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アツギ社が「タイツの日」に合わせて行った「ラブタイツ」キャンペーンが、各方面から批判されて中止になった件について、批判側に立っていた人の一人として書いてみます。
なお、アツギ社による公式の謝罪が既に出ていますので、このエントリはこれ以上の批判・非難を意図しません。自分がこの企画の何をどのように問題だと考えたかの自己分析・記録・説明と、表現に関わるあらゆる人が似たような事を繰り返さないための判断材料の提供を意図しています。
キャンペーンに直接関係しない部分の前提となる事柄。
自分自身がフェチ愛好家の一人なので、自分自身の立ち位置も示します。
キャンペーン以前から自分が観測・認知していた事柄と、自分のしていた事。
キャンペーン前後に観測した事と、自分の思った事・した事。
キャンペーンに否定的な側は、一枚岩ではないです。以下、否定的見解として自分が直接観測した物、批判者批判を通じて間接的に観測した物について、自分の解釈でいくつか列挙します。いずれも、仮に妥当な物であったとしても、キャンペーンを中止させるに足る理由になるかどうかは別の話です。
繰り返しますが、それぞれが妥当なものであるかどうかや、キャンペーンを中心させるに足る理由かどうかは、判断材料も不足しているので、客観的な所はここでは語りません(語り得ません)。
自分個人は、上記の中では「教育的な悪影響を懸念する」立場です。詳細は後述します。
それ以外の切り口には個人的には、理解はしますが、同調はしていません。キャンペーン中止を求める理由としては、疑問が残ると考えています(これは、自分自身が男性で、当事者感覚が薄いからかもしれません)。
自分個人はそのように考えますが、企業としてアツギが損得を考えた結果、キャンペーンを中止する判断を下したという事実はあります。公式の謝罪文からは、上記のどれを、あるいは上記以外の何を重視したのかを、自分は読み取れませんでした。
キャンペーンが継続した場合にもたらしていたのではないかと予想される悪影響につおて、自分が思い付く物、否定派が挙げたと思われる物をいくつか列挙します。いずれも数字の裏付けはありません。
キャンペーンの中止がもたらすと予想される悪影響も列挙します。
後半に同じような項目が並んでいます。批判者や擁護者の中には、(自分がそうであるように)何かを良くする事を期待して批判や擁護をしている人もいるはずですが、批判者や擁護者の思惑とは裏腹に、この騒動自体があった事自体が、いずれにしろ何らかの不利益をもたらすでしょう。
前述の通り、自分は主にこの観点で懸念を抱いています。しかし、観測された批判者批判の意見では、ここへの言及はあまり見られなかったように思っています。それ故に、この点が軽視されたり、なかった事にされてしまう事を、自分は懸念しています。
「教育」というと「大人が子供に」という意味に限定されてしまいがちですが、自分の懸念は大人に対する影響も対象にしています。「啓蒙」「ポジショントーク」「プロパガンダ(政治的な思想・世論の誘導の意味で使われる事が多いですが、広義には政治以外の話でも使える言葉と自分は認識しています)」などの言葉の方が適切かもしれません。
比較して分かりやすいように、自分の懸念と似たような問題がある状況の例をいくつか挙げてみます。
夢のためにキツイ労働に耐えるのも、使命感から体に鞭打って頑張るのも、本人が望んでそうするなら無理には引き留められません。困難に打ち克つ事の素晴らしさや、ランナーズ・ハイのような高揚を求めて、辛さを承知の上で頑張るのは自由の範疇です。
ただ、そういったことを称揚する広告を大々的にする事は、「そうするのがフツーだし当たり前だよね」という意識を受け手に持たせる事に繋がる、と僕は思っています。
実際、新型コロナウィルスの事があるまでは、「ちょっとくらい体調が悪くても薬飲んで働くのが当たり前」「みんなそうしてるんだから、自分も(お前も)薬飲んで頑張らないと」という風潮が世の中には結構あったと思います。広告と風潮のどちらが先にあったのかは僕には分かりませんが、広告が風潮を維持する一助になっていたのは間違い無いでしょう。
