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ほんとに「女が強い時代」って、こういうこと? 「女が支配する社会」を描いたディストピア作品3選 - wezzy|ウェジー という記事が話題になっているのを観測した。自分の観測範囲では批判的な感想が多かったように感じるけれど、それは「この記事を批判的に見た人が、記事を紹介し、同様の批判的意見を紹介している様子」を観測したせいかもしれない。
男女の性役割逆転というのは昔から度々描かれているようで、家畜人ヤプーはその代表的な一作と言えるようだ(僕は江川達也氏による漫画版だけ見た)。僕は先の記事に挙げられている3作品はいずれも未見だけれども、近年の観測範囲でも、立て続けに2作品ほど男女の性役割逆転を描いた作品を見かけた。ただ、先の記事の3作品や「家畜人ヤプー」と、僕の観測した2作品とでは、描き方にどうも差があるように感じられた。
僕の観測した1作目は「貞操逆転世界」(原作:天原、漫画:万太郎)で、主人公が「性」に関する事だけ男女の性役割の逆転した世界に迷い込んでしまうという内容。先の記事で紹介されている「軽い男じゃないのよ」とプロットは似ていて、「街中に無意味に男の水着の広告が溢れている」のような描写も共通しているようだけど、設定としては以下の点が大きく異なる。
これらの事から、本作は「今まで優位な立場だった人が、劣位の立場に戸惑う」という内容ではなく、「今まで消費される性の立場だった人が、消費する性の立場に戸惑う」という内容になっている。
敢えて「優位・劣位」と書かなかったのは、本作では「高校生」という、性差が経済的な差や権力差にあまり結び付いていない年代の視点であるために、必ずしも「性役割が逆転したら女性が優位になっている」とは限らないからだ。
具体的には、主人公の友人女子はその世界で「下品なエロ猿」になっているのだけれど、そのせいで彼女は異性から「不潔!」と軽蔑され嫌われている。ヤリたい盛りなのに異性からはモテなくて、頼み込んでも「ヤラせてくれる」異性などいないし、風俗に行こうにも学生が気軽に払える金額ではない、と(敢えてこう書くけれど)「童貞臭い悶々とした感情」を抱えていたりする。
また別の女子は、異性からキャーキャー言われる眉目秀麗・成績優秀なスポーツウーマンではあるが、実はかなりのムッツリスケベで、見た目や言動に気を遣っているのもすべては「異性にモテたいから」と不純極まりない動機だったりする。
それ以外に、主人公が元の世界の感覚で「一緒に下着を買いに行こう」と友人を誘うと気持ち悪がられる(なぜなら魅力的な下着のある「ランジェリーショップ」は男子が行く所であり、女子はだいたいワゴン入りのテキトーな下着を使うのが当たり前だから)、とか、主人公の女子が性欲まみれの友人達に辟易して登山や釣りなどのアウトドアな趣味に没頭したところ、(現実世界で女性の多い分野に男性が下心なしで参加してかわいがられるように)主人公は本人の意に反して異性からの好感度が上がってしまう、といった「男子あるある」「女子あるある」の反転描写のシュールさも本作の面白い所なのだけれど。
ともあれ、現実社会には必ずしも男性優位・女性劣位とは言えない場面がある。こと「モテ」という分野では「モテ男>モテ女>モテない男>モテない女」という関係があり(※モテ男が最上位に来るのが、全体としては男性優位の社会である事の表れと言える)、この男女が逆転して「モテ女(キャーキャー言われる女子はここ)>モテ男>モテない女(主人公の友人はここ)>モテない男」になっているわけだ。社会全体としては「選ぶ性・異性を消費する性」である側の中でも権力闘争があり、また、その権力闘争に敗れると「選ばれる性」「消費される側の性」からも見下される事になる。「優位であるはずの属性を持っているのに優位になれない者の滑稽さ」を性役割逆転と絡めて描いているのは、本作のユニークなところであるように僕には思えた。
僕の観測した2作目は「科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌」(作:KAKERU)で、これは異世界転生・転移もの。本作は「蜘蛛人」「翼人」「人魚」「ケンタウロス」「吸血鬼」などのいわゆる亜人が生物学的に存在するとしたら、一体どういうものになるのか? 彼らの社会・文化はどのようになるのか? を考察した作品なのだけれど、作者の意図はむしろ、それらと対比することで現代社会・文化を批評・批判するという部分にあるようにも思える。
