May 10, 2023

告げ口の善悪

いわゆる告げ口について、受け取った側が取るべき態度・行動について僕は、

  • 鵜呑みにしない。
  • 少なくとも、裏が取れていない・確証を得られていない間は、重要な判断材料にはしない。
  • 裏を取ろうと思えば取れる状況であれば、なおのこと、伝えられた情報そのものより自分で裏取りした情報の方を信じる。
  • 告げ口をした人が利害関係者で、自分がその内容を信じる事でその人に得が生じるなら、情報の信用度をより低く見積もる。

と考えてる。

世の中には嘘でも何でもついて相手(僕)の感情や行動をコントロールして自分(相手自身)の利益を最大化しようとする人がいるし、そういう利己的な動機でなく純粋に利他的な善意でなされた告げ口だったとしても、告げ口をした人の主観というフィルターを通したことで情報が変質してしまっている恐れがある。

全く同じ事がマスメディアを通じて届く情報にも言える。 僕への告げ口は、僕個人を狙って届けられる情報だけれど、マスメディアから届く情報も、「自媒体の読者・視聴者の傾向に合った、受け手に喜ばれる(そして自媒体の利益の最大化に繋がる)情報」という観点では、狙い撃ちで放たれた情報と言えるので。

いずれにしても、自分の元に向こうから飛び込んできた情報は(もっと言えば、自分が飛びつきそうな位置にぶら下げられていた情報や、自分がちょっと背伸びしたら届きそうな所に元からあった・アクセスしやすい情報というのも)、鵜呑みにするにはリスクがあると言える。 なるべく一次情報にあたるようにし、正確な事実関係を把握するまで態度を保留する我慢強さを持つ必要がある、と今は考えてる。

――というのは情報を受け取る側の話で、いま考えてるのは情報を送り出す側の話。 告げ口する側のことについてだ。

 

今でこそ自ら進んでは告げ口はしないようにしている僕だけど、元々は、告げ口の何が悪いとされるのか分からない方だった。
今でこそ自ら耳を塞ぐ事をいくらか覚えた僕だけど、元々は、「自分が他者からどう認識されているのか、どう評価されているのか、どんな言及のされ方をしているのか」を知りたくて仕方が無い方だった。
そんな自分にとって「告げ口」は、「自分がされて嫌な事は他人にしないようにしましょう、自分がされて嬉しい事を他人にしましょう」の理屈で言ったとき、「されて嫌な事」ではなく「されて嬉しい事」の範疇の行為だった。

特に、「告げ口をしてくる人は信用してはいけない」という警句が、昔の僕にはピンときていなかった。 「悪意で虚偽の情報を告げ口する人」の存在を想定できていなかった甘さからでもあるけれど、どちらかというと、自分が善意でする告げ口がなぜそうまで悪し様に言われなくてはならないのか? 善意で何かをする人としてプラス評価されてもいい場面ではないのか? と、納得いかない気持ちの方が強かったと思う。
社会的には「告げ口をしてはいけない」「告げ口をしてくる人は信用してはいけない」という言い方が大きな支持を集めているように僕には感じられて、自分の素直な感覚とのギャップに戸惑いと苛立ちを、かつては強く感じていた。

なので、今回見かけた「告げ口をしてはいけない」「告げ口をする人を信用してはいけない」という趣旨のツイートに寄せられた反応の中に、自分と似た感覚で発せられたと思しき物をいくつか見かける事ができて、「ああ、自分だけじゃなかったんだ」とホッとした感覚が結構ある。

 

自分は現在、告げ口に類することを自分から積極的にはしないようにしているつもりでいる。 そのようにし始めた頃の動機は、概ね利己的な物だけだった。

  • 「他者の間に不和をばら撒くために虚偽の告げ口をする人」と同一視されたくない。
  • 社会的によくないとされている事を自重できる程度には、自制心がある人だと思われたい。
  • 「あの人は口が軽い」と思われると、重要な情報から自分が締め出されてしまうことになるので、それを避けたい。秘密を漏らさない人だと信用された上で、重要な事を知らせて貰える立場の人になりたい。

そうするうちに、思索を経て「自分の主観で、相手の利益のためにした方が良い事だと思えたとしても、客観的な視点から考え直して、相手の利益のためにこそ、しないようにする」という考え方が加わってきた。

