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ポジショントークに騙されないようにしたいし、狭い視野でポジショントークじみた極論を言うよりも、メリットとデメリット両方を把握した上でソフトランディングを図っていきたい - Jun 06, 2020

ツイッターでつぶやいてた話

匿名と実名、どちらか一方を称揚する発言に対する評価の話

ネットは実名であるべきなのか匿名であるべきか、という話は何年かに一回くらい目にする議論な気がする。

自分は、「Piro」というハンドル(ペンネーム)で、匿名でWebを使い始めて、「OSSのライセンス文には本名を書かないといけないらしい」という誤解があって途中から実名も公表するようになったので、実名のメリットもデメリットも、匿名のメリットもデメリットも、全部一通り我が事として体験してきたと思う。

その上で思うのは、「匿名の連中は無責任だから全員実名を強制するべきだ」「いや匿名の方がいい、実名を使いたがるやつは売名目的だから出ていけ」みたいな、「自分がどうするか」ではなくて「みんなどうするべきか」でどっちかに寄せたがる発言をする人や、そういう言説は、あんまり信用しちゃいけないな、ということ。

  • 確かに実名の公表には、「子供もいないし子育てもしたこともない人が教育論を語っている」「社会に出たこともない人が仕事論を語っている」ようなまやかしを防ぐ効果がある。それに「馬鹿な事をしないように慎もう」と思わせる一定の力もある。
    • けれど、馬鹿な事をやらかす人は実名でもやる。Webが一般的になる前のパソコン通信時代やネットニュース時代に一番ヤバい事をしていたキチは、実名だったという。実名公表は、最後の一線として究極的には機能しない。
  • 確かに匿名の言論には、「既に知名度のある人が、社会的地位を濫用して道理の通らぬ事を押し通す」事を阻む効果がある。「その人の社会的地位から切り離された、純粋な言論だけでやり取りされるフェアな世界」がもたらされるように見える。
    • けれど、それは同時に「過去何度も同じやらかしをしてきた人が、素知らぬ顔でまた同じやらかしをする」「過去何度も他人を騙してきた人が、次の獲物を狙う」「その時その時でコロコロと言う事が変わり、理屈に一貫性がなく、確たる裏打ちがあってそう言っている訳ではない、という事実を包み隠す」ことをも容易にする。「フェアな世界」に見えていた物は、詰まるところ、相手を口八丁で言いくるめる技に長けた人が有利なだけの世界に過ぎない。

まずかつての自分のように、こういうそれぞれのデメリットを分かっていなかった(言葉で知っていても実感はしていなかった)時点で、わかりやすいメリットだけ並べて「だからみんなそうするべきだ」って言ってる人は、視野が狭く考えの浅いアホなので、信用するに値しない。

また、匿名のデメリットも実名のデメリットも分かった上で、デメリットを伏せてメリットだけ並べて「だからみんなそうするべきだ」と言ってる人は、自分の持つ武器(社会的地位なり、相手を言いくるめる術なり)が最大の効力を発揮し、自分の持つ不利(社会的地位の無さなり、理屈のガバガバさなり)を最大限ごまかすのに、たまたまそっちの方が都合がいいからそう言ってるだけの事が多い(そういう発言を「ポジショントーク」と呼ぶ)。自分の都合のいいように世論を動かして自分が利益を得たいだけで、煽られた他人が実際に被る不利益の事なんか知ったこっちゃないのに、それを隠してる不誠実な人なので、これも信用してはいけない。

善意のアホが悪意のポジショントーカーに乗せられてる事もあるし、アホが無自覚にポジショントーカーになってしまってる事もある。結局ポジショントークをする人にロクな人はいない。「ポジショントークをしない事」イコール「信用に足る」という事では必ずしもない(信用する十分条件ではない)けれども、ポジショントークをしてる人の事は真っ先に「あ、この人は信用しちゃ駄目だ、信用しない人リストに突っ込んじゃっていいや」とバッサリ切ってしまっても、大抵は不都合がない(信用する必要条件ではある)。今の自分の感覚をなるべく正確に言い表すと、こんな感じになると思う。

 

