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「性的に消費」という言葉について、表現の影響について - Apr 30, 2022

表現の自由と表現規制の話題の中でも、特に女性に関する表現の話題でよく出てくるキーワードに「性的に消費」という物があります。自分でも、何かと便利でこのフレーズを使いたくなってしまう場面は度々あるのですが、一方で、厳密な定義づけがないままで、解釈が人によって分かれるフワッとした言葉を自分に都合よく使う事への後ろめたさもありました。

そういうモヤりを抱えたままで、「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中でうっかりこのフレーズを使ったところ、「定義が曖昧な言葉を使う前にまず説明をするべきである」という趣旨の指摘を受けたため、本腰を入れて、このフレーズについての自分の認識を改めて整理し言語化してみようと思います。

 

2022年5月1日追記。消えて無くなるわけでない物に「消費」の語を使うのは不適切だ、という指摘を頂きました。
本は読んでも消えないし、CDは聴いても消えないけれど、ブームが去ったら読み返しも聞き返しもしない、といった事を「音楽が消費されている」のように言う事がありますが、僕はここではそのような意味で「消費」という語を使っている認識です。
「一意な存在としての特別な思い入れを持たない使い方」を一語で指す物として便利と思って自分は使っていますが、一種の比喩だとは思いますし、「思い入れの有無で使い方に貴賤を付けるのは、価値判断を議論に混入させており不適切だ」という指摘は確かにあると思いますので、よりニュートラルで適切な語を使うよう改めるのは、自分としては有りです。ただ、今のところ他にいい語を自分は思いつけずにいるので、この記事では便宜的に「消費」の語の使用を継続させて頂きます。
以上、追記でした。

 

他の人がどういう定義で使っているかは分からないですが、自分が「性的に消費」という言葉で指す対象は、例えば以下があります:

  • 他者が主に自身の個人的利益・満足のために、性愛対象の人物やその周辺の物事に物理的に接触する事。例:
    • 身体に触る(無断でやれば痴漢)
    • 援助交際等の買春
    • 着用済みの衣類を入手する(無断でやれば窃盗)
    • 着用済みの衣類の臭いを嗅ぐ
  • 他者が主に自身の個人的利益・満足のために、性愛対象の人物やその周辺の物事に情報的に接触する事。例:
  • 他者が主に自身の個人的利益・満足のために、性愛対象の人物を情報的に利用する事。例:
    • 写真・映像に撮る(無断でやれば盗撮)
    • イラストのモデルにする(僕の著作にもこの要素がある事は否定しません)
    • 視姦する(余談ですが、「エロいイラストや写真」の流布は、この事の「このくらいやっても非難されないだろう」という社会的な肯定度合いを強めるのではないか、場合によっては自主規制の必要もあるのではないか、というのが自分の考えです)
    • 声を聞く
    • 想像の中で卑猥なことをさせる
    • 思い出してオナネタにする

挙げた例は男性が女性に対して行う消費のケースが多いですが、自分の認識では、消費する側・される側がどちらの性別であるかは問わないと考えています。

(2022年5月1日追記)また、「消費か、そうでないか」と「犯罪か、そうでないか」や「相手を傷付けるか、傷付けないか」、「非難に値するか、そうでないか」などは、それぞれ直交する概念だと僕は考えています。なので、
「性的な消費だが、犯罪ではないし、非難には値しない」(店主のイケボ目当てで店に通い詰めるなど)
「性的な消費で、非難に値するが、犯罪ではない」(路上でのしつこい声かけ、ナンパなど)
「性的な消費ではないし、犯罪でもないがが、非難に値する」(単純なパワハラなど)
など様々なケースがあると考えており、この記事ではその中で「性的な消費で、且つ非難に値する」ケースに特にフォーカスを当てています。

また、程度の問題もあり、「相手を見ればもう性的な消費で、非難に値する」という話ではなく、「度が過ぎれば咎めるに値する場合がある」という感じです。

 

いずれにしても、当人が責任を引き受けられる状態・状況で自主的に許可する場合は、非難にあたらないと思っています。例えば、成人女性が、強要を迫られているわけでない状況で、自分の意志に基づいてAV出演の同意書にサインする、といったケースは非難に値しないと僕は考えます。

逆に言うと、筋力差や権力差などを利用して、一方的にこれらのことを行うなら、性的な価値の不当な搾取を伴う消費にあたり、非難に値する場合がある、と自分は考えます。
例えば先のAV出演の同意の例も、監禁や洗脳などで正常な判断を行えない状況で無理に同意書にサインさせたようなケースは、強く非難するに値すると考えています。

 

他者を性的に消費する際は、原則として両者間での合意が必要である、と自分は考えています。
が、先に述べたとおり、合意無しでの消費がすべて批判・非難や「被害」の補償に値するとまでは考えていません。消費の度合い、「被害」の大きさ、状況など、様々な要素を加味して考えなくてはならないと考えています。
具体的には以下のような例があります:

