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正論が抑圧の象徴になる時代? - Jan 13, 2021

レッドブルが くたばれ、正論。 というコピーで新成人向けの広告を打った、という話を見かけた。

この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする といった文からは、いわゆるポリコレ疲れ、左翼・リベラル的な言説への反動、のような雰囲気を感じる。若者を抑圧してくるそういった物に抵抗しよう、というメッセージのように感じられた。

広告が意図する所は一応理解できてると思う。挑戦はした方がいいし、うるさく言って足を引っ張ってくる年寄り連中の言うことを真に受けて萎縮しない方がいい。そこの所に異論はない。

だけど、このコピーに、僕は真っ先に違和感を覚えた。
僕は今38歳で、新成人だった頃から遠く離れた所に来てしまったのだけれど、自分が新成人やそれより若かった頃を思い返すと、「弱い立場から正論を武器に抗弁したが、正論が通らなくて煮え湯を飲まされた」経験の方が記憶に強く残ってる。
融通が利かなくて、弱い立場のこちらに対して抑圧を押しつけてくる物は、僕にとっては「筋の通った正論」ではなくて「筋の通らない因習・慣習」だった(と感じられた)ように記憶してるから。

抵抗者
「自分が教わった理屈に基づいて考えると、これこれこういう理屈で、こうあるべきなんじゃないの? なんでそうなってないの?(正論)」
既得権益者
「現実を知らないガキは黙ってろ。ガキにはわかんねー大人の事情って物があるんだよ(理屈の通ってない抑圧)」

こんな感じだった気がしてる。

レッドブルの広告に書かれた「正論」という言葉からイメージされる抑圧は、

抵抗者
「理屈とかよく分かんないんだけど、自分にはどうしても納得できない。これっておかしいんじゃないの?(素直)」
既得権益者
「理屈を知らないガキは黙ってろ。これこれこういう理屈でこうなってるんだから、素人が浅知恵で口出すな(正論ぽい抑圧)」

こういう感じなのかなと思った。実際、そういう場面は自分でも体験したことがあるし。

また、正論を武器にしていた左翼かぶれの知識人達が、かつては被抑圧者だったとしても、今では抑圧者の側になっているケースも、多々あると思う。

ただ、(これは、この広告のメッセージそのものというよりも、この広告のような言葉の選び方がごく自然に出てくる発想や、受け入れられてしまう風潮に対しての意見なのだけれど、)「正論」というものを権力と同一視して、抵抗者は権力とともに正論もを否定せよというのは、僕には、知的には後退してると思える。
正論は誰でも手に入れられる武器なのに、それをわざわざ忌むべき物と位置付けるのは(ともすれば、手放すことを奨励しているとも取れるメッセージを発するのは)、自分で自分の首を絞めてると思える。

僕としては、抵抗者には常に、正論を武器にしていてもらいたい感覚がある。
納得できない部分があれば、頑張って言語化して論理立てて正論で主張して欲しいし、
権力側が主張する、一見すると正論に見える言葉の中に巧妙に隠蔽された詭弁を明らかにして、その正論じみた言説の正論でなさを暴くようにして欲しい。
腐敗した古い正論を、より洗練された正論で打ち崩して欲しい、と思う。

今抑圧してきてる者達が、僕みたいなおっさんが、「正論」という建前で言ってる諸々のことの内容を嫌いでも、それは構わないので、ただ、「正論を立てて主張する」という枠組み自体まで否定しないで欲しい。
(……と、アイドルグループを卒業した人のような事を言ってる時点で、この枠組み自体が見捨てられる風潮はもう止まらないのだろうな、という気もひしひしとするけど……)

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「真っ当なエンジニアリング」を意識してるITエンジニアと、ヴィーガンって似てるのかも知れない - Dec 04, 2020

コーディングスタイルを統一して読みやすい状態を保ち、変数や関数の名前付けは意味を取りやすい物にし、変数の再代入は可能な限り避けて、静的な型を使って静的解析を可能にし、モジュールは適切な粒度と凝集度を意識して設計し、自動テストも書いて、コミットごとにCIを回して。
Gitのコミットは、変更の意味を掴める単位に分割して行い、コミットメッセージは変更の意図が分かるように書き、複数人での開発ではマージコミットがなるべく発生しないようrebaseを使うようにして。
サーバーの構築・運用は、sshで入って手作業で操作するのではなく、Ansibleなどのプロビジョニング用の仕組みを使って静的な設定ファイルから環境を自動構築できるようにして。

……といった諸々のことは、決して最先端の人だけがやることでも、単なる一過性のトレンドでもなく、あらゆる現場で通用する(現時点での)ベストプラクティスと呼べる知見・姿勢だと僕は思ってる。実際、t_wadaさんによる主に自動テストにフォーカスを当てた「質とスピード」という発表の資料(2020秋版)で語られている所によれば、開発期間が1ヵ月を超える規模になったら、保守性を高く保つ真っ当なエンジニアリングを実践した方が、開発速度の面でも有利となり、ビジネス的にも合理的と言えるのだそうだ。