それで一番得をするのは誰かというと、「安く働ける労働力を容易に安定して確保できる経営者」や「人件費が安く済むお陰で商品やサービスを安価で享受できる(我々)消費者」です。働く人に商品を売り込む広告が、実際には、働く人自身のためではなくその人を消費する側、搾取する側を利することになるわけです。
もちろん、そのような広告に関わった人達全員が、消費側・搾取側のためにと考えていたわけではないでしょう。中には、本気で「頑張るのはいい事だ、頑張るのを手助けしてくれるこの商品は良い物だ」と思っていた人もいたと思います。でも、作り手側の動機がどうであっても、結果は帳消しになりません。
話をタイツに戻します。
男女を問わず、自分の物でない女性の身体を「消費」したい人はいます。そこで、女性自身が対価を受け取った上で消費させたり(プロのモデルなど)、あるいは、自身がタイツフェチの女性がフェチ仲間の間での楽しみとして自分の体を使ったりするのは、自由の範疇です。ファンタジーを共有する同好の士が協力しあって、タイツの脚をギリギリまで見せて、ローアングルから強調して魅せた画を、イラストとして描いたり、写真で撮ったりして、「こういうのっていいよね」と楽しむ活動を、いかがわしいとか不道徳だとか言う人も世の中にいるでしょうが、合意の上で行われている事に、外側の人がどうこう言う筋合いは無いです。
言い換えると、合意してない人を勝手に巻き込んではいけません。例えば、盗撮や騙しがこれにあたります。僕はそういった物は犯罪と思うし、それ以前にアンフェアだと思っているので、肯定できません。
(「盗撮風」のファンタジーをフェアな取引で作ったとして、それを「本物」だと勘違いして消費する人がいたらどうするんだ、エスカレートして「本物」を求めるようになってしまったらどうするんだ、という懸念は妥当だと思っています。その解決を意図した試みの例が、「物事の道理を分かっている人だけがアクセスできるようにゾーニングする、例えば年齢制限を設ける」という事だと僕は認識しています。)
そして、「タイツをここまで見せるのは当たり前だよね」「本人の意思を無視してフェチ視点で消費するのはフツーだよね」というメッセージと受け取られやすい状況で表現を送り出す事は、合意していない人が巻き込まれやすくなったり、よく分からないまま安易に形式的な合意に応じてしまうリスクを増したりするのではないか、という事を自分は懸念しています。
また、同じ表現でも、いちイラストレーターが自発的に送り出すのと、メーカーが公式に送り出すのとでは、影響を与える度合いにも差があるのではないか、と考えています。個人よりは企業が言った方が、私企業よりは公的機関の方が、同じ事を言っても「お墨付きを与える」度合いが大きくなると自分は思っています。
自分の本件の認識はそういう事なので、イラストか写真かという違いは、問題の本質と基本的には関係ないことになります。同様の問題があれば、写真でも同じ批判は可能と考えますし、また、イラストや写真の内容がフェチ視点を抑え目にした物のみであったならば、あるいは、アダルト・フェチ愛好家向けの商品ラインなどの文脈だったのであれば、批判の必要は無いと考えます。
「TVCMを大々的に打ったわけでもない、たかがTwitter上での事にそんな影響力があるわけがないのに、過剰に心配しすぎだ」という指摘はありうると思っています。自分自身が長くネットに居着いているので、ネットの影響力を実際よりも過剰に捉えている可能性は否めません。
いち趣味人としては、キャンペーンの結果市中でタイツをはく人が増えるなら、そこは素直に嬉しく感じます。その感情に素直に従えば、自分は本件について擁護側に立つはずの所です。
また、自分は基本的には「マイノリティが抑圧される場面を減らしたい」というスタンスです。アニメマンガ系の絵が好きな人、そういう絵を描く人、フェチを持つ人、フェチを持つ女性が、それだけで白眼視されたり非難されたりするような事は、許し難いです。