本作に登場する種族の中で主人公が最初に出会うのが「上半身は人間、下半身は蜘蛛型」の亜人・アラクネで、これが現代社会とは男女の性役割を逆転させたような文化を持っているものとして描かれている。
具体的には、アラクネ社会では女が狩りなどのあらゆる力仕事をこなし、村を外敵から守る。男は家を守り、家事をし、子を育てる。強い性の女が弱い性の男をぞんざいに扱う事は「女らしくない見下げ果てた行為」とされ、現代社会でいうところのDVとして強く非難される。というような描写がなされていた。
アラクネ社会の「女性優位」はあくまでその社会だけの話で、他種族の社会では、男女が完全に同権の場合も、男性が比較的優位な場合も、男性が強く優位な場合も、あるいは、実質的には女性が優位でありつつ建前上は男性が優位な場合もある。また、男女の権力差以外にも、各種族の身体的特性を活かした特産の交易品が存在していたり、種族同士の争いがあったりと、「色々な文化の交流と衝突」が描かれていて、それらをメタな視点で眺められるのが本作の面白い所だと僕は思っている。
この2作での男女の性役割逆転描写には、「フェアネス」や「ノブレス・オブリージュ」が前提に置かれ、セクハラ・モラハラ・パワハラといったハラスメント行為は否定的に捉えられている、という点が共通していると僕には思えた。
「貞操逆転世界」でも「アラクネ社会」でも、少なくとも物語で描写される範囲では、女性が男性を無理やり襲うという事はないようだ(現実社会においても性的暴行が犯罪なのと同様に)。端的に言えば、物語の登場人物達は基本的には互いの自由意志を尊重しあっており、それを侵す事は禁忌もしくは軽蔑に値すると見なしているように見える。「クリーチャー娘」では、また別の視点として「他者の尊厳を侵す権利を自分達は当然に有している、と考える者達」も描かれているけれど、それを亜人達の口から「自分達は獣とは違い神に近い特別な存在である、と勘違いしてしまう『人間病』」と呼ばせている事から見ても、肯定的に描かれているようには見えない。両作品とも、少なくとも作者は人の尊厳や自由意志の及ぶ範囲という物を深く理解している(「クリーチャー娘」は、その上でさらにそれを客観視すらしている)、と僕には思える。
「なので、この2作品は素晴らしい。女性が男性を虐げて鬱憤を晴らす内容に堕している作品群とはレベルが違う。」……という事を言いたいわけではない。僕はむしろ、僕の観測した2作品、そして、この2作品を「人の権利や性差といった話題に踏み込んだ作品は、説教臭くて鼻につくことが多いけど、これなら面白く読める」と感じた自分の中にこそ、差別性があるのではないか? という事を考えている。
敢えて露悪的に言うと、こういう事になる。「現実社会では男女差別は女性差別として現れている事の方が多く、経済的にも権利的にも不利益を被っている事が、そしてそれが肯定されている事が多々ある。よって、それらを反転した社会をありのままに描くなら、そこには当然、反転された差別が肯定的に捉えられている様子も含まれているのが自然だろう。しかしながら、これらの作品ではそういった描写が取り除かれていたり、否定的に描かれていたりする。これは、作者の視界、あるいは読者の視界には現実の差別が見えていなかった事の表れなのではないか? もしかしたら、私は差別を許しません、という安全地帯に身を置いて、差別に見て見ぬフリをしているという事なのではないか?」と。
もっと言えば、「社会的な弱者とされる女性が、強者とされる男性を断罪し強く批判する」という社会の流れの中で、批判され続ける事に耐えきれなくなった「弱者男性」の側から発せられたカウンターとしての、「男だって責任負ってて辛いんだぜ、男はこんなにも紳士的に女に接しようとしてるんだぜ(だから俺らの事は非難の対象から除外して欲しい)」という事の間接的なアピールに過ぎないのではないか? と。
(こういう事を書くと、「こいつは女に尻尾振って自ら白旗揚げてやがる、男の敵だ」と非難されるだろうか。)
中立的に言うと、「差別や抑圧に焦点を当てて、現実で被害者の立場の女性が、性役割が逆転した世界で男性を虐め返す」趣の作品と、「それ以外の所に焦点を当てて性役割の逆転を描く」作品とを並べた時に、どちらが正しくてどちらが間違っているという事はないと思う。同じ物事のどの側面を切り取るかの違いに過ぎないのだから、敢えて言えばどちらも「正しい」と思う。
