということで僕は未見)。
多分なんですけど、アメコミヒーローの実写映画は、作り手の人達の中にちゃんとそのヒーローの事が好きな人がいるんだと思うんですよ。あるいは自分自身ではそこまで好きというわけではないとしても、そのヒーローのどういう所がファンに愛されているのかという事が、皮膚感覚としてそれなりに理解できてるんじゃないでしょうか。
でも巨大ロボとか怪獣とかドラゴンボールとかになってくると、それらの題材のどこがファンに愛されているのかがさっぱり分からない、想像も付かない、肌感覚で分からない……っていうのがあるんじゃないかって思うんです。それで、分からないなりに自分の感覚でどうにか分かる形に当てはめようとして、トンチンカンな答えを出しちゃう、っていう。ハリウッド映画に限らず、いろんな所でありふれてる話ですよね、こういうの。今が旬の剛/力/彩/芽が主演する作品の原作にビブリア古書堂が大抜擢されました、みたいな(これはちょっと違うか)。
ちなみに、ロボといえばトランスフォーマーの実写化がありましたが、あれは意志を持った金属生命体型宇宙人同士の闘いの話なので、日本語で言う所の巨大ロボとは趣がちょっと異なります。あのノリでロボ対怪獣を作られると、まあ映像は多分凄いんだろうとは思うんですが、やっぱりそれはなんか違うな……って。
そういう心配は、パシフィック・リムについては、後から思うと全くの杞憂でした。なにせ監督のギレルモ・デル・トロ氏自身がとんでもないオタクで、来日した際には中野ブロードウェイのまんだらけや秋葉原のショップで怪獣グッズを買いまくるという筋金入り。一番のファン目線の持ち主が、映画監督としての実績も実力もあるプロとして、巨額の予算を好きに使って「自分が見たかった映像」を作るわけです。非常にありがたい話ですよ、これは。
すごい映像というのは、それだけで商品価値があります。
ストーリーはかなり単純、メカデザインは(主役機は特に)ダサいくらい。でも、ものすごいコストをかけて「男の子が夢想するような巨大ロボ対怪獣の映像」を真面目に作り込んである。その圧倒的な映像の前では、他の部分の粗なんてどうでもよくなる。本作はそういうタイプの映画だと思います。
その対極として、「これは視覚的表現としてはショボいけど、本当はこういう凄い物を表現してるつもりなんですよ、だから見る人の側で見立てて脳内補完して楽しんで下さいね」という種類の作品もあります。能や狂言、文楽などに至っては、そういう「見立て」がなければ成り立ちません。観客の側が「こう見るのだな」ということを勉強しないと楽しめない、そういう娯楽です。
本作に対する世の評論等を見ていると、日本で作られる怪獣映画、特撮作品は、そういう「見立て」を強く必要とする領域に突っ込んでしまっている……といった指摘が目につきました。例えば近年ではエヴァQと同時上映された「巨神兵東京に現る」がありましたが、あれはエフェクト等はすごいなあと自分は思ったのですけれども、肝心の巨神兵自体はどうにもゴムっぽい質感が見えるというか、作り物っぽさが目立つというか……それを観客の側が「これは、実在していたらこういう物なのだ」と「見立て」ないとリアルな映像としては楽しみきれない、そういう印象を僕も受けました。
「見立て」スキルの持ち主でなければ楽しめない作品、という事を考えてハッとしました。僕自身が「見立て」スキルをあまり持っておらず、あるいは成長の過程で失ってしまっていて、古い特撮の作品(例えば「エイリアン」の第1作だったり、「ロボコップ」だったり)を見ると、セットや衣装の粗やチャチさが目について楽しみきれない、そういう所が実際にある気がしたからです。
本作は、そんな自分でも無心で楽しめました。それは、「見立て」る必要が無いほどのリアルな映像表現があったからこそなのではないかと思います。
本作の制作費(広告宣伝費含まず)は、ものの記事によると1億9千万ドル。これは「アバター」の制作費(2億ドルちょい)に迫る勢いで、日本円にすると180億円以上。予算規模では文句なしの大作です。こういう凄い額のお金がかかってる映画を、ビッグバジェットと言うという事を僕は今回初めて知ったのですけれども。それだけかければこれだけの映像が作れる。逆に言うと、これだけの映像を作るにはそれだけの金がかかる。世界中で上映して稼ぐという前提があるために1作の映画に巨額を投じられるハリウッドでしか作れないであろう、本作はそういう作品なんですね。
本作のメカデザインは、日本のロボット物に慣れた目からすると、ぶっちゃけそんなに洗練されてない印象を受けました。洗練されてないというか、「外連味溢れる格好いいメカ」とは違うベクトルのデザインであるというか。
劇中で活躍していた「ストライカー・エウレカ」や、オープニングにチラッと登場していた「タシット・ローニン」は、そういう意味では「格好いいメカ」の系譜にある物なのですけれども、主役機の「ジブシー・デンジャー」は相当にダサイです。というか、ストライカーは当初は主役機用に作られたデザインだったらしいのですけれども、デル・トロ監督曰く「これじゃ格好良すぎるから」ということで敢えて今のジプシーのデザインに変えたんだそうで、その事からも「なるほどジプシーは誰の目から見てもやはり、流行りのラインからは外れたダサめのデザインなのだな」という事はうかがえます。