そういう「真っ当なエンジニアリング」について、少なくともWeb上に生息しているITエンジニアの、特に「開発に関わる者」という属性を持つ人の間では、「やってる方が不合理だと感じる」よりは、「やってないことに負い目を感じる」人の方が多そうな印象がある。

 

それと比べると、ヴィーガンを自称する、動物性タンパク質を排して植物だけ食べるという思想? 運動? をやってる人達に対する、「食べる事に関わる者」「生活する事に関わる者」という属性を持つ人(つまり自分も含めた全員)からの見方は、「やってないことに負い目を感じる」人よりは「やってる方が不合理だと感じる」人の方が多いような印象がある。

というか、自分自身がそうで、正直「はぁ~、えらいどうでもええことに命かけてはりますねんなぁ~、僕ぁよう真似しまへんわ~、まあせいぜい頑張らはったらええんちゃいますか~」くらいに思ってる。思ってた。

だいたい、身近にヴィーガンがいない状態で生活しててヴィーガンを観測する場面というと、肉バルにわざわざ行って菜食のみのメニューをくれと要求するだとか、畜舎を破壊して家畜を逃がすとかの、狂信者とかテロリストじみた厄介者として観測される場合が多いので、いい印象を持ちようがないのも当たり前だと思う。

しかし、Twitterで別の目的でフォローした人がたまたまヴィーガンをやっていて、特に誰かに噛み付くでもなく、ヴィーガンテロを称賛するでもなく、ただ自身の生活の一環としてヴィーガン食の紹介だけをしている様子をしばらく観測しているうちに、どうも、ヴィーガンを自称する人の全員が全員狂信的テロリストというわけでもないようだ、と思うようになってきた。

確かに、理性的に考えれば、マクドナルドがヴィーガン向けメニューを発売したなんてニュースが聞かれるということは、巨大チェーンでわざわざメニューを設けて収益を伸ばせると目算が付く程度には、(現時点で、あるいは将来的に)需要が見込めるということで、顧客層の中にフツーに一定割合ヴィーガンがいる、ということの表れと見なしていいのだろう。テロリストと見なされて排除されるどころか、有望な顧客層として歓迎される程度に、社会と軋轢を起こすことなく普通に生活しているヴィーガンがそれなりの数いる、ということなのだろう。

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ラブタイツキャンペーンの炎上について、タイツフェチの視点からの記録と問題点の考察 - Nov 08, 2020

アツギ社が「タイツの日」に合わせて行った「ラブタイツ」キャンペーンが、各方面から批判されて中止になった件について、批判側に立っていた人の一人として書いてみます。

なお、アツギ社による公式の謝罪が既に出ていますので、このエントリはこれ以上の批判・非難を意図しません。自分がこの企画の何をどのように問題だと考えたかの自己分析・記録・説明と、表現に関わるあらゆる人が似たような事を繰り返さないための判断材料の提供を意図しています。

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鋼鉄人形論法を意識してトーンポリシングになる(気がする) - Oct 13, 2020

鋼鉄人形論法とは

最近、「鋼鉄人形論法」という言葉を知った。

自分と反対の立場の意見について、その中でも最も愚かな主張をしている人を取り上げたり、時には実際には存在しない支離滅裂な言説をでっち上げたりして、容易に批判できる対象に対してマウンティングを取ることで、「だからあの連中は阿呆なのだ」と身内や周囲にアピールする論法を、藁人形論法と言うのだけれど、鋼鉄人形論法はその逆だそうだ。つまり、自分と反対の立場の意見の人の中でも、最も理性的で賢い人の主張を取り上げたり、相手の主張を理論的に補強したりして、容易には批判できない強固な敵と敢えて相対することで、自分の主張を鍛えていく、ということらしい。

反論をある程度想定した上で持論を述べる時には、なるべくそのようにした方がいいだろう、と自分もなんとなく思っていたので、それに鋼鉄人形論法という名前が付いてセオリーとして認知されていると知って腑に落ちた感覚がある。

トーンポリシングとは

別の話で、「トーンポリシング」という言葉がある。

これはMeTooやBlack Lives Matterといった反差別の運動の文脈でよく聞かれる言葉なのだけれど、例えば抗議者が「差別をするな! この差別者め! 貴様のような奴は生かしておけん!」みたいな強い口調で迫ったときに、抗議を受けた側(差別をしている側)や周囲の人が、「そんな攻撃的な言い方じゃ聞く気になれないよ」と言い方(トーン)を穏やかに改める(ポリシング)ようになだめることを、そう呼ぶようだ。抗議者(被害者)と被抗議者(加害者)の間に圧倒的な権力差がある状況では、穏やかな言い方に改めたら単に抗議が無視されるようになるだけだ、ということで、反差別の言説を無効化し差別を維持・強化する悪行であるとされている。

鋼鉄人形論法を意識すると、感情と向き合わざるを得なくなることがある

鋼鉄人形論法に則って相手の主張の論理を深く掘り下げていくと、多くの場合、相手の視点での合理的な判断の結果として自分とは異なる結論に至っていることが分かってくる。衝突を解消するための交渉においては、相手の合理的な判断と自分の合理的な判断とが衝突しなくなる落とし所を探る必要がある。

