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以下、ネタバレ感想です。未視聴の方は読まないことを強く強くお勧めします。
本作のファーストインプレッションを「いい葬式だった」と例えてる人がいて、その人の感想と自分の感想は違うかも知れないけど、自分の言語感覚でも「的確な例えだなあ」と思った。
エヴァンゲリオンの新劇場版という一連の作品群は、「見たい物を見せてくれる」部分と「想像もしてなかったものを見せてくれる」部分という、相反する2つの事が期待されるコンテンツだと思う。
TV版放映当時は「想像もしてなかったものを見せてくれる事への驚き」で毎回の放送を楽しみにしていた記憶があるけど、新劇場版では、視聴者であるこちら側の「見たい物を見せて欲しい」期待の比重が増えた気がする。「現代の技術でリメイク」という背景からすれば当然か。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、ちゃんとその両方を満たす作品だったと感じた。ただ、TV版、旧劇場版、漫画版と見てきた自分にとっては、全体としては想像の範囲に収まってしまった、という印象が否めなかった。
いや、驚きは確かに前半にあった。「Q」であれだけ絶望のどん底に叩き落とされて、もう人類はヴィレ以外誰も残っていないのか? トウジも死んだのか? みたいに思ってた所で、ところがどっこいみんな生きてました、と懐かしい面々が次々に登場するくだりは、とても意外で嬉しかった。まったく想像もしていなかったものを見せてもらって、このくだりだけでも、大きく感情を動かされた。涙目にすらなってた気がする。
また、戦闘シーンは「派手な映像を見たい」というこちらの期待に応えてくれていた。結末までの一連のくだりは、登場人物達が精神的に救われて欲しいというこちらの思いに応えてくれていた。なので、「見たいものを見せてもらった」のも間違いない。
ただ、驚きのかなりの部分が序盤で出尽くしてしまって、「驚かされた満足」がその後の「見たい物を見た満足」で薄められてしまったのだと思う。後半にもちょいちょい驚き要素はあるにはあったけど、それらは、そこまでの話から予想できる範囲の驚きに留まってしまった気がする。今までボケボケ画質だった物がクッキリ綺麗に見えるようになったら、それは確かに驚くし新鮮に感じるんだけど、大まかなシルエットそのものは変わっていなかったので。
例えば、ゲンドウの動機がユイと再び相まみえることであったのは、旧劇場版や漫画版で度々描かれてきていたから、それらのコンテンツを追ってきた人には、それが今作でもはっきり描かれたとしても、そのこと自体に「ええええ!」と驚く部分は無いわけで。
あ、でも、新劇場版だけ見てた人には十分な衝撃だったんだろうか。だとしたら、そこは新劇場版から入ってきた人達(どれくらいいるんだろう?)を羨ましく思う。
今回、登場人物達の心の変化が時間をかけて丁寧に描かれていたのは、とても良かったと思う。具体的には、シンジが立ち直るまでの経過と、ゲンドウが生まれ育ってユイと出会い離別して心乱れるまでの経過が、非常に丁寧に描かれていたと感じた。
エヴァンゲリオンという作品の本質を、謎めいた設定や世界観の方にあると考えた場合、今回も多くの謎が投げっぱなしのままで、スッキリしないまま終わってしまったと言わざるを得ない。
でも、エヴァンゲリオンという作品の本質は人物ドラマの方にあって、世界観はそれを描くための舞台装置に過ぎないとするなら(TV版最終話でも、スタジオっぽい風景がわざわざ描かれていたことで、暗黙的にそうだと示されていたのだけれど)、今回の映画は過去作で見られなかったレベルでスッキリする終わり方だった。
TV版当時から追いかけてきた人達の多くは、後者の捉え方をしているのではないだろうか?