  • 「チラッと視界に入っただけ」や「自ら好んで露出の多い服を着て移動した際に、その道中にすれ違う通行人の視界に意図せず飛び込んでしまい、相手が興奮を感じてしまった」のような事故的な発生については、能動的な消費にあたらず、補償の責任は基本的に無いだろう、と僕は考えます。
  • 抽象的な「女子高生のイメージ」をイラストに描くことについて、忌避し一律に禁止したい人もいるようですが、自分は、一律に禁止するほどの必要性がある例は少数であろうと考えています。
  • 視姦について、相手が全く気付いていないので、あるいは記録媒体に記録していないのであれば、実害は発生していないと言えますが、相手が気付いていて不快感を抱いているのであれば、あるいは、第三者がそれを認知して恐怖を覚えているのであれば、実害が発生していると言えると思います。
    • ただし、見ていた意図が視姦のためなのか別の目的なのか、見られた側の不快感が被害妄想に基づく物でないかどうか、などの証明が現実には非常に困難である事に異論はないです。被害の保護・救済・補償を優先すれば、内心の自由に抵触したり冤罪が発生したりし得ますし、「疑わしきは罰せず」を優先すれば、口八丁での言い逃れを許して被害者に泣き寝入りを強いることもあり得ます。この点に抵触する場面では、より一層慎重で厳密なケースバイケースの判断が必要で、一律にこうするべしという「結論」を事前に出しておく事はできない、と考えています。
  • 想像したり思いだしてシコったりするケースも、そのこと自体が実害を生じるわけではないので、非難にはあたらないと僕は考えています。これを非難したり禁止したりするのは、内心の自由の明白な侵害だと思います。
    • むしろ「シコっていいですか?」とわざわざ確認する事の方が、このようなケースではセクハラ性が増すのではないかと僕は思います。

 

一般的傾向として、男性は女性より体格的に優位である事が多く、相手の同意なしにこれらの消費を行えてしまい、実害を与えてしまえる場合が多い、と自分は考えています。
そのため、身体接触を伴わない消費であっても、女性の側が恐怖を感じ予防的な行動を取らされる場合が多く発生し、結果的に抑圧となる、と自分は考えています。
例えば、自分が視姦されるかもしれないと感じ、電車やバスなどの公共交通機関を安心して通勤に利用できなくなってしまう、などのケースです。

自分はそのような恐怖を「被害妄想だ」と切って捨てる事はできません。
全く別の体験談ですが、自分はアメリカ西海岸やイギリスに行った際、自分よりも優位な立場の人達に囲まれて(物理的に包囲されたわけではなく、1つの密室内にいる、といった状況)、もし彼らに横暴をされても逆らう事も助けを求めることもできない、という感覚を憶えました。
仮にそのような環境に生活していて、マスメディア上で日常的に、小柄なアジア人がからかわれたりいじめられたりしていたら、自分もそのような不愉快な目に遭うかもしれないという恐怖を憶え、公共交通機関を安心して利用できない可能性が、それなりにあるだろうなと感じます。

そのような「安心して何々できる権利」は一般的に保護するに値しない、と考える立場もあると思います。(2022年5月1日追記)また、「そのような素朴な恐怖感に基づいて、アメリカで白人が黒人を、日本で日本人が外国人を、『不安だ』と言って排除するのが、まさに今現実に起こっている差別じゃないか」という指摘は正しいです。「安心して何々できる事」を保護する場合は、差別にならないように、その特定の状況下において、立場が弱い側が安心できる事、という限定が必要だと僕は認識しています。

自分は、「特定の属性を持つ既に強い立場にいる人だけが安心して何々できる」「特定の属性を持つ弱い立場の人は安心して何々できない」という不公平は、基本的に減らしていくのが望ましい、と考える立場を取ります。
(あらゆる人が基本的に安心を享受できるべきである、という相互保証の形での大義名分以外には、自分が「特権的に」安心を享受できる理由を説明・正当化できない、と考えています。)

公共交通機関を使えないなら自家用車なりタクシーなりを使えばよい、と考える立場もあると思いますが、自分はあくまで、論理的必然性がないのに公共インフラの使用が妨げられるのは望ましくない事だ、と考える立場を取っています。
なので、なるべく多くの人が安心して公共インフラを使用できるよう、技術的な解決であったり制度の整備であったりといった改善を図っていく事を支持したいです。
その過程で、それまで傍若無人な振る舞いができていた人が、そのような振る舞いを保護する論理的必然性を見出せなかったり、そのような振る舞いが他の公共インフラ使用者の権利を害する物であったりすると判断され、行動の幅を狭められる事も発生するだろう、とは思います。
その一例が、いわゆる表現規制の議論なのだという認識の仕方をしています。

