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「真っ当なエンジニアリング」を意識してるITエンジニアと、ヴィーガンって似てるのかも知れない - Dec 04, 2020

コーディングスタイルを統一して読みやすい状態を保ち、変数や関数の名前付けは意味を取りやすい物にし、変数の再代入は可能な限り避けて、静的な型を使って静的解析を可能にし、モジュールは適切な粒度と凝集度を意識して設計し、自動テストも書いて、コミットごとにCIを回して。
Gitのコミットは、変更の意味を掴める単位に分割して行い、コミットメッセージは変更の意図が分かるように書き、複数人での開発ではマージコミットがなるべく発生しないようrebaseを使うようにして。
サーバーの構築・運用は、sshで入って手作業で操作するのではなく、Ansibleなどのプロビジョニング用の仕組みを使って静的な設定ファイルから環境を自動構築できるようにして。

……といった諸々のことは、決して最先端の人だけがやることでも、単なる一過性のトレンドでもなく、あらゆる現場で通用する(現時点での)ベストプラクティスと呼べる知見・姿勢だと僕は思ってる。実際、t_wadaさんによる主に自動テストにフォーカスを当てた「質とスピード」という発表の資料(2020秋版)で語られている所によれば、開発期間が1ヵ月を超える規模になったら、保守性を高く保つ真っ当なエンジニアリングを実践した方が、開発速度の面でも有利となり、ビジネス的にも合理的と言えるのだそうだ。

そういう「真っ当なエンジニアリング」について、少なくともWeb上に生息しているITエンジニアの、特に「開発に関わる者」という属性を持つ人の間では、「やってる方が不合理だと感じる」よりは、「やってないことに負い目を感じる」人の方が多そうな印象がある。

 

それと比べると、ヴィーガンを自称する、動物性タンパク質を排して植物だけ食べるという思想? 運動? をやってる人達に対する、「食べる事に関わる者」「生活する事に関わる者」という属性を持つ人(つまり自分も含めた全員)からの見方は、「やってないことに負い目を感じる」人よりは「やってる方が不合理だと感じる」人の方が多いような印象がある。

というか、自分自身がそうで、正直「はぁ~、えらいどうでもええことに命かけてはりますねんなぁ~、僕ぁよう真似しまへんわ~、まあせいぜい頑張らはったらええんちゃいますか~」くらいに思ってる。思ってた。

だいたい、身近にヴィーガンがいない状態で生活しててヴィーガンを観測する場面というと、肉バルにわざわざ行って菜食のみのメニューをくれと要求するだとか、畜舎を破壊して家畜を逃がすとかの、狂信者とかテロリストじみた厄介者として観測される場合が多いので、いい印象を持ちようがないのも当たり前だと思う。

しかし、Twitterで別の目的でフォローした人がたまたまヴィーガンをやっていて、特に誰かに噛み付くでもなく、ヴィーガンテロを称賛するでもなく、ただ自身の生活の一環としてヴィーガン食の紹介だけをしている様子をしばらく観測しているうちに、どうも、ヴィーガンを自称する人の全員が全員狂信的テロリストというわけでもないようだ、と思うようになってきた。

確かに、理性的に考えれば、マクドナルドがヴィーガン向けメニューを発売したなんてニュースが聞かれるということは、巨大チェーンでわざわざメニューを設けて収益を伸ばせると目算が付く程度には、(現時点で、あるいは将来的に)需要が見込めるということで、顧客層の中にフツーに一定割合ヴィーガンがいる、ということの表れと見なしていいのだろう。テロリストと見なされて排除されるどころか、有望な顧客層として歓迎される程度に、社会と軋轢を起こすことなく普通に生活しているヴィーガンがそれなりの数いる、ということなのだろう。

 

「ヴィーガン」というと、「完全菜食主義者」という説明をよく聞く。菜食主義者(ベジタリアン)に括られる人達の中でも、牛乳はOKとか卵はOKとか魚はOKとか鶏はOKとか色々レベルや分類があるそうで、ヴィーガンはその中でも特に厳格な方だという。