ただ、合理性では落とし所を見つけられない場合というのも多くある。僕はそれを、感情的に折り合いが付かない場合だと考えている。

例えば「あなた1人が死ねば100人が助かります。死んで下さい」と言われて、なるほど合理的だと納得して粛々と殺されようという人は、あまりいないのではないだろうか。少なくとも僕は納得して殺されようとは思えない。死ぬのが「怖い」し「嫌だ」、という感情があるからだ。感情に根ざす衝突は、どんなに鋼鉄人形論法を突き詰めても合理的な根拠には辿り着けない。

……という書き方をすると、「つまりそういう奴らは合理的な判断ができずに感情に流される愚かな連中なのだ」という話だと思われるかも知れないけれど、僕が言いたいのはそういうことではない。僕は今のところ、「感情で判断するな、合理性で判断しろ。感情なんてくだらない」とは思っていない。感情は合理性に劣るものではなく、合理性と直交する概念だと思っている。人は、合理性の面では利が小さくても感情面で利が大きい判断をすることが多々ある。僕自身は、合理性が高くても感情面で納得できない判断よりも、感情面で納得度の高い判断の方が、満足感・納得感が大きいという実感がある。

(これをもっと突き詰めると、「合理的な方が良い」と常に判断している人すらも、「合理的な方が好きだ」という主観的な感情に引きずられているのではないか? という話になってくると思っている。ただ、これは本題ではないので、これ以上掘り下げないことにする。)

感情と向き合うと(本当の)問題が解決することがある

ともかく、両者の意見が衝突して落とし所が見つからないケースの中には、感情の折り合いが付かないことが根本的な問題であるにも関わらず、「双方あるいは片方が」「自覚的か無自覚かはともかく」感情の問題に向き合おうとしていないケースがある、と僕は思っている。

特に、「感情的になるのは愚かなことだ、感情で判断するのは愚かなことだ」というスティグマに囚われている人は、無自覚のうちに、自分の中の根本原因の存在にも、ましてやその解決からも目を背けてしまいがちではないかと思う。(というか、過去の僕はそうだった。)

そういうケースでは、感情面の問題が解決されるだけで、意外なほどスルッと話がまとまることがあるようだ。例えば、サポートセンターに電話をかけてきて、上司を出せ謝罪しろとがなり立てていたクレーマーが、電話口で一通りの感情を吐き出すとおとなしく引き下がっていった、みたいな話は度々見かける。そのクレーマー自身は、自分の感情を満足させたかっただけだとはきっと認めないだろうけれど、事実としてそれはやはり感情の問題だったのだろう。

先の「あなた1人が死ねば100人が助かります。死んで下さい」の例で言えば、多くの人は、それで救われる100人から「早く死ねよ」と石を投げられている状態よりも、感謝の言葉をかけてもらったり、「死後永遠に語り継いでいきます」みたいな事を(嘘でも)言われた方が、感情的に納得して決断をしやすくなるのではないだろうか。「お国のために」「郷里に残した家族のために」と涙を呑んで散っていった特攻隊の若者達のように。まあ、人によっては、「俺を犠牲にして自分が生き残りたいだけのくせに白々しい。そんな欺瞞に満ちたおべんちゃらを言われるくらいなら、石でも投げられた方がマシだ」ということもあるかもしれないけど(そういうタイプの人にとっては、そのように感情を徹底的に傷付けられることこそが、感情面で折り合いを付けるために必要な事なのかもしれない)。

感情面で受け入れられやすい表現にした方がいいのでは、と言うとトーンポリシングになる

差別の話についても、ここまでで述べたような感情の話が当てはまるのではないか、と僕は思っている。

といっても、ここで僕が注目したいのは、差別を受ける側の感情ではなく、「差別をした」と抗議を受ける側の感情だ。差別をしてしまう・やめられない・抗議を素直に受け入れられない側にある「自分がこれまで慣れ親しんできた文化が侵される嫌悪感」とか「自分と異質な物に対する忌避感」とか……もっと平たく言えば「怖い」「嫌だ」といったプリミティブな感情のことだ。

ここまでで述べたとおり、僕は、そういった感情も判断に大きな影響を与える要因で、且つ、決して軽視はできないと思っている。抗議される直接の加害者や、直接の加害者以外にも、その加害者を包摂する社会を構成する一員・間接的な関係者として抗議を受ける側となる、周囲の傍観者も含めて、「抗議する人とその支持者」以外のすべての人の感情を傷付けたり逆撫でしたりする言動は、問題の解決を遠のけることすらあると思っている。

「だから、抗議をするときは相手の感情を傷付けない言葉を選んだ方がいい」……というまとめ方をしたら、そう、トーンポリシングと非難されるアレになってしまうのですよね。これが、長々と書いてきてここで僕が言いたかった事。

 