  • 自分に悪意がなくても、自分が聞いた情報を相手に伝えるまでの間に、自分というフィルターを通す過程で、事実と異なる情報に変化してしまうリスクがある。自分は事実を正確に伝えられるメッセンジャーとしての資質に欠けている、という自覚が今はある。
  • 世の中には「例え事実でも自分の知りたくない事を知らされたくない」人が結構いる。自分が善意で知らせたとしても、情報を知りたくない人にとっては、ただの迷惑となる。相手の持つ「その情報に触れるか触れないか・いつ触れるかを決める権利」を侵すことになる。

特に、「知りたくない事を知らされたくない人がいる」という事に自分は長く気付けずにいた。 認識できたのは、20代も後半になってからだったように思う。

いわゆるネタバレを嫌う人がいることは知っていたし、そういう人にわざわざネタバレをするのは悪だという認識もあった。
でも、それは「オチを知らずに作品に触れた方が、より楽しめるから」という点に自分が同意できるからだった。
「自分の事を陰で馬鹿にして笑いものにされているのに、そのことに気付かずに、相手のことを信用して心を許して接している」という状況は、その頃の僕にとっては耐え難く、そのような自分の感覚に照らし合わせたときに、そういう状況を甘受するリスクを受け入れてでも耳を塞ぎたいと考える気持ちが、僕には理解できなかった。

でも、「自分が陰で嗤われたままでいる事よりも、その事実を突きつけられる事の方が嫌だし耐え難い。それならば、事実を知らされない方が本気で幸せだと感じるし、何なら、告げ口はそのような幸せを壊す迷惑行為であると感じる」という人がいる事を知って、それが強がりや言い訳や詭弁ではなく本気の発言だと理解できる機会があった。
それでやっと、「自分が望んでいないことをされるのは嫌だ」という一般化を経て、「告げ口」という行為を「自分がされたくない事を人にもしない」の範疇に入れて考えられるようになった。

もし、かつての僕同様に「なぜ善意でしている事を迷惑や害悪と言われなくてはならないのか?」と首をかしげている人がいたら、このような事実があると知ることで、社会の中で無用の軋轢を生まずに生活するための一助になるのではないだろうか。
そんな風に思ってこれを僕は今書いている。

(なお、「自分が陰で嗤われたままでいるのが耐え難い」という自分の感情については、今の僕は

  • 目の前でにこやかにしているこの人も、実は自分の事を陰で嗤っているのかもしれない。
  • だとしても、そうするのは相手の自由で、自分にはやめさせる権利は無い。
  • また、動機は何であれ、そのことをこちらに気取らせず、自分に直接的には不利益をもたらさないでいてくれているなら、それ以上勘ぐる必要はない。
  • 自分が『乗せられて、カモにされようとしている』状況に置かれていないかどうかは、そういったこととは無関係に常にセンサーを働かせ続けて自分から気付くべき事。
  • まんまとカモにされたとしたら、気付けなかった・物を知らなかった自分の落ち度だと考える方がよい。気付かせなかった相手を責めたとしても、自分の感情を慰撫できるだけで、次にまた自分が被害に遭うことを防ぐことにはまったく利しない。

と考えるようにして、総じて、自分が他者に善意を向けるかどうかとは別の話として、自分が他者に受け入れられることも他者が自分に親切にしてくれることにも、過度に期待しないことで、折り合いを付けるようにしているつもりでいる。)

 

世の中には「相手の主観的に善意でされた事は、例え自分にとって迷惑だったとしてもありがたく受け取りなさい、相手を赦しなさい、少なくともその場は当たり障りのない応答をして受け流しなさい」といった規範もある。
その規範意識に則って考えると、「あなたが善意でした事でも私には迷惑だ」とはっきり告げる事は、規範に反する行為となる。
僕が「知りたくない事を知らされたくないと強く願い、知らされることを拒絶し、何なら知らせる側のことを悪人呼ばわりまでする人」が存在するという事実をなかなか受容できなかったのは、そういう規範意識の影響もあったのではないか。
社会規範の1つであると思っていた事(「善意は受け取るべし」)を否定する別の言説(「(善意でも)告げ口はするな」「(善意でも)告げ口をする人は信用するな」)が、重要な社会規範の1つであるかのように語られている事が、自分には矛盾のように感じられた。という事は、僕にとって本件の受容を難しくしていた一因なのではないかと思う。