 

性的な消費を取り扱った、ある表現が当たり前の事として社会にありふれている事と、「このくらいの消費の仕方は無断でも許容される」という社会的な合意のラインとの間には、何らかの影響が、少なくとも互いに補強し合う影響はあるのではないか、と僕は考えています。
「他者を一方的に性的に消費する表現」が当たり前のこととして社会にありふれていると、「このくらいの事はしても非難されるに値しない」という価値観が強化されたり、被害を訴えても無効化されやすくなったりする、と僕は考えています。

例えば「オヤジ上司が通りすがりに女子社員の尻を撫で、女子社員は腹を立てるだけで終わる」「女性におさんどんをすべて任せて、男性は宴会」という場面が、実際に社会の中にどの程度存在していたのか僕は知る由もありませんが、そのような描写を幼い頃から見て育った人が「触られた程度で訴えるのはやり過ぎだろう」「女性は当然おさんどんをするもので、抗議する方がおかしい」という価値観を持ったまま大人になる事には、それなりの蓋然性があるように僕には思えます。

N=1の個人的な事例として、恥ずかしながら自分は20代前半くらいまで、「恋人が風邪で寝込んでいたら、とにかく押しかけてでも世話をするのが正しいのだ。そのような場面では、相手は気を遣って遠慮するもので、そこで引き下がった方がガッカリされるもので、押しかけることこそ愛情の証明だ。そうして駆け付けて、熱に浮かされた状態で、場合によってはイチャイチャする事もあり得る。その結果風邪をうつされるとしても、それは恋人同士の"よくある"笑い話である」といった価値観を持っていました。親や周囲の人にそのように具体的に「教わった」事はなく、また、それまで異性との交際経験もなかったので、この価値観の形成にあたってメディア上での表現の影響はそれなりに大きいだろう、と僕は考えています。
(また、友人や学校の上級生・下級生達などとの会話の中で、自分の偏った・誤った認識に基づいて発言をしたとしても、周囲の側が、「過激な冗談を言っているだけだ」「皆が笑っている中で急に真顔になって指摘なんかしたら場の空気を乱す」と思ってスルーしたり、あるいは単純にその場の全員偏った・誤った認識しか持っていなかったりして、その反応から自分が、現状の認識の妥当性をより強く確信するようになったり、「これを言っても咎められないのだ」とさらに認識の偏りを強めたりした(エコーチェンバー現象)事もあり得るだろう、と僕は思っています。)

その後、実際に自分にも交際相手ができて、手痛い失敗をし、「自分が喜ぶ事を相手も当然喜ぶ」訳ではないという事、仮に社会において一般的に「恋人にはそうするべき」と言われている事でも、交際相手その人が望まないのであれば、特に緊急性がないのならするべきではないといった事などを学びました。そうして次の交際相手が風邪をひいた際には、まだ交際初期で僕に対してそこまで気を許せている訳ではない以上、押しかけられても安心より緊張の方を強く感じるわけで、僕の素人看病を相手は本心から拒否している、と認識した上で、押しかけない選択をしました。また別の時には、交際相手の声や発言内容から、明らかに自力での通院は不可能だと判断して、自分が仕事を休んで駆け付けて病院まで付き添うという選択をしました。

ここで僕が言いたいのは、こういう事です:

  • どんな些細な事でも、実体験を通して学ぶ機会が無ければ、学べないまま大人になる事はある。(少なくとも僕はそうだった。)
  • 実体験で学ぶより前にメディアを通じて学べば、それを真に受ける事はある。(少なくとも僕はその程度に愚かだった。)
  • 親子間や友人間でそのような話題になる機会が無ければ、誤った認識が訂正されないままになる事はある。(少なくとも僕はそうだった。)
  • その結果として、自分が相手を性的に消費する事を、良かれと思って(相手も喜ぶと思って)、あるいは当然のことと思って、実行に移す事はあり得る。(少なくとも自分は、機会があればやらかしてしまいかねなかった。)

     

N=1でない話として、性教育で具体的な性交の仕方を学ぶ機会が無かった人達が、性的な興奮を得るためのファンタジーの産物であるAVで性交の仕方を学んだ結果、「こうすれば相手は喜ぶはずだ」と信じて、良かれと思って性交相手が痛いだけの乱暴な性行為をしてしまう、というケースは少なからずあると聞きます。

そのような悲劇の発生を防ぐために、正しい性知識を教育する事は有効そうに思えますし、また、分からない事・確証のない事は相手と相談しながら決めるべきであるといった原則の教育も、それ以上に有効そうに思えます。 ただ、正しい知識を教わるよりも前にフィクションを通じて誤った知識を得ていた場合に、素直に正しい知識での訂正を受け入れられない事もあるでしょうし、また、正しい知識があったにも関わらず、誤った知識を大量に繰り返し摂取することで、そちらに流されてしまうようになる、という事もあるでしょう。 あるでしょうというか、僕自身が、そのような事が起こりやすいタイプだという感覚があります。