僕自身は、何かを抗議した時に、まともに取り合う気のない相手からあれやこれやの言い逃れで抗議を無効化されれば腹が立つ。でも「言い逃れ」できる余地を残してしまっているのは自分の側の落ち度だと思うので、正攻法でいくなら、言い逃れができないように丁寧に外堀を埋めて臨むしかないのではないか、と思っている。表現を見直すこともあるだろうし、あるいは、根回しをすることもあるのかもしれない(自分はその手の政治がとても下手なので、できる気がしないけど)。傍観者から「自分の非も認められないガキが駄々をこねている」と思われてしまっては勝てない、という思いがある。

でも、「そんな悠長な事をやっていられない事態なのだ、これは今その場にある命の危機の問題なのだ」というのが差別の文脈ではよく聞かれる話で、確かにそれはそうだと思う部分もある。卑近な例えをしてしまうけれど、自分がかつて虐めを受けていた頃に、「まずは周りを味方に付けて」とか言われても「は? ふざけんなし。味方なんかおらんし。戦って自力救済するしかないし」としか思えなかっただろうと思う。その頃の自分にとっては、自分の非を少しでも責める者はすべて「敵」で、自分の事を全部許して認めてくれる者だけが「味方」だったような気がする。

差別に抗議している最中の人達が、その頃の自分と同様の心境なのだとしたら、抗議を受けている世界を構成する一員であるところの、つまり、差別者の一員である僕から、どんな言われ方であろうとも、抗議の仕方を咎めるような言い方をされて、受け入れる気分にはならないのではないかと思う。

かといって、ここまでで述べたようなことを考えている僕には、傍観者の敵意を増すような抗議の仕方を積極的に擁護する事もできない。

なので僕は、抗議している人達に直接は賛同も批判もしないで、黙って自分の良心に従って行動するだけに留めるのがいいんだろう、と思っている。差別的言動を見かけた時には自分の言葉で咎め批判し、自分が差別的な言動をしてしまったときには粛々と反省し、自分の信じるメッセージを込めて、不用意に差別を再生産しないことを心がけて表現していくしかないな、と。

オチはないです。

「なぜMozillaはXULアドオンを廃止したのか?」に寄せられていた反応を見て、「甘い……甘すぎる……」と思って、W3C信者時代からの価値観に行き着いた話 - Aug 27, 2020

1つ前の翻訳記事の末尾には当初、自分の個人的な考えを長々と書いていたのですが、翻訳記事でそういうことをやるのはマナー違反という指摘を頂きました。自分でも確かに、思い入れのあまり熱くなって書きすぎと感じていたので、別記事に分けるついでに増補改訂することにしました。)

原文に寄せられていたHacker Newsでの反応や、僕の翻訳に寄せられていた反応を見ていると、XULを捨てる判断を間違いと断じる物や、そのような判断をしたMozillaに対する恨み節、あるいは「バカな判断をしやがって、そんなだから俺らパワーユーザーから見捨てられたんだ」みたいな捨て台詞じみた物が結構見られました。

それらを見て僕は正直、「これだけ丁寧に書いてあってまだそんな風に思えるってどういうことなの……」と驚くやら呆れるやらしたのですが、自分自身もかつてはそっち側にいた自覚があったので、「なんでそう思うのか」も分からなくはありません。

甘い見通し

今でも「見境のない拡張機能の仕組み」を支持し続けている人というのは、アドオン開発者にしてもユーザーにしても、ある意味で楽天的というか、性善説を信じているというか、そういう感じなのかなあと思っています。

「従来路線でいっても生きていけただろう、少なくとも玄人向けとしてなら生き残れただろう」という意見については、以前の記事で「それでは結局現実に生き残れない」とバッサリ切りましたし、1つ前の記事のコメント欄にも書いてみました。しかし、それとは別に「諸々の進歩を継続しつつ、アドオン開発者やユーザーに自己責任での自由を残すのでは駄目なのか?」という主張もあります。自分もFirefox Quantum以前はそのような立場でした。

この場合の世界観は以下のように要約できるかと思います。

  • アドオン開発者:「自分はFirefoxの変更に振るい落とされることはない、いつまでだって追従し続けられる」と考えている。
  • ユーザー:「アドオン開発者はそのような努力をいつまでも続けてくれる」と考えている。

しかし、自分の体験と先の記事の内容を踏まえて、今僕が思うのは、「甘い……まったく甘すぎる……」ということです。

僕自身、日々壊れていくXULアドオン時代のTSTを維持するのには、ものすごい苦労を要していました。当時はそれが当たり前だと思って麻痺していただけで、実際には狂気の沙汰だったと感じています。TSTをWebExtensions化して以後の感覚では、XULアドオンを書くのなら、実作業時間で1時間あたりN万円くらいのお金を貰って仕事としてやらないと、とてもじゃないけどやってられないです。それくらいに、XULアドオンは維持にコストがかかると言わざるを得ません。「少額ながら寄附を……」とかいうレベルでは収まらない、もはやビジネスの話です。

僕自身はライフステージはそれほど変わらないままですが、結婚や子育てなどライフステージの変化の影響で、毎日アドオンのメンテナンスに時間を割くことはできなくなってしまう人も、当然いたでしょう。メンテナンスに膨大なコストを要するアドオンを継続し続けなくてはならないのでは、作者の人生をそれだけに縛り付けることにもなりかねません。