「告げ口」をする側の主観的な善意を優先するべきか。
それとも、「告げ口」される側の主観的な被害感情を優先するべきか。
サリーとアン課題(2人の登場人物にとって、それぞれが得ている判断材料が異なっている事を認識できるかどうかを見ることで、発達障害や自閉症スペクトラムの傾向を調べるテスト)に正答できる程度には定型発達寄りでも、サリーとアンの価値観が異なっている・価値判断の基準自体が人によって異なる可能性に自然には思い至れない程度には発達障害寄りの自分には、大人になった後でもすんなり飲み下す事が難しい、幼い頃に理解するのはそもそもが困難な話だったのではないか。 そんな気がしている。

 

長々と書いたけど、こういうことを踏まえた上でもまだ「告げ口」したくなる場面が、全く無いわけではない。

そんなときは僕は、「誰々さんがあなたについてこう言っていた」とストレートに告げ口する代わりに、「誰々さんは、一般論として公の場で、あなたがしている種類の事についてこう言っていた」と公の発言を引用して言うか、あるいはもっとマシな態度として、その「誰々さんの指摘の内容」に自分も同意したのであれば、「自分はあなたのその行動について、こういう理由で良くないと思っている」と、自分を主語にした言い方をするようにしている、ような気がする。

そこまでのコストをかけてでも伝えたい事というのは、元々自分がモヤモヤと思っていたことをその誰々さんが言語化してくれたと感じられた事なワケで、ならば(他人のふんどしで相撲を取る事にはなるけど)「僕がこう思った」と自分を主語にしても差し支えがないはずで。
自分を主語にして言うのは自分に火の粉が降りかかってくるから嫌だ、「誰々さんはこう言ってたよ」「世間はこう言ってるよ」と他人を主語にしてしか言いたくない、というのは、太宰治の「人間失格」で言うところの「堀木メソッド」、つまり責任転嫁を伴う卑怯なやり口と言える。
言いたい事なら自分の責任の元で言えばいいし、言えないなら・責任を負いたくないなら言わなければいい。
相手個人に言葉を向けることでの反撃を恐れるなら、相手個人に向けて言う代わりに、こうして一般論として公の場で語ればいい。
「自分で語り直す労を惜しんで、他人の言葉を使って、発言責任も回避しつつ、特定の相手に向けて、言いたい事を直接ぶつけたい」というのが、虫のいい考えなのは間違いない。

(「オタクはよく、リーダーではなく参謀役をやりたがる」と言うけれど、「人を従えるリーダーシップやカリスマが無くても、責任を負わずに済む立場から口出しだけして、物事を自分の思い通りに動かしたい」という無責任な欲求の発露だと考えると、発生の背景は告げ口と共通しているように僕には思える。)

「自分を主語にしない告げ口に乗せて、自分の言いたい事を伝えてくる人」は、自分の発言に責任を持とうとしない卑怯者で、一事が万事その調子だろうと予想が付く。 そう考えると確かに、「告げ口をしてくる人は信用しない方がよい」と言えるのだと思う。
かつて自分がその種の警句を不快に感じたのは、自分の卑怯さ・信用ならなさを暗に責められたと感じたからなのかもしれない。

また、自分を主語にして語れず、自分でも思ってもいない事なのに告げ口するというなら、それは、思考停止したまま与えられた情報を右から左に伝える伝書鳩と同じだ。 伝えられる側の方が望んでいないにもかかわらず、伝書鳩をして情報を伝えたというのは、自分が伝書鳩になることで物事にどう影響が及ぶのかに思い至らない、考え無しの浅はかな人間だと自白するのに等しい。
そういう意味でも、「告げ口をしてくる人は信用しない方がよい」という警句は有効だと言える。

 

「告げ口はするな」と言われたとき、そこまで言い含めて伝えられたら、僕は素直に受け入れられたのだろうか。
僕はそこまで聡明ではなかったから、無理だったろうな。

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