ただ、その動機は全員が全員同じというわけでもないらしい。「動物さんが可哀想だから」というのは、数が多いとしてもあくまで一派に過ぎないらしく、「健康のために」という動機の人も、「サステナビリティ(社会の持続可能性)のために」という動機の人もいるようだ。
ヴィーガンという言葉を耳にするようになってから結構な時間が経っているので、そもそも自発的な動機でヴィーガンになったわけではない、2世ヴィーガンというのもいるのかもしれない。最近読んだ「ダーウィン事変」というマンガの主人公は「ヴィーガンの両親によってそういうものとして育てられたから、肉を食べる習慣がない。肉を食べようと思えば食べられるだろうけど、敢えてそうする動機が特に無いので、自分は今もヴィーガンメニューを食べているだけ。他のヴィーガンの考えは知らんし、僕のことヴィーガン代表みたいに思って食ってかかられても正直困るわ、ほっといてんか」みたいなスタンスとして描かれているけど、実際いたらそんな温度感になってそうだなと思う。

先述のフォローしてる人の日常のツイートを観測していて知ったけど、最近は「部分的にヴィーガニズムを実践する」人が増えつつあるらしい。ただ、それは「ヴィーガンを自認していない人が、生活を送る中で、何らかの目的で合理的な選択をした結果として、生活スタイルがヴィーガニズムと重なることがある」ということのようだ。

例えば、僕がコレステロール値を気にして週に数回野菜だけのメニューを食べるようになったとして、それがヴィーガンメニューで、メニューを選ぶときに「へぇ、これヴィーガン食なんだ。ふうん、環境負荷が低いんだ。それはいいね」と思って、次以降のメニュー選択時に「環境負荷が低いらしいしね」と選択の動機の中にヴィーガニズム的な観点が加わるようになったら、それはもう、ヴィーガンの人的にはヴィーガニズムの実践ということになるらしい。

そんな「純粋でない」ものが、ガチのヴィーガンの人にとってヴィーガニズムと言えるのだろうか?と僕は思うのだけれど、

  • 結果的に今より少しでも動物愛護やサステナビリティの実現度合いが高まることが大事である。
  • 修行僧のような徹底したヴィーガン生活を送る人が1人増えるだけよりも、週に1回だけヴィーガンメニューを選ぶ人が100人増えれば、それだけ肉食の需要が減り、畜産業が縮小することにつながるので、動物愛護やサステナビリティの実現度合いがより高まる。

という理屈から、「穏健派」のヴィーガンの人的には肯定できるのだそうだ。

自分の場合に置き換えてみると、「あらゆる面で完璧な真っ当なエンジニアリングをしていなければ駄目だ」とは実際思っていなくて、ミクロな所からでも、無理なくできる範囲から少しずつやればいいじゃないか、と思っている。
大事なのは「完璧にやりきること」ではなく「少しでもマシな状態にすること」なのだから、半端だから貶そうなんて思いもしない。
それと同じような感覚と考えると、僕としては納得しやすい。

そういえば先日、「BBQをやる動画の中で、ヴィーガン向けにとわざわざ言って植物性の油を肉にかけて、ヴィーガンを揶揄している様子」が紹介されていたのを見かけたけど、先述の理屈からいうと、これも動物性油脂製品の需要を結果的に減らすということで、段階的なヴィーガニズムの実践として肯定されうるのかもしれない。まあ、肉を焼くならそのまま肉の脂を使った方が合理的な気はするけれども。

 

僕はヴィーガニズムそのものに全面的に帰依するつもりはないけれど、自分にとっての合理的な選択をした結果の生活に、ヴィーガンと重なる部分が出てくることまで否定するつもりもない。
ヴィーガンの人達の「植物食だけで必要な栄養素はすべて満たせる」「こっちの方がサステナビリティが高い」という主張を鵜呑みにはできないけれど、エビデンス付きで本当にそうだと示されてることについては、選ぶのに抵抗はない。
だってまあ、長生きしたいし、人類文明にも長く続いて欲しいし。
「あのヴィーガン連中がやってることと同じことなんて、意地でもしたくないね」なんて派閥主義に囚われて何かを見失って損をしたくはないな、と思ってる。

 

保守性という技術の話の「真っ当なエンジニアリング」と、動物可哀想というお気持ちの話のヴィーガニスムを一緒にするなんて、ナンセンスだ! と思うだろうか?