あるいは、作者個人が自分の使う範囲だけで細々メンテナンスし続ける程度なら可能かもしれませんが、それを「第三者が使いやすい」状態でリリースまでするモチベーションはどんどん下がっていく一方でしょう。

「見境のない拡張機能」は、もはや「ユーザー」はお断りの世界

なぜなら、ものすごく嫌な言い方をしてしまうと、今XULアドオンを一般向けにリリースしても、パッチも提供してくれない・問題の再現条件の特定もしてくれないクレクレ君達からの、「お願いですぅ~直してくださいぃ~ボクにはとてもメンテできましぇ~ん」みたいな声が増えるばっかりで、いいことがないからです。

それは言いすぎだろう、パワーユーザー向けならそんなことないのでは、と思う人もいるかもしれませんが、こういう修羅の世界では「敬意を払ってくれるユーザー」や「お金を出してくれるスポンサー」だけいても、結局は搾取構造にしかならない、と僕は考えています。。

一般的には「OSSにできるコントリビュートはプルリクエストだけではないです。障害報告も立派なコントリビュートです。必要な環境、再現手順、期待される結果、実際の結果を明記した良い障害報告をしましょう」ということを僕も言っていますが、「見境のない拡張機能」の世界では、それですら作者側の負担が大きすぎると言わざるを得ません。プルリクエストやコードを実際に提供し合うような、「同じ技術レベルで共に並び戦ってくれる戦友」同士で助け合う以外には成り立たない、そのレベルで戦列に加われない人に関わられて期待されても困る、というのが正直な所です。

技術的な事実をいうと、今でもFirefoxでは「見境のない拡張機能の仕組み」と同等のことをやる余地は残っています。AutoConfigの仕組みを使って、(Firefoxのインストール先)/defaults/pref/autoconfig.js

pref("general.config.obscure_value", 0);
pref("general.config.filename", "autoconfig.cfg");
pref("general.config.vendor", "autoconfig");
pref("general.config.sandbox_enabled", false);

という内容のファイルを置き、(Firefoxのインストール先)/autoconfig.cfgにゴリゴリ書いていけば、Firefoxのchrome領域上で任意の特権スクリプトを動かすことができます。実際、僕も仕事の上でどーーーーーーしても必要に迫られた場合はそうしていますし、Firefox内部で任意のスクリプトを特権付きで動作させるアドオンだった「userChrome.js」のエコシステムを継続している人達も、この方法を使っているようです。

こういう使い方をすると、前の記事で散々書かれているような「バージョンアップですぐ動かなくなる」「代替策がない」というドン詰まり状況が頻繁に発生します。ググって見つけたブログ記事やQiitaの記事のコピペで使うだけではとても維持できず、「自分で原因を調べて、自分でコードを直す」ということがどうしたって必要になってきます。誰かが直してくれるのをボケッと待ってるだけでは、今のFirefoxのリリースサイクルにはまず追従できないでしょう。

なお、この方法を使っている人達は百も承知だとは思いますが、この方法もいつまで使い続けられるかは分かりません。それでも、「Firefoxのソース自体に手を入れて、Firefoxそのものを独自ビルドする」のは依然として可能です。あるいは、そこまでやるならChromiumに乗り換える(Chromiumを改造して独自ビルドする)方がいいかもしれません。もはや完全に根性試しの世界ですが、腕力さえあれば乗り切れるのがOSSのいい所です。腹を括って「この方向でも生きていけるんだ」ということを示し続けていく人は、いてもいいとは思います。僕にはとても真似できませんが……

Thunderbirdの場合

FirefoxはFirefox 57で「見境のない拡張機能」をバッサリ切りましたが、Firefox ESRのスピード(1年ごとのメジャーアップデート)でゆっくり物事が推移しているThunderbirdは、もう少しソフトランディングな方向で進んでいます。会社のブログに書いたThunderbirdアドオンのTb78対応の話では「使うな」とサラッと流していますが、アドオン作者向けのThunderbird 78向け移行ガイドによると、Thunderbird 78では「公式のWebExtensions APIには含まれていないけれども、こういうAPIが欲しい」という機能があるときに、アドオン作者がそれを自力で実装する、Experimental APIという仕組みが利用できるようです(これはFirefoxでも提案はされていたのですが、なんやかやで結局実際には使える状態にならなかったと記憶しています)。

ただ、そのような本来の意図とは裏腹に、Experimental APIは結局「見境のない拡張機能」と同じことをするための互換レイヤー作りのために使われてしまっているようです。少なくとも、CardBookという巨大アドオンのThunderbird 78対応ブランチでは、ほとんどのソースはXULオーバーレイ前提になっていて、Experimental APIでXULオーバーレイ相当のことをしている様子が伺えました。

まあ、そうしたくなる気持ちは、分からなくもないんですよ。移行ガイドは(ちょろっとしか見てないですが)「こうやってちょっとずつ移行していきましょう」みたいなソフトな書き方をしてるし。一般的に、ハードランディングよりソフトランディングの方がいいとされてますし。前の記事にあった通り、Firefox自体もちょっとずつ段階的に改良されていったわけですし。