実名もしくは固定のハンドル/ペンネームで発信され続けてるメッセージには、少なくともその名前でなされる言論については、

  • 妥当性や一貫性を検証でき、矛盾する事を言っていたら批判できる
  • 発言者の属性と対応付けて、メッセージの内容の欺瞞性を指摘できる

という性質があるので、ポジショントークをポジショントークであると検出しやすい。ファクトチェックという形で第三者による指摘も行われてることもあり、参考にできる情報が多い。

それに対して、匿名のメッセージは内容の裏付けや発言者の性質と対応付けての検証が難しいので、基本的には全部ポジショントークの性質があると疑ってかかっておいた方がいいのかもしれない。説得されるかどうかを選ぶのは自分の責任だと考えた上で、一定の距離を置いて接するように気をつけないといけないんだと思う。

それ「うまい話には裏がある」の一言で良かったんじゃないの、という話

ポジショントークを信用するなという話をタラタラ書いてみたけれど、僕ごときが改めて言うまでもなく5000兆回は、いや、もしかしたらもっと多くの回数、散々世界中で言い尽くされてきた事、無数の人が同じように考えてきた事なんだと思う。

そもそも、「うまい話には裏がある」というフレーズが世の中には既にある。この言葉で言い表される事象の深みを自分が今まで分かっていなかったために、このフレーズを聞いても馬耳東風でスルーしてしまっていただけだったのが、いくつかの経験を経てやっと「ああ、こういう事を言いたかったんだな」と腑に落ちるようになっただけなんだと思う。

人類の歴史で脈々と受け継がれてきた、知見を集約し圧縮したワンフレーズとしての「名言」という物が無数に世の中にはあって、けれど愚かな僕は、その「名言」から真の意味を読み取ることがなかなかできない。単に「名言」を「名言」としてありがたがって思考停止していては、字面に惑わされ、その本来の意味を見失い、却って悪い結果になりもする。

意味を喪失した状態で知ったワンフレーズから、英知を読み解いて再発見していくという事が、自分にとっては、歴史に学んで生きるという事なのかなと思う。

「丸くなった」話

ところで、物を知らなかった頃の自分が、デメリットを理解しないまま「これこそ銀の弾丸だ!」と何かに飛びついて突っ走っていた時というのは、それはそれで勢いがあってアウトプットが多かったように思う。

  • 「構造と外観の分離」「内容が主、外観は従」という考え方で突っ走っていた(そういう選択ができる人や状況ばかりではない、という事が分かっていなかった)頃は、CSSだけで「格好いいWebページ」を作ることに血道を上げていた。
  • 「XMLとCSSとJavaScriptだけでアプリケーションを作れるって素晴らしい」「それだけで既存のアプリケーションに自由に機能を加えたり挙動を変えたりできるって素晴らしい」と突っ走っていた(その結果カオスになり収拾が付かなくなる事、並の人間にはそのカオスは扱いきれないという事に思い至っていなかった)頃は、XULオーバーレイに基づく拡張機能を山ほど量産していた。

その頃に比べると、自分が何を見落としていたのか・どういう所で思慮不足に陥りがちなのかの知見が増してきた今は、ずいぶんアウトプットが減ったように思う(可処分時間が減った事も理由としては大きいけど)。

Twitterではつぶやきはしているものの、当たり障りのない事ばかり発言している気がする。何か発言しようとすると、その前に「いやちょっと待てよ、この発言は考慮が足りてないんじゃないのか?」と自分でフィルターが働いて、あれこれ加工した結果、当たり障りがないを通り越して何言ってんだか分かんないフワッとした発言になっているように思う。

物を知れば知るほど、「これは世に出す価値のある意見(物)だ」「まだ世の中になかった新しい意見(物)だ」と確信を持ってアウトプットできる事がどんどん減っていく。自分ごときが思いつくような事は、実は既に歴史の中で試みられていて却下されていた、という事が増えてくる。

それは多分、外部からの観測的には「つまらない人になった」という事になるんだと思う(自分でもそう思う)。それどころか、尖ったことを言っている(している)人にドヤ顔で冷や水を浴びせるウザイ奴、にすらなっているのかもと思う。

 

そういう所に堕してしまうのと、そうでないのとの差はどこにあるのか。自分は、大事なのは改善への意思なんじゃないかなと思ってる。

「これでできる! はじめてのOSSフィードバックガイド」では、「OSSに外部協力者として関わる時に一番大事なのは、問題を解決したいという意志だ」という趣旨の事を書いた。「提案を受け入れてもらうための妥協も時