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IQが20違うと会話が成立しない、みたいな話は昔からよく聞くけど、そもそも「自分自身が一般よりIQが高い天才です、一般人と会話が通じなくて困ってます」って当事者になってることがあんまり無いと思うので、実際そうなのか?ってのはよく分からない人の方が多いんじゃないかと思うんですよね。僕もそのクチで。
ツイッターみてたら、そういう場面において、一般よりもIQが高く「ギフテッド」と呼ばれる人の側が当事者として実際どう感じているのか、をご自身の体験から詳しく説明されている記事が流れてきて、読んでみたら、前々から「きっとこういうことなんだろうなあ」と考えてた事とわりと合致する話が書かれてたんですよ。
というのも、これって「自分がアニオタで、アニメにまったく興味がない人に話が通じない」みたいな場面にすごく似てるなって思ったんですよね。
こういうの、すごく身に覚えがあるんですよね。「オタク知識」の話でなくても、社会人だったら自分の業務分野・専門分野の知識とか、自分は滅茶苦茶詳しくてお客さんは全然詳しくないので説明に苦労するってのはすごくありふれた話だと思うんです。自分も今まさに、テクニカルサポートの業務でお客さんに説明する場面でそういう事はよくあるし、Linuxのシェルコマンドの解説漫画を描く上で大変な事もまさにそういう事だし。
で、「自分側が知識がありすぎて、知識が無い側の人に話が通じなかった」体験をそういう風に想起できる一方で、「自分側の知識レベルや頭の回転速度が低過ぎて、有能な相手がする話の内容がまるで理解できなかった」体験もまた、自分には想起できるんですよね。学校で先生の言う話が分からなくて授業についていけないとか、仕事の上で先輩の話しに全然ついていけないとか。むしろこっちの方が多いくらい。
なので、自分としては「IQが20も違うと会話が成立しない」という話の両方の当事者の感覚を想像しながら、先の記事を読んだんです。
それで思ったのが、「この記事を書かれた方(ギフテッドの人)には、もしかして、自分の話を相手に理解してもらえなかった経験はあっても、相手の話が自分には理解できなかった経験が無かったりするんだろうか?」という事で。
そもそも記事自体が「IQが高い側の弁明」という体裁だから敢えてそう書いたのかもしれないんですが、「やばい、相手の言ってることがまるで自分には理解できない。どんなに説明されてもチンプンカンプンだ」という感覚が、あまりその記事からは感じられないような気がして。
「相手の言ってる事がまるで分からない」時、僕は、すごく惨めな気分になるし、相手に対する申し訳なさや負い目を感じます。
また、「どうして分からないんだ!」「なんで話が通じないんだ!」とイライラされたり怒鳴られたりしても、それで話が分かるようになる、という事は無かったと思います。
そういう辛い経験を思い出すと、自分が説明する立場になった時、相手に対してキレ散らかそうという気にはなれないんですよね。相手にキレられても何もいい事なかった、もっと分かるように噛み砕いて説明して欲しかった、と思います。
僕は、自分が相手に説明する時、「分かってもらえなくても何度も同じことを説明する必要があっても怒らない」「キレても説明の目的は達成されない」と考えて、なるべく相手に通じる説明の仕方を工夫して粘り強く接するようにしたいと思っています。そう思う理由の1つは間違いなく、「どんなに説明されても分からなかった」という自分の体験そのものだろうと考えています。
ということは、もしIQの高い人が「どんな下手糞な説明でも相手の言う事を何でもすぐ理解できる」のだとしたら、彼らは「どんなに説明されても分からなかった」体験をしようがなかったりするんでしょうか?
だとしたら「相手が理解できるように工夫して説明する」動機を感覚的には理解しにくかったりするんでしょうか?