でもねえ、XULアドオンのWebExtensionsへの移行だけは、TSTのWebExtensions化で僕がやったように、「腹を括ってゼロから作り直す」以外の選択はないと思うんですよ。XULアドオンとWebExtensionsアドオンではパラダイムが違いすぎて、「ちょっとずつ置き換え」なんてできないんですよ。

「ちょっとずつ置き換えるためにとりあえずExperimental APIで全部持ち越した」の先にあるのは、「ちょっとずつ移行しようと思ってたけど、どうやって移行したらいいか見当もつかない」という混乱、そして何もできずに手をこまねいての停滞、最終的には時間切れ(Experimental APIの廃止)での完全死だけ。そうなる前に、いかに早く頭を切り替えて腹を括ってゼロから作り直そうと思い切れるか、それが生死を分けると僕は思ってます。

優先順位が違ったから僕は腹を括れたのかもしれない

XULアドオンのWebExtensions化では、「WebExtensionsらしいやり方でゼロから作り直して」「APIが足りない部分は、WebExtensionsらしい作法に則ったAPIを提案する」「要望が通らなかったら諦める、無理はしない」というのが最も「正しい」やり方です。自分は一応今のところはそういう方針でやっているつもりですが、改めて考えてみると、僕がこの方針を取れているのは、僕の本心が、多くの「見境のない拡張機能の仕組みに今でもこだわり続けている人達」とは別の所にあったからなのかもしれません。

元記事に寄せられたPale Moonのメンテナーの人のコメントでは、徹底的なカスタマイズを必要としている人のために頑張っているのだ、ということが語られています。それ以外の怨念の籠もったコメントや捨て台詞じみたコメントも、通底しているのは「自分のやりたいようにカスタマイズできることが一番大事、それ以外は二の次」という価値観のように僕には思えました。

対する僕は、「Mozillaの掲げるOpen Webの実現が一番大事、そのために必要な物としてGeckoというレンダリングエンジン実装が継続することが必要、自分のやりたいようにカスタマイズできることは二の次」と考えているようです。いま自分がインターネットを使いたいように使えるのはOpen Webがあってこそで、その邪魔になるなら自分の細かい要望は(なるべく実現できるに越したことはないけど、どうしても衝突するなら)脇に置いても構わない、というか、自分の要望を無理に押し通した結果Open Webが失われては元も子もない、という考え方なのだと思います。

これはべつに、Mozilla信者だからMozillaの言うことに何でも従ってる、というわけではありません。Mozillaに入れ込むようになるより以前、W3C信者として調子こいてた頃に僕が入れ込んでいた、アクセシビリティとかユニバーサルとかの話が先にあって、Mozillaの掲げるOpen Webはそれに連なる物だと捉えている、ということです。(そもそもで言えば、僕はWeb標準を素晴らしいと思っていて、そのWeb標準の技術に基づいたXULとCSSて実用的なデスクトップアプリケーションを作れる実例が示されていたから、ということでMozillaに入れ込むようになったのでした。)だから、もしMozillaが「Open Webなんかどうでもいい、Web技術の標準化とかどうでもいい」なんて言いだしたら、僕はその時の方が深く失望すると思います。

 

この日記の話題が、ここ数年ジェンダーとか差別とか多様性とかそういう話ばっかに偏ってた感じはありましたし、「シス管系女子」でみんとちゃんやその周辺の人物達の様子を描くときにもそれがずっと裏テーマとしてはあったんですが、それらも大きな括りでは近いところにあるんですよね。

そう考えると、僕がやってることはあれもこれもどっかで繋がってるんだなと。しがないラジオのとき自分のやってきたことを線で繋いだ図にしたけど、単にバラバラにそれらがあったわけじゃなく、1つの価値観の多様な表現形だったということなのかなと。

W3C信者活動をやめてすっかり軸足がよそに移ってしまったと思ってたけど、判断の根底にはまだまだW3C信者だった頃の何かが残ってたんだなあ、と改めて思い知らされて、感慨深い思いをしたここ数日だったのでした。

Chromiumのコミットメッセージの「よりinclusiveにする」とはどういう意味か、GitHubがしている事の何がキナ臭いのか - Jun 16, 2020

1つ前のエントリにちょいちょい追記してるんだけど、見通しが悪くなってしまったので別エントリにした。

blacklistをblocklistにするとか、master/slaveを別の語に言い換えるとかの変更は、一体誰のためのもので、どういう意義があるのか? という問いに対して、1つ前のエントリを書き始めた時点でまだ自分は完全に腑に落ちる理解ができていなかったように思う。

その後、観測した反応や他の人による同じ件への言及を見ていて少しずつ、表題の話が腑に落ちるようになった。と同時に、改めて、先の言い換えを推進する流れの妥当性の怪しさを感じた。