これまでのエヴァンゲリオンは、ドロドロの葛藤は丹念に描かれていたけれど、葛藤を乗り越える過程の部分はあまり描かれてこなかったように思う。葛藤を乗り越えるくだりは、あっさりサラッと終わるか、状況に流されてなし崩しでそれどころじゃない状況に上書きされてしまう、みたいな描かれ方になっていたことが多かったのではないだろうか。
視聴者の感情はいつも置いてけぼりで、腑に落ちる間を与えてもらえなかった。その極致が「Q」で、視聴者だけでなく主人公のシンジすらも、結局最後の最後まで何も納得できないまま放り出されてしまう始末だった。
それを考えると、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、端的に言えば、「Q」までで放り投げられていたものを丁寧に回収して回ったアフターケアだったと感じた。前述した通り、設定上の謎は謎のまま放り投げられた部分が多々あるけど、人間ドラマ的に気になっていた部分はほとんど全部回収されたと思う。各自がそれぞれに気付きと救いを得て、わだかまりが解け、あるいは飲み込む決断をし、葛藤をちゃんと乗り越えられたな、と感じた。
アスカに嫌味を言われても穏やかな様子で「うん」と応えられるようになったシンジは、たったの数日で「大人になった」とまでは言えないにしても、いじけて格好付けることよりも大事なことがある、今することはそういうことではないと、なんとなく理解できたんではないだろうか。
アヤナミレイ?が消えた後、また激しく取り乱して御破算になってしまうのでは? と思いきや、再び崩れることなくすぐに立ち直れたのは、今回はそれまでと違って、決定的に肝が据わったことの現れなのではないか?
そういう風に肝が据わったシンジが覚悟を示したからこそ、ミサトはシンジの選択を再び後押しできたし、サクラもミドリも自分のエゴを飲み下す決断ができたのではないだろうか?
そういう風に葛藤を乗り越えたシンジだからこそ、ゲンドウと対話できる資格を得られて、そういうシンジと対面したからこそ、ゲンドウも、今まで語れなかった葛藤の詳細を、息子相手にここまでつまびらかにできたのではないだろうか? 何より、だからこそシンジもそんなゲンドウの心の叫びを、黙って聞いて受け止めることができたのではないか?
TV版および旧劇場版と漫画版は結末が違っていたし、新劇場版での展開の違いや、カヲルの言動もあって、エヴァンゲリオンの物語世界は何度もループしているのではないか? ということは以前から言われていた。
仮にそうだったとして、「Q」までを見た時点では、この先にそんなループを脱出できる未来があるようには、僕にはとても思えなかった。またいつものように、切羽詰まった状況でやいのやいの追い立てられて、半泣き気分で過酷な選択を迫られる、そんな結末になるのではないかとちょっと思っていた。
でも、今回はそうならなかった。(仮にそれが自分自身であったとしても)「正解」を知っている者の立場からチクチク言われて追い立てられるのではなく、迷い悩んで苦しむ側の人が、時間をかけて腑に落として、自ら腹を括って歩き出す、そういう丁寧さと、それを静かに見守る優しさを僕は感じた。時間的な長さは、そのために不可欠な物だったんだと思った。
何が今までと違ったのか。僕は、シンジの立ち直りがすべてのきっかけだったのではないか、と感じた。それが連鎖的に作用して、後半の展開の要所要所での各キャラクターの感情の動きに繋がったのではないか。ほんのちっぽけなことではあったけれども、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」(アニメでは2期)の「エンドレスエイト」の無限ループを脱出するきっかけになった一言のように、今まで決定的に欠けていたピースがそれだったのではないか、と。
大人になったトウジやケンスケに見守られていたことは、アスカとの腹を割っての対話は、シンジにとってプラスに作用したことは間違いないだろうけれど。シンジ自身が立ち直れていなければ、彼らの言葉もシンジに作用することなく、ただ虚しく右から左に通り過ぎてしまっていたのではないだろうか。
キャラクター達の感情面のモヤモヤがスッキリ解決された今では、僕ら視聴者は安心して、残された設定の謎をああだこうだ言って考察することができる。物語に決着を付けつつ、あの頃のような楽しみ方をさせる余地をも残す、完璧な畳み方だったと言えるのではないだろうか。