誤った情報を正しい情報であると誤認する蓋然性が高い人が、そのような情報に不用意に・頻繁に接触しないようにするために、レーティングやゾーニングに一定の必要性があるのではないか、と僕は考えています。
その一方で、「そのような、人間社会を生きる上で当然必要になる対人コミュニケーションスキルを身に付けずに育った、意志薄弱で流されやすい人間は、社会の中で極めて例外であり、一般的にそのような傾向はないので、そのような特別に劣ったケースに合わせて情報の流通を制御するのは不合理であるから認められない」という立場を取る人もいるかとは思います。

別の言い方をすると、ある行為について社会全体で「その行為は宜しくない」といった認識が共有されきっているのであれば、その行為を肯定的に描く表現をしていても、実践に移す前の段階で強くブレーキが働くために、表現を規制する必要性がない、という事は僕も思っています。
例えば、殺人を忌避する価値観はすでに充分に社会に浸透しているので、推理もの・サスペンスやアクション作品などで殺人を描写すること自体を規制する必要はないだろう、と僕は考えています。
(ただし、トラウマを想起させないための殺人シーン自体の描写の抑制など、別の理由からの規制はあり得るとは思います。)

 

2022年5月2日追記。

僕はこの一連のことを、「自分は地域社会の大人の一人として、その地域に暮らす子供に、親や学校が管理し切れていない場所で、不用意に悪影響を及ぼしたくない・及ぼさないべきと考える」ことの延長線上で捉えているのだと思います。

子供に最も大きな影響を与えるのは親で、次いで学校ですが、それだけでなく、地域社会の大人から影響を受ける事も大いにあるはずです。 今はその「地域」が薄れた分、ネット上のコミュニティやマスメディアなどがその穴を埋めている状況だ、と僕は考えいてて、そういう「地域」の事として、やれ「子供の前で裸になるな!」だの「子供にエロ本を売るな!」だの口うるさく言っている、という状況のように、この事を認識している気がしています。

ただ、「たかがマンガやイラストの表現ごときに、地域社会が子供に及ぼすほどの影響力は無い」という指摘は、あり得ると思います。
僕は子供がいないので、「教育」する相手が他人の子しかおらず、しかも現実に地域と密に繋がっている訳でもなく、SNSやメディア等を通じてしか情報的に接触できないため、その代償行為としてこの件に異常に肩入れしている状態で、冷静さや客観性を失っている、そのために自分が他者に与える影響を過大評価している・自分が他者に大きな影響を残したいという願望で判断が歪んでいる、という事なのかもしれません。

以上、追記でした。

 

この話をここに書いたのは、「月曜日のたわわ」の全面広告を「新社会人の応援のため」という広告意図の元で日経新聞に掲載した件が契機となっていますので、最後にこの件についても述べます。

前述のように考えたとき、無闇に人の身体を他者が睨め回すものではないという規範意識がそれなりに浸透している現代社会においては、本件は「規制するべきだった」とまでは主張できないというのが、今のところの自分の考えです。

ただ、胸をジロジロ見られる事を嫌と感じる人が、通勤・通学のための公共交通機関の使用や経済誌の購読をためらう理由の一つとなるような抑圧性が、ゼロであるとは、自分はまだ思えずにいます。
また、巨乳フェチ愛好家向け作品の広告を使い、新社会人一般への応援のメッセージとして打ち出すことには、「いわゆるブラック企業経営者として有名で、ごく一部の人達からは熱烈な支持を受けている人を、働き方改革のスローガンの顔に据える」ような「人選」の不可思議さも、僕は依然として感じます。

「たかが新聞広告の1つ、それも漫画の絵の話ごときに何をいつまでもグダグダと熱くなっているのだ。そんなことより、現実の女性の権利をどうこう言いたいのであれば、現実の女性の地位向上に直接寄与するような活動をしたまえ」という指摘は、ごもっともだと思います。
ここまでに長々と述べたとおり、この広告の何が問題点となり得るのか、少なくとも、問題視している人達が何を問題だと考えているのかについて、言語化し説明することは、間接的に現実の被害を減らす事に多少なりとも寄与するはずであろう、というのが自分の認識です。
ですが、これも数字による裏付けのない「そうであると信じたい」という話でしかないので、こういった事を語る事にそんなプラスの効果はなく、むしろ現実の被害を増やす悪影響の方が大きい、という事を示されれば、おとなしく以後の言及を控えるようにしないといけない、とも考えています。

分類:出来事・雑感, , 時刻:07:52 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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