自分がどう理解しどう腑に落ちたのか、今どのような疑問を持っているのか、を記録のためにまとめる。

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ポジショントークに騙されないようにしたいし、狭い視野でポジショントークじみた極論を言うよりも、メリットとデメリット両方を把握した上でソフトランディングを図っていきたい - Jun 06, 2020

ツイッターでつぶやいてた話

匿名と実名、どちらか一方を称揚する発言に対する評価の話

ネットは実名であるべきなのか匿名であるべきか、という話は何年かに一回くらい目にする議論な気がする。

自分は、「Piro」というハンドル(ペンネーム)で、匿名でWebを使い始めて、「OSSのライセンス文には本名を書かないといけないらしい」という誤解があって途中から実名も公表するようになったので、実名のメリットもデメリットも、匿名のメリットもデメリットも、全部一通り我が事として体験してきたと思う。

その上で思うのは、「匿名の連中は無責任だから全員実名を強制するべきだ」「いや匿名の方がいい、実名を使いたがるやつは売名目的だから出ていけ」みたいな、「自分がどうするか」ではなくて「みんなどうするべきか」でどっちかに寄せたがる発言をする人や、そういう言説は、あんまり信用しちゃいけないな、ということ。

  • 確かに実名の公表には、「子供もいないし子育てもしたこともない人が教育論を語っている」「社会に出たこともない人が仕事論を語っている」ようなまやかしを防ぐ効果がある。それに「馬鹿な事をしないように慎もう」と思わせる一定の力もある。
    • けれど、馬鹿な事をやらかす人は実名でもやる。Webが一般的になる前のパソコン通信時代やネットニュース時代に一番ヤバい事をしていたキチは、実名だったという。実名公表は、最後の一線として究極的には機能しない。
  • 確かに匿名の言論には、「既に知名度のある人が、社会的地位を濫用して道理の通らぬ事を押し通す」事を阻む効果がある。「その人の社会的地位から切り離された、純粋な言論だけでやり取りされるフェアな世界」がもたらされるように見える。
    • けれど、それは同時に「過去何度も同じやらかしをしてきた人が、素知らぬ顔でまた同じやらかしをする」「過去何度も他人を騙してきた人が、次の獲物を狙う」「その時その時でコロコロと言う事が変わり、理屈に一貫性がなく、確たる裏打ちがあってそう言っている訳ではない、という事実を包み隠す」ことをも容易にする。「フェアな世界」に見えていた物は、詰まるところ、相手を口八丁で言いくるめる技に長けた人が有利なだけの世界に過ぎない。

まずかつての自分のように、こういうそれぞれのデメリットを分かっていなかった(言葉で知っていても実感はしていなかった)時点で、わかりやすいメリットだけ並べて「だからみんなそうするべきだ」って言ってる人は、視野が狭く考えの浅いアホなので、信用するに値しない。

また、匿名のデメリットも実名のデメリットも分かった上で、デメリットを伏せてメリットだけ並べて「だからみんなそうするべきだ」と言ってる人は、自分の持つ武器(社会的地位なり、相手を言いくるめる術なり)が最大の効力を発揮し、自分の持つ不利(社会的地位の無さなり、理屈のガバガバさなり)を最大限ごまかすのに、たまたまそっちの方が都合がいいからそう言ってるだけの事が多い(そういう発言を「ポジショントーク」と呼ぶ)。自分の都合のいいように世論を動かして自分が利益を得たいだけで、煽られた他人が実際に被る不利益の事なんか知ったこっちゃないのに、それを隠してる不誠実な人なので、これも信用してはいけない。

善意のアホが悪意のポジショントーカーに乗せられてる事もあるし、アホが無自覚にポジショントーカーになってしまってる事もある。結局ポジショントークをする人にロクな人はいない。「ポジショントークをしない事」イコール「信用に足る」という事では必ずしもない(信用する十分条件ではない)けれども、ポジショントークをしてる人の事は真っ先に「あ、この人は信用しちゃ駄目だ、信用しない人リストに突っ込んじゃっていいや」とバッサリ切ってしまっても、大抵は不都合がない(信用する必要条件ではある)。今の自分の感覚をなるべく正確に言い表すと、こんな感じになると思う。

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性役割が逆転された世界、の描き方に現れる視点の違い - May 08, 2020

ほんとに「女が強い時代」って、こういうこと? 「女が支配する社会」を描いたディストピア作品3選 - wezzy|ウェジー という記事が話題になっているのを観測した。自分の観測範囲では批判的な感想が多かったように感じるけれど、それは「この記事を批判的に見た人が、記事を紹介し、同様の批判的意見を紹介している様子」を観測したせいかもしれない。

男女の性役割逆転というのは昔から度々描かれているようで、家畜人ヤプーはその代表的な一作と言えるようだ(僕は江川達也氏による漫画版だけ見た)。僕は先の記事に挙げられている3作品はいずれも未見だけれども、近年の観測範囲でも、立て続けに2作品ほど男女の性役割逆転を描いた作品を見かけた。ただ、先の記事の3作品や「家畜人ヤプー」と、僕の観測した2作品とでは、描き方にどうも差があるように感じられた。

 