自分には、そういう事にも色々と覚えがあるんですよね。
挙げればもっと色々出てきます。キリが無いからやめときますけど。
つい先日、「vulnerability(ヴァルネラビリティ、脆弱性)」という、ITの分野ではだいたい「セキュリティホール」の意味で使われる言葉について、相互ケアの文脈では違う使われ方をする事があると知りました。
ITの分野では「vulnerabilityは、無い方が絶対にいい。あれば全力で取り除く物」です。
それに対し、「ケアの倫理」という本では「vulnerabilityがあるから人はお互いにケアし合える、協力しあうために必要な物」という側面がある、という書かれ方をしているのだそうです。
伺ったところの理解を自分の言葉で表現し直すと、以下のような話でした。
これって、先の話に通じてるように思うんですよね。
僕には「相手の話を理解できない時がある」というvulnerabilityがあり、自分でそれを実感しているからこそ、相手に分かるように工夫しようと思えるし、相手が分かってくれなくても責めずにいられるのではないか。
どんな下手糞な説明の仕方をされてもすぐに相手の言いたい事を理解できるという人には、「自分には相手の言ってる事が理解できない」というvulnerabilityが無く、vulnerabilityがあるとどうなるという実感が湧かないために、相手に分かるように工夫しようとは思いにくかったり、分かってくれない相手を素直に責めてしまいやすかったりするのだろうか。
「生存バイアス」という言葉があります。ゴールまでの道の途中に高いハードルがあったとして、ハードルを越えられなかった人が脱落していき、たまたま越えられた人がゴールに辿り着いた時に、生存者が「自分がゴールに辿り着けたのはハードルがあったからこそだ、ハードルが無ければゴールに辿り着けなかった」と思ってしまう、みたいな現象のことです。
これは、前述のvulnerabilityの話と表裏一体であるように僕には思えます。
vulnerabilityの話も、生存バイアスの話も、世の中には事例が数え切れないほど溢れています。
そういえば昨今、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐための施策について、「三密を避けろ、じゃなくて、◯◯しようとか××しようとか具体的な言い方をした方がいい。そうしないと、勝手な解釈で無意味な事をする人が出てくる」みたいな批判を度々見かけました。そして、まさにそれに応える物と思われる「新しい生活様式」の例の話が出ると、今度は「そんな細かく指図されたくない、指図されなくたってそれくらい自分で分かる」と反感を覚える人がいる事も可視化されてきました。これは、「具体的に例を挙げて説明されないと分からない、というvulnerabilityを持つ人」と「例をいちいち挙げられなくても自分には分かる、それくらい分かるのが当たり前だ、という生存バイアスを持つ人」の対立事例のように僕には思えました。
「辛い思いをした人ほど、他人に優しくなれる」みたいな言葉があります。
しかし、「辛い思いをして」も、生存バイアスから「それは必要な事だった」と正当化してしまう、という事例もまた無数にあります。
英語を学んで身に着けた人が、「OSSのローカライズなんか不要だ」「みんな英語を使えばいい」という趣旨の事を言ってしまった話も、自身が苦労して成功した橋下徹氏が、苦労してないように見える他者に冷淡に接しているようなのも、その例でしょう。
「できない」人に対しては、人類はどうもあまり想像力が働かないようです。
というような諸々の事例を見るにつけ、
という言い方がいかに無意味か、賢いとされる方々ですらどれだけ「自分では考えられない人の事」を想像できていないか、と思い知らされて、「その手の言い方は慎もう……」と思ってしまいます。
「僕にできたんだから、あなたにもできるはず。挑戦してみて!」という言い方は、僕自身もついやってしまいがちです。勢い余って、最近も一冊、「OSSにフィードバックしてみよう」という趣旨の本まで書いてしまいました(元は同人誌でしたが)。
ただ、この本にしても、シェルコマンドの解説漫画にしても、過去に自分が詰まったような「知識不足」「経験不足」でつまずきがちな箇所については極力フォローを入れて、理屈抜きで「やってみよう」と言うのは、踏ん切りを付けて一歩を踏み出してもらうためだけに留めるようにしたいな、とは思っています。
自分と相手は前提が違うのだから、自分には分かる事が相手には分からない場合も、相手には分かる事が自分には分からない場合もある、というある種の諦観を胸に、どんな時もなるべく焦らずキレず丁寧に、「相手に通じる言葉」で説明していくよう心がけたいものです。
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