ただ、あの頃の皆の熱心な考察が、行き場を失ってしまった感情的なモヤモヤを抱えたままというフラストレーションからくる代償行為だったのだとすると、スッキリしてしまった今回は、あの頃ほどには盛り上がりも長続きしないのではないか?という気はする。
「いい葬式だった」という例えが僕にとってしっくりきたのは、旧作からずっと追い続けてきた人にとって、そういう形でついに、エヴァンゲリオンというIP自体に引導が渡されたと感じたからなのではないかと思う。
マリというキャラクターは、結局のところ、話を上手く回してまとめるために便利屋として作られ、使われたように感じた。
ゲンドウとユイの出会いの場にも居合わせて、(「シキナミシリーズ」という言葉が登場したことから類推するに)「マキナミシリーズ」としても生まれ変わって、最後のエヴァンゲリオンと共にシンジを引き戻して、最後は手を取って走る……そんな彼女自身がどういう動機・信念で、何を望んでそうしたのか、ということが僕には最後まで掴めなかった。飄々と状況を楽しむのが彼女の動機のすべてで、彼女自身にそんな深い考えは元々なかった、ということなのだろうか。
主役級として物語の進行に深く関わっているキャラクターの中で、彼女だけは、作中で葛藤もしなければ、その克服も描かれなかったと思う。他のキャラ達が身動きを取れなくなった場面で、唯一自由に動ける遊撃手。カヲル君に極めて近い、いや、カヲル君すら上回る、完全なる超越者の立ち位置だったと思う。「いい葬式」の例えで言うなら、葬儀屋さんか葬儀場のスタッフか、とにかく葬儀そのものの埒外の存在だと感じた。
マリという便利なキャラクターがいたことで、今回の新劇場版が綺麗に終われた一方で、新劇場版全体を綺麗に終わらせるための歪みを、マリというキャラクターは一手に引き受けることになったのではないか、という気が僕はする。まさにその名の通りのデウス・エクス・マキナ。役割や設定が変わっていても、TV版からのキャラクター達だけで話がまとまっていたら、そのほうが美しかっただろうに、と、旧作から見ていた自分はつい思ってしまう。
(2021年3月12日追記。マリは「庵野監督の内面を投影されたキャラクター達が織りなすエヴァンゲリオンの世界」においての、「安野モヨコという、外からやってきてまったく異なる行動原理で動く存在の投影」であるから、浮いているのは必然だ、という感じの考察を複数観測した。納得のいく説明ではあるけど、だとしても、もうちょっと作品に馴染ませるか、もしくは、カヲル君のように「こういう理由で超越者なのだ」と作中で説明を付けるかして欲しかったなと感じる。)
エヴァンゲリオンはこうして終わって、作中で主要登場人物が子をなして世代交代したりもしたけれど、じゃあ自分はそれだけの時間をかけてどう変わったのだろう? と振り返ると、結婚はしたけれど子供はおらず、時間を投じてきたことは後の世代に残るようなことでもなく、僕は一体何をしてきたんだろうな……と、悲観的な気分についなってしまった。経済がここまで停滞し続けて、少子化も高齢化もどんどん加速して、こんな行き詰まった世の中になってしまうなんて、想像もしなかった。すべては自分の選択の結果で、誰に文句を言えるものでもないのだけれど。
旧劇場版が「お前ら四の五の言わずに大人になれや!」と視聴者をぶん殴ってくる物だったとするなら、今回は「彼らはちゃんと腹を括って前に進んだよ。さあ、君はどうする? まだそこにいるのかい?」とやんわり椅子を追われたようなものかもしれない。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のディスクを、棚の中にもうある「序」「破」「Q」の隣に大事にしまって、過去の思い出にして、前に進まなきゃな。と思った。
ということで、はよブルーレイ出てほしい。(公開がこれだけ延期されたんだから、もしかして封切り日から会場で売られてるなんてことがあったりしないか?と思ったけど、さすがにそれはなかった……)
2020年3月10日追記。
他の方の書かれた感想で、本作をこき下ろしている物を見て、見ている風景のあまりの違いに圧倒された。
この記事では、ストーリー的な凡庸さと、映像的エンターテインメントとしての凡庸さについて、それぞれ否定的な言葉が重ねられている。実のところ、指摘されている諸々のことは、自分も納得できる部分が多かった。それらについて、「凡庸なストーリーに決着したのがいい」とか「映像的には凡庸だけど、それで構わない」というのが、僕の感想なのだと思う。