ただ、(名前を挙げた2作品への批判というよりはむしろ、作品の読み手である自分、別の場所では自ら作品を作る側である自分に対する自省として、)自分が多かれ少なかれ、好むと好まざるとに関わらず加担してしまっている差別や抑圧の絡む事柄について、「自分が見ていても、負い目をやたら感じなくて済むような、不快にならないような描写」を無意識にしてしまっているかもしれないという事、後者のような切り取り方をする際に自分の見たくない物を「見なかった事・無かった事にしてしまう」事に無自覚でいてはいけない、自分のしている事の欺瞞性に無意識でいてはいけない、とも思っている。
「人の世の闇を鋭くえぐる」とか「社会の真実を描く」といった評され方をする作品でも、作者自身が既に加担してしまっている差別や抑圧には触れずに済ませている事例は、結構多いのではないかと思う。もちろん「テーマがぶれないように」だったり「エンターテインメントとして成立させるために」だったりという理由はあるのだけれど、「それを自ら認めた上で罪悪感に押し潰されずにいられるほどの豪胆さが無いから、描写を避けた」という部分は全く無いと言えるだろうか?
具体的に言うと、僕自身が作者としてシス管系女子という作品を描くにあたって、女性キャラを主役に据え、彼女がセクハラやパワハラをされる事の無い世界を設定したけれども、そこには「自分が加害者側として問題に関わってしまっている」事実から目を背けているという部分は無いだろうか? 「それらを描く事を避けた」という事実が、自分自身が加害者側の視点で物を見ている事の紛れもない証拠と言えるのではないか?
仮にそういう事を意識したとしても、「シス管系女子」の主旨が「シェルコマンド解説漫画」であることは変わらないわけで、その範囲を逸脱するテーマ、例えば「女性エンジニアに対するハラスメントとの戦い」といった話を本編中で描く事は無いんだけれども。
ただ、「意識して描写を避けた」事を自ら忘れて、「そういう事はそもそも存在しない」と認識を改変してしまい、本来避けたかった事を自ら再導入してしまう事だけはしないように。例えば、「服が大きく裂けて、なぜか本人の意に反して太ももが顕わに!」のような描写をしてしまう、といった事の無いように。という事には気をつけないといけないと思ってる。
「自分はこういう理屈に基づいて物を言っているから、とりあえずこの事については正当性を主張できるはず」という因果の認識がいつの間にかすり替わって、「自分は無謬で正当なのだから、自分の言う事には常に理屈が通っている」、というような勘違いをしてしまうと、歯止めが利かなくなる。僕はそれを警戒している。
横長のコマを扉絵代わりに毎回なるべく全身入れたいなと思って苦慮しているのですが、この度「鏡に映して無理矢理足まで入れる」実績を解除しました。
- Piro/Linuxコマンド操作解説マンガ連載中 (@piro_or) April 8, 2020
本編は、止めても止めても復活するプロセスの元凶の調べ方です。
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このコマを描く時に、つい「サービス心で」スカート部の裂け目を大きく描こうとしてしまった自分に気付いて慌てて裂け目を小さく描き直した、というヒヤリハットがあって、改めて気を引き締めなくては、と思ったのが記憶に新しい所だったので、それもあってこういう事をモヤモヤと考えていた次第です。
しつこくエクスキューズを書き連ねるけれど、ここに書いた事は僕の解釈であって、名前を挙げた2作品を「これは差別だ」と非難したいわけではない。むしろ両作品とも、そういった諸々の事をすべて織り込んだ上で現代社会や作品を取り巻く風潮を風刺するというメタな作品だとも思ってる。ベタに読んでも普通に面白い漫画なので、未読の人はリンク先から一読あれ。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2020-05-08_inverted_gender_world.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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