でも、僕にとっては、真っ当なエンジニアリングとは合理の話であると同時に、美意識というお気持ちの話でもある。真っ当な物は美しい、より美しくあることを正当化するために理屈を後付けしている、という側面が全く無いとは、僕には言い切れない。

また、「真っ当なエンジニアリング」を意識する姿勢を「過剰品質だ」「ビジネスとはそぐわない、非現実的な戯れ言だ」と軽んじて憚らない人も、「こういうのって2~3年目くらいの人がイキリで言いがちだよね」みたいに揶揄する人もいる。

なので、求道的なヴィーガニスムというものや、淡々と実践してる人の心理に、シンパシーを感じる所があるのは否定できない。

 

それはさておき、こういうことを書く直接のきっかけになったこととして、卵を使わないヴィーガンマヨネーズを紹介するインスタの投稿のコメントの、こんなくだりがあった。

こういう話をするのは実は抵抗があって、と言うのも卵を食べる人に、え、それって食べてる私は人でなしって言いたの、、、?って居心地の悪い思いをさせてしまいそうで。 全然そんなこと思ってないです。

うんうん。ヴィーガンを自称する人達の多くは、実はそうなのかもしれない。ヴィーガンだから偉いとか、ヴィーガンじゃないから愚かだとか非道者だとか、そんなことを思ってる人は少数派なのかもしれない。実は心穏やかな人の方が多くて、考えを異にする人ともお互いに素直に尊重し合えて、尊敬し合えるのかもしれない。ヴィーガンと非ヴィーガンで、無理なく共存を図れるのかもしれないね。

……なんて言いだすの、なんかすっごく欺瞞くせー。「ワタシはみんなのことを見下してませんよー」ってアピールをすればするほど、嘘くささが増す気がする。「実践できてる方が望ましいし上だ、と感じる元になっている価値観」の存在そのものを必死に隠す必要まではないんじゃないの、と僕は思った。

 

だって、自分がそんな超然としてないから。
真っ当なエンジニアリングに価値を見出して、実践を心がけている者として、実践していない人の事を残念に思ってしまう気持ちを持つことがあることは、否定できないから。
実践できてない人に対して、「いつまでも実践できてないままでいて欲しい、その姿勢を尊重し尊敬したい」とは思えないから。
今実践していない人の事は、いつか実践できる人になれるまでの途中段階に過ぎない、とか本音の所では思ってたりもするから。
自分と関係ない所で酷いエンジニアリングをしてる人にわざわざ食ってかかったりまではしないけど、自分と同じプロジェクトで作業するなら、真っ当なエンジニアリングに価値を見出す考えくらいは共有してて欲しい、真っ当なエンジニアリングを嘲って馬鹿にするような人と一緒には組みたくない、とは思ってるから。

そもそも、「より実践できてる方が望ましい」と優劣付ける考え方を持ってるからこそ、「自分がより良くなるために」努力しているわけで。
その考え方を持ってる以上、「自分よりできてない人」「自分よりやってない人」「軽んじて否定してる人」は、どうしたって「下」に感じられてしまう、そう感じる心自体を持たないでいる事なんて、無理でしょ。

でも、そんな僕が特別に傲慢だとは思わない。「毎日自炊してる方が望ましい」「毎日掃除してる方が望ましい」「毎日運動してる方が望ましい」「賞味期限切れの物を食べるのは望ましくない」「犯罪を犯すのは望ましくない」「表現の自由を軽視するのは望ましくない」などなど、序列を付けられることはいくらでもある。
僕が誰かのことを「真っ当なエンジニアリングに理解がない、と見下してる」のだとしたら、同時に僕だって、誰かから「賞味期限切れの物を平気で食べる危機意識のない奴だ、と見下されてる」「表現の自由を踏みにじって表現規制に利することを言っている愚か者だ、と見下されてる」。それは間違い無い。じゃなきゃこんなにTwitterでブロックされてない。

これもまた「ダーウィン事変」の中で描かれていたことだけれど、友人キャラ(一般人)が、主人公を育てたヴィーガンの両親に接して、「あなた達は、私もヴィーガンになるべきだと思っているか?」と冷や汗交じりに尋ねて、妻が言いよどむ一方で夫は「うん、そう思っている」と断言する、というくだりがあった。咎める妻に、夫は「この子は、僕らが内心でどう思っているかを尋ねたのだから、僕も素直にどう思っているかを答えただけだ」と返し、「変わることを迫りはしないけれども、考えを理解して一部でも取り入れてくれたらいいと思っている」と続ける、という流れだったように記憶してる。

 

ただ、僕としては、わざわざ他人のことを「見下す」ことに積極的にエネルギーや精神力を使おうとは思ってない。

というか、日常的に見下して優劣を付ける相手を定めるとしたら、それは「実践できていなかった昨日の自分」だけにしておくのがいいと思ってる。「実践を継続できてる今日の自分」や「より実践するようになった今日の自分」を認識することとセットで。つまり、そうやって「昨日の自分」より劣らずにいられてると言えるくらいに、日々努力を怠らないようにする、ということ。

そういうふうにしようと思ったら、自分よりできてない他の人のことをわざわざあげつらって貶すのなんて、不毛だしリソースの無駄だよね。あげつらえるような相手を探して回ってたら、なおのこと。そんなことをやってて「昨日の自分」より劣化せずにいられるか? そんなことしてるヒマがあったら、もっと他にやらないかんことがいっぱいある。

そういうのを脇に置いてでも、はっきり意識的に「相手を見下す」ことがあるとしたら、八つ当たりの揶揄で煽られたり喧嘩をふっかけられたりしたときくらいじゃないかな、とは思う。

先の「ダーウィン事変」のくだりも、そのくらいに思想が異なっていても、内心では相手に「自分が思う理想」に近付いて欲しいと思っていても、相手の判断に踏み込まずに軋轢を避けるくらいのことはできるものだ、ということを描いているのだと自分は受け取った。

 

とにかく何が言いたかったかというと、「何かを実践できてるか、そうでないか」「どのくらい実践できてるか、どのくらいできてないか」を見極める価値基準を持つことと、その基準を自分と他人の間に当てはめること、ましてや、見下した態度を取るとか喧嘩をふっかけるとかいった、相手との間に無駄な軋轢を生じるような真似をすることとは、イコールではないということ。
イコールではないけれど、価値基準を持った結果の必然として、視界の中に偶然にでも相手が入ってしまったら、心の中で無意識のうちに比較してしまうのはしょうがないでしょ、ということ。
それであからさまな態度に出したり説教食らわせてきたりしないなら、べつにいいじゃん、ということ。

だから、必死になって予防線を何重にも張って超越者的な無我の境地をアピールをする必要までは、ないんじゃないかなあ。ということを、先のインスタの投稿コメントの必死さを見て、僕は思ったのでした。

まあ、でも、最初に書いたように、「ヴィーガン」っていうと、馴染みの無い人からは「狂信的テロリスト」くらいに思われてしまうかもしれない。それで、狂信的テロリストな人らが犯した罪の「償い」として、サンドバッグ扱いを強いられるかもしれない。
ということを思うと、予防線を張り巡らしたくなるのも致し方ないのかな。なんとも大変そうだ。

 

と、他人事のように書いたけど、僕自身が「ユニバーサルでアクセシブルなWeb」に感銘を受けて、本文(HTML)とスタイリング(CSS)の分離やアクセシビリティの向上やセマンティックなマーク付けに入れ込んで、他人に食ってかかって、普及啓蒙活動のつもりで迷惑な調伏を繰り返して、現実を見ずにお気持ちだけで暴走してる厄介な迷惑者の「W3C信者」と揶揄されウザがられて、ウザがられないで普及啓蒙をできる方法をと思って「穏健派」を自認して自ら行動を律するよう意識して、実利面にフォーカスして実例やメリットを示すようにしていった、という過去の事実があるので、全然他人事じゃなくてむしろ自分ごとに思えてるんだった。

ヴィーガニズムがサステナビリティのように実利面にフォーカスしたり、お気持ち表明と言われないような数字や事実に基づくアピールの仕方をしたりするようになってる、というのが、そういう過去の自分の振るまいと重なって見えて、それもあって僕は「おー、おー、客観的に自分を見て色々工夫するようになったんやなあ、まあがんばりやー」みたいな気持ちで見てるのかもしれない。

分類:出来事・雑感, , 時刻:03:42 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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