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アナと雪の女王見てきた。3D字幕。
率直な感想としては、映像美すげーなあと思いました。ほんとに雪山にいるみたい。3D映像のためだけに映画館に行く価値ありだと思います。同時上映のショートフィルムも、3Dならではの演出で面白かった。
映像美以外でも、楽しく見られる映画だなあと感じた。実はこの手のディズニー映画はちゃんと見るのは初めてだったんだけど、いちいち小ネタが効いていて、見てる人を飽きさせないなあと感心する事しきりだった。「映像が動く楽しさ」というか「動く映像だからこその楽しさ」というのか、そのための心配りが隅々にまで行き届いている。ディズニーリゾートの楽しさに通じる気がした。
いまいちノリきれなかったのは、話の運びの細かい所がアラとして気になってしまったからなのかなあ、と思ってる。(あと、字幕の翻訳。直訳が多いせいなのか、こなれた日本語になってなくて「??」ってなる事が多かった。)
前出の批評の受け売りだなあと自分で思うけど、総じてちぐはぐな印象を受けた。「両親が死んで姉妹だけが残される」とか「愛してたと思ってた人が裏切る」とか「姉妹の愛が問題を解決する」とか「王女は真実の愛を見つけて結ばれる」とかの断片的なお話を並べて繋げて1つの映像作品にしましたというふうな。あるエピソードから次のエピソードに至るまでの「過程」の描写がことごとく欠けてるように、僕には思えた。まあ、ディズニー映画ってそういうものだよということなら、そういうものか、で納得するんだけど。
誰が言っていたか忘れたんだけど、「自動的なヒロイン」という言葉があったと記憶していて、どういう物かというと、動機付けや翻意のきっかけといった適切な心理描写も無しに何故か勝手に主人公に恋してくるという感じの、客観的に「それならそうなるのも当たり前だよね」と思えるだけの材料の積み上げを省いたままに、作者が「このキャラには最終的にこういう行動を取らせたい」と思った通りの行動だけを取らせてしまって、結果的に「なんでそのキャラがそういう行動を取ったのかが、そういう役だったから、という事でしか説明できない」状態になってしまったキャラ描写を揶揄した言葉だったと思うんだけど、それに近いものがあちこちにあるような気がするんだよね。
例えばハンス王子は、エルサが出奔したときも、アナの馬が戻ってきたときも、「面倒な事になりやがったな、クソッ」みたいな表情をチラリとも見せない。実際の計算高い人間だったら確かにそう簡単に真意を漏らすはずもないだろうし、だから自然な描写としてはそうあるべきなのかもしれないけど、大衆向けの作劇としては、それは分かりにくい。くどくても、ニヤリとした口元であるとかの細かい描写を重ねて「コイツは腹黒いキャラだ」という種を撒いておくべきじゃないだろうか。だって、べつに、ハンス王子の真意を探るサスペンス作品じゃないじゃないすか、この映画って。裏切りの直前まで、隠しておく必要がないでしょ。最初から「いかにもコイツは裏切りそうなキャラだ」と描いておいても、登場人物達にそれを気取らせてさえおかなければ、観客は「ああ、駄目だよアナ! そいつに頼っちゃ駄目!!」とハラハラさせられ、「ほらやっぱり裏切られた! あーあ……」と落胆させられて、どんでん返しで「やった!」と盛り返す、そういう楽しさは十分に味わえるはず。
単に僕に読解力・共感力が無さ過ぎるせいなのだろうか。世の中的には十分ヒットしてるようだし、そうなんだろうな。
……と思って検索したら、ハンス王子は他の登場人物に対する鏡として設定されていたという考察が見つかった。なるほど、それならキャラとしての心理描写の薄さ・動機の薄さにも納得できる。
そういう整合性がどうとかの点を気にしないで、映像美に酔いしれ、動きの面白さに目を奪われる、「アニメーション映画」を見るという事ならではの体験にフォーカスして楽しむ限りにおいては、十分楽しくて面白い映画だと思いました。小難しいこと考えないで頭空っぽにして見るのがいいってことですね、これは。雑念を抱えたまま映画館に行ってしまった僕の負けです。
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