僕の観測した1作目は「貞操逆転世界」(原作:天原、漫画:万太郎)で、主人公が「性」に関する事だけ男女の性役割の逆転した世界に迷い込んでしまうという内容。先の記事で紹介されている「軽い男じゃないのよ」とプロットは似ていて、「街中に無意味に男の水着の広告が溢れている」のような描写も共通しているようだけど、設定としては以下の点が大きく異なる。

  • 主人公は男性ではなく女性。
  • 主人公は社会人ではなく学生(高校生)。
  • 体力・体格差などの肉体的な性差は逆転していない(性的な消費・被消費の関係以外は現実世界を踏襲している)。

これらの事から、本作は「今まで優位な立場だった人が、劣位の立場に戸惑う」という内容ではなく、「今まで消費される性の立場だった人が、消費する性の立場に戸惑う」という内容になっている。

敢えて「優位・劣位」と書かなかったのは、本作では「高校生」という、性差が経済的な差や権力差にあまり結び付いていない年代の視点であるために、必ずしも「性役割が逆転したら女性が優位になっている」とは限らないからだ。

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「もっと考えろよ」「想像力なさすぎだろ」みたいな言い方を僕はしたくないなっていう話 - May 06, 2020

IQが20違うと会話が成立しない、みたいな話は昔からよく聞くけど、そもそも「自分自身が一般よりIQが高い天才です、一般人と会話が通じなくて困ってます」って当事者になってることがあんまり無いと思うので、実際そうなのか?ってのはよく分からない人の方が多いんじゃないかと思うんですよね。僕もそのクチで。

ツイッターみてたら、そういう場面において、一般よりもIQが高く「ギフテッド」と呼ばれる人の側が当事者として実際どう感じているのか、をご自身の体験から詳しく説明されている記事が流れてきて、読んでみたら、前々から「きっとこういうことなんだろうなあ」と考えてた事とわりと合致する話が書かれてたんですよ。

というのも、これって「自分がアニオタで、アニメにまったく興味がない人に話が通じない」みたいな場面にすごく似てるなって思ったんですよね。

  • 自分はその作品にも、作品が生まれた背景にも、今のオタク業界にも色々詳しくて、業界用語もめっちゃたくさん知ってる。オタク仲間同士なら呼吸をするように自然に会話が成立する。
  • でも、そういう前提を共有してない人と話すとなるとものすごく大変。好きな作品の好きなキャラの事を語ろうとしても、作品の説明に時間がかかるし、キャラの説明に時間がかかるし、「◯◯という作品の××というキャラのように……」みたいに言うとその「◯◯」や「××」自体も詳しく説明しないと分かってもらえないし……

こういうの、すごく身に覚えがあるんですよね。「オタク知識」の話でなくても、社会人だったら自分の業務分野・専門分野の知識とか、自分は滅茶苦茶詳しくてお客さんは全然詳しくないので説明に苦労するってのはすごくありふれた話だと思うんです。自分も今まさに、テクニカルサポートの業務でお客さんに説明する場面でそういう事はよくあるし、Linuxのシェルコマンドの解説漫画を描く上で大変な事もまさにそういう事だし。

で、「自分側が知識がありすぎて、知識が無い側の人に話が通じなかった」体験をそういう風に想起できる一方で、「自分側の知識レベルや頭の回転速度が低過ぎて、有能な相手がする話の内容がまるで理解できなかった」体験もまた、自分には想起できるんですよね。学校で先生の言う話が分からなくて授業についていけないとか、仕事の上で先輩の話しに全然ついていけないとか。むしろこっちの方が多いくらい。

なので、自分としては「IQが20も違うと会話が成立しない」という話の両方の当事者の感覚を想像しながら、先の記事を読んだんです。

それで思ったのが、「この記事を書かれた方(ギフテッドの人)には、もしかして、自分の話を相手に理解してもらえなかった経験はあっても、相手の話が自分には理解できなかった経験が無かったりするんだろうか?」という事で。

そもそも記事自体が「IQが高い側の弁明」という体裁だから敢えてそう書いたのかもしれないんですが、「やばい、相手の言ってることがまるで自分には理解できない。どんなに説明されてもチンプンカンプンだ」という感覚が、あまりその記事からは感じられないような気がして。

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僕がある問題について自分がどう考えるかとその背景を書いているのは、フルブレーキングの副産物に過ぎない、という話 - Dec 08, 2019

blogとの付き合い方について あるいはなぜ自分がblogを書き続けているかについて - podhmo's diaryという記事の中で、僕の事が以下のように評されてました。

Piro_orさんはある問題について自分はこう考えるということの表明とその背景説明がとても上手な印象です。

これを書かれた方ご自身は「自分の思った事を書く」という事が今あまりできていないそうで、それで「できている人」として例に挙げて下さっていて、尊敬しているとまでおっしゃって頂いていてなんというか恐縮です。確かに、自分でもそういう事をよくしているような気がしてます。

ただ、自分がそうしている事の動機がどこにあるのかという事を改めて考えてみると、必ずしも目指すに値する対象とは言えないんじゃないだろうかという気がしています。

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