ですが、実際の映像を見ているとこれが驚くほどに気にならない。むしろ、ジプシー格好いい!!!と全力で頷いてしまう勢いです。
結局の所、「∀ガンダム」然り「地球防衛企業 ダイ・ガード」然り、本編中で活躍してそれが格好良く描かれていれば、そのメカは格好いいメカという事になるのでしょう。活躍を見た側の脳内に、あのメカは格好良く活躍していたのだという思い出が残されることによって、かつてはダサく見えたメカが、格好良く見えてきてしまう。そういう事なのだと思います。
というわけで、僕は7インチフィギュアのシリーズもだいぶ欲しくなってきてます。香港決戦に参加した4体、できれば揃えたいです。
総括すると、僕にとってこのパシフィック・リムという作品は、「そば屋で食べた美味いもりそば」と言うことができると思います。
思えば、過去に僕が気に入ってきたメカや作品の多くは、豊富な具が売りの5品割子だったり、豪華なエビ天が載った天そばだったり、スパイスがきいたカレーそばだったりという物に例えることができるのでしょう。確かにそれらは美味かったし、何度でも好んで注文する。そば自体もそれなりに美味い。それなりに美味いんだけど、物足りないから具を付ける。
でも本当に素材から良い物を使って、腕のある職人によって打たれたそばは、もりそばだけで十分楽しめる。口に入れると、これがそばだ!という香りがプンプン漂ってきて、物足りなさを感じることがない。話が単純だとか、メカがダサイとかいうのは、「なんでこのそばには具が付いてないんだ」と文句を言うような物なのだと思います。もちろん具が付いてくればそれはきっと美味しく楽しめるのでしょうけれども、無いからダメだというものでもない。むしろ、装飾が少ないからそば自体の良さが引き立つ。ストライカーのピンチに駆け付けてレザーバックに全力で殴りかかるジプシーの格好良さは、あれが仮にスパロボオリジナルのメカのようないかにも格好いいデザインであったとしても多分格好良く感じられたでしょう。でも、あのジプシーで十分格好良いのです。もっと派手なメカにするのは、「あのジプシーであの格好良さ」に飽きてからでも遅くないでしょう。
そば屋に行って、そばカレー定食セットのカレーを食べて、「このカレー超うめえ!!!」って言ってる人がいようがいまいが、「このカレー、シャバシャバで超まずい!!!」って言ってる人がいようがいまいが、その店がそば屋である事には変わりないし、一番の売りはそばなワケです。脚本が良いのか悪いのか、演技が上手いのか下手なのか、僕には正直よく分かりませんが、少なくとも一番の売りである「巨大ロボ対怪獣」を邪魔するような違和感のあるものではなかったと思ってます。そばの味を邪魔するような薬味やつゆでないのなら、僕は文句は無いです(もちろん、美味ければそれに越した事はないのですけれども)。
これが、例えば構成が実写デビルマンのようにメタメタだったら、マコの吹き替えが「TIME」のヒロインを吹き替えた篠田真理子の声だったら、一番の売りの良さすらもスポイルするようなとんでもないものになってただろうなと思います。が、パシフィック・リムについては、場面設定、脚本、演者の演技、音楽などなど、「巨大ロボ対怪獣」という主題が映える・それを引き立ててくれる、必要十分の基準を満たすレベルであったと僕は思っています。
そばが好きだったのに、気がついたら赤いきつねと緑のたぬきや乾燥麺や工場生産の安いそばでは満足できなくなってしまって、そば自体を食べなくなってしまった。でも心のどこかで、そばを食べた時のあの感動をもう1度味わいたいと思っていた。それが、職人の手打ちのそばを食べて、そばってこんなに美味い物だったんだ!と、かつての新鮮な感動を取り戻す。本作で得られるのは、そんな感動だと思います。幼い頃に巨大ロボや怪獣に燃えていたのに、でも大人になった今の目で見るとチャチさに耐えられなくて正視できなくて残念な思いをしてしまう、そんな人にこそ、パシフィック・リムはぜひ見て欲しい一作です。
また、巨大ロボや怪獣は映像がチャチいから興味ないんだよね、という人にもぜひ見て欲しいです。その人がそれらのジャンルを避けていたのが、巨大ロボや怪獣に興味が無いからではなく、たまたまこれまで出会った作品の映像のクオリティが高くなかったからだけだったのであれば、本作は、その偏見を吹き飛ばす力を持っていると思います。
レンタルのDVDなんかではなく、映画館の大スクリーンで3Dでこそ、見て欲しい。それだけの価値がある映画です。
8月9日に公開開始されて1ヶ月以上が経過し、全国的には上映がすっかり終わってしまった頃合いですが、ファンの熱い声援に支えられて、各地で本作のリバイバル上映が決定しています。現時点(9月29日)での情報は以下の通りです。
上記一覧は2ちゃんねるの「映画作品・人」板にあるパシフィック・リムスレからの転載です。このスレに最新の情報が集まっているようなので、映画館で見てみたいという人はチェックしておくと良いと思います。