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tokyo-emacsで何故か言及された話のことを考えてて改めて思ったんだけど。もうそろそろ本当に「非モテ」という言葉と自分を関連付けて語らない方がいいな……と思うようになってきた。
「非モテ」という言葉の定義自体が今となっては拡散しまくってて訳が分からんことになってるので、改めて自分の認識を示しておくけれども、僕は「非モテ」とは単なる「モテない」とは違うと思ってる。自分が他人から愛されないことを辛いと感じる。誰でもいいから誰か一人でも自分を必要として欲しいと思う。自分と自分を取り巻く世界との繋がりを欲している。人生の主役になれていなくて、主役になりたい。それを切実に感じ、満たされない思いに苛まれている。ということを僕は「非モテ」という言葉で言い表したいと思ってる。人によっては全然違う認識かもしれない。なのであくまでこれは僕が思う「非モテ」ということで。
益田ラヂヲさんほか何名かの方々から(ちゃんと把握してない。すんません。)再三言われてはいたけれども、なんか「居心地が良くて」決別できてなかった。でも、自分の今の心境であるとか置かれた状況であるとかを改めてよく考えてみて、「スゲー非モテの人(非モテでスゲー人? 非モテのスゲー人?)」と言われるには相応しくないと、今では思ってる。
一番大きかったのは、元彼女と別れた後、「あれ、一人で生きていけそう?」と思えたという事だと思う。付き合うまでや、つきあってからずっと、ひょっとしたらカウンセリングを受けるようになるまでずっと、「異性と付き合える」という事柄が何より大きな価値を自分の中で占めていた。他のどんな事で評価されていても、恋愛できない人間に生きる価値は本質的にはないんだろう、遺伝子を残せない奴に価値はないんだろう、世間はそういう人間を本質的には評価しないんだろう、そう思ってた。
世間的にはやっぱりそうなのかもしれない。やっぱり僕には価値がそれほど無いのかもしれない。でも、以前と違って今はわりと「別にそれでいいよ」「羨んだってしょうがないし」「どうせ手に入らないし」「それは僕の居場所じゃないし」と思うようになった。「自分に自分の居場所があるのならそれでいいじゃん」と思えるようになった。と思う。
書かなきゃ書かなきゃと思ってまだ書けてない加齢会のこともそうだ。人に言われて初めて「そうなのか!」と思ったのだけれども、そこにはちゃんと僕の居場所があったようで。その事に本当に今の今まで注意が向いていなくて。それはとても良くないことだと感じた。無自覚に人の厚意を食い潰して、「そうしてもらって当然」とすら思わない――意識すらしない、そんな風なのはとにかく良くない、と思った。
折しも、最近彼女ができて。これを機に、自分の中でひとつけじめをつけた方がいいんじゃないかという気がしてきたんで。だから「非モテ」という言葉と自分とをしつこく関連付けて語るのは、やめようと思う。少なくとも、自分がその代表(の一人)みたいなツラをしたり、そういう風に受け取られそうな事を言ったりするのはやめようと思ってる。自重しようと思う。
いや、彼女ができたら非モテ卒業、というのは多分違うんだろうと思う。自分の気持ちが楽になってないなら、本人にとっては何も救いになってないわけで。僕自身「あれ、なんか自分と非モテって言葉を関連付けるのに違和感があるな」と思えるようになったのは、前述の通り、元彼女と別れて以降だったわけで。でも、まあ、「別れた」の時に「非モテ」と自分とを切り離す機会を逸してしまったので、今がその次のちょうどいいきっかけのように思ったから。
今度の彼女との関係? うん、今の所良好だと思いますよ。(←デレデレした感じで)
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