僕自身が人生の中で色々な経験をしたことで、「エヴァンゲリオン」というタイトルへの思い入れが相対的に薄れて、その上で何年も待たされて、「もう、決着を付けて終わらせてくれればなんでもいい」くらいにまで期待値が下がりきっていたから、それで諸々の粗を敢えて気にする気分にならなかった、というのはあるかもしれない。
あるいは、僕は、先の記事で指摘されている諸々のことの多くを「粗」と認識してすらいなかったとも思う。例えば第3村の営みや人物描写について、先の記事は(その人の思う)綿密な考証に基づいた(その人の思う)理想的な描写と比較して「ご都合主義」とこき下ろしているように僕は感じたけれど、僕は、僕自身の想像の及ぶ考証以外の何らかの考証があるのかもしれないのだから、僕の知る範囲の理屈での整合性なんて厳密に考えないようにしている。冒頭で「封印柱」について「エヴァ同様、人外未知の未解明システム」という台詞があったくらいなのだから、封印柱に囲われた領域の中だけのどかな生活が実現されてるということもあり得るんじゃないの、とか、カメラの画角外ではもっと厳しくて嫌な現実があるのかもね、とか、そんな程度に思っている。
今に至るまでの間にあった色々なことを踏まえた心境の変化によって、そのように作品を受容するようになったのだろうか。それとも、昔から僕はそうだったのだろうか。あるいは、「エヴァンゲリオン」というタイトルが、僕にとっては所詮その程度のものに過ぎなかった、ということだろうか。自分とまったく異なる感想を目にして、自分と「エヴァンゲリオン」というタイトルの距離感について改めて意識させられた。
知識量があるともっと多くの情報を読み取れるようで、長かった10代の終わり、エヴァが想い出になった日。(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想 ※ネタバレ注意)|祥太|noteという記事を読んで、「うわー自分の理解は解像度が全然荒いなー」と感じた。まあ、でも、そういう荒い解像度でしか見れてなくても、僕は楽しめたけどね。
2021年3月15日追記。「カメラを止めるな!」の監督として有名な上田慎一郎氏が、今年に入ってからTV版、旧劇場版、新劇場版の一気見感想をシン・エヴァへの道と題して配信されていて、その最終回でシン・エヴァのことが語られてたんだけど、映画の文法に基づく解説が大変興味深かった。
曰く、映画(映像作品)とは基本的に、「日常から始まって、非日常を描き、新たな日常に回帰する」という構造を持つ物なのだけれど、エヴァというコンテンツは今の今まで一度も日常に回帰していなかった、ずっと投げっぱなしだった、と。旧劇場版では「日常に帰れ」という旨のメッセージは発信されていたけれど、物語は日常に回帰していなかった。ずっと尻切れトンボのままで、だから僕ら視聴者は25年もの間、いつまでも終わらない夢の中を生きることにもなってしまっていた。それがエヴァというコンテンツの魅力の1つだった。でも今回、26年目にして初めて、最後に新たな日常に回帰する様子が描かれた。だからこれで物語が本当の終わりを迎えたんだ、と。だから、物語が完結したことに満足しつつも、「いつまでも終わらない夢」は今回残されなかったということに、どこか不満を感じてしまうんだ、と。
自分は、シンジが今回初めて「腑に落ちて」「腹を括った」から、物語に決着が付いて終わったんだ、と思っていたけれど、全体の構成に目を向けると、そういう捉え方ができる、ということには思い至ってなかった。不満の残る物語だったから視聴者がいつまでも囚われていたんだと思っていたけど、そうではなく、物語が日常に回帰していなかったから視聴者も日常に回帰しきれなかったんだ、と。そう言われると、どうして色々不明点はあっても視聴後にスッキリとした「終わった」感があったのかにも、納得がいく。
ゲストの方の評の中でも、各キャラクターの心境の変化を考えるヒントになる描写が実は色々とあったということが語られていて、この話を聞いて、またシン・エヴァを見返したくなった。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2021-03-09_evangelion.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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