ですが、ここまでで述べたような事を考慮すると、これでアニメマンガ系の絵がより広まったり、フェチ視点でより嬉しい結果になったりしたとしても、自分は手放しでは喜べません。本音を隠して相手を自分の都合のいい方向に誘導して美味しい所をかっさらうような、後ろめたさを感じてしまいます。趣味人は趣味の世界を守ると同時に、外の人を趣味から守る事もしないといけない、と考えています。
このキャンペーンで行われた表現が、そういった点について十分に検討された結果の物であったのかどうか、外部からは知る由もありません。ただ、自分自身もフェチ愛好家且つ表現活動を行っている者の心理としては、「あまり深く考えないまま軽率にやらかす」ことが自分でもあり、今回もそのような経緯だったのではないか?と邪推せずにはいられませんでした。
そういうわけで、自分で自分の首を絞めることになるとは思いつつ(実際、本件以後に絵描き側・表現の自由を重視する側の人から何人か新たにブロックされたようです)、批判的な側に自分の立ち位置を決めたのでした。
以上が、自分がアツギ社というメーカーがキャンペーンの中でフェチを前面に出す事を問題だと考えた理由の説明です。
あくまで数字の裏付けのない「自分は経験上そう思う」というだけの話なので、キャンペーン中止を強く求める理由としては弱いと思っています。「関係者の方々にはそこを考慮してもらいたい、事前に考慮して欲しかった」「考慮の結果キャンペーンが軌道修正されると自分としては嬉しい」とは思っていましたが、それを積極的に投書するほどの勢いは持っていませんでした。「何かのきっかけで公式の目に留まってくれればいいのだけれど」くらいの淡い期待と他人任せの無責任に基づいて、「軌道修正が図られなかったら、その時はその時だろう。自分達で巻いている種なんだから、どうにでもなってくれ」くらいの捉え方をしていました。
また、コンテンツの内容そのものではなく、そのコンテンツが世に送り出される文脈の問題だ、という認識なので、それ以外の批判側の主張には自分は同調していません。(「自称リベラルの身内向けポーズ」という部分については、見た人の判断に委ねますが、少なくとも主目的ではないつもりです。)
あと、こういう事を書いているからといって、自分が実際に無謬である・ここに書いたような線引きを本当に実践できていると言い切れるとは思っていません。「現行不一致じゃねーか、偉そうな事言ってお前が自分でやらかしてるじゃねーか」という指摘は甘んじて受けます。
表現規制をテーマにした漫画作品「有害都市」に、燃え尽きて焼け野原になった後で奴らは白々しくこういう言い訳を残すのさ “そこまで燃やすつもりはなかったんだ”とね
という有名な一節があります。このエントリの内容も、「白々しい言い訳」と切り捨てられるのかもしれません。そう思う人はそう思ってくれていいですが、そう思わない人の心に何かしらの影響が残ってくれれば、と自分は思っています。
2020年12月23日追記。いわゆる萌え絵な絵が東京都高等学校文化祭 第31回 中央展の奨励賞を受賞したニュースについて、個人よりは企業が言った方が、私企業よりは公的機関の方が、同じ事を言っても「お墨付きを与える」度合いが大きくなる
という部分にあてはめるなら自分も批判側に立つべきでは? アツギのタイツは批判してこっちは批判しないのは首尾一貫してないのでは? という指摘があろうかとは思いますが、大人がやることと子供がやること、広告でやることと美術でやること、広く頒布されるものと美術展の会場まで行かなければ見られないもの、などなど他にも文脈の違いは色々とあり、自分は今のところ、この件については批判よりは擁護の立場を取っています。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2020-11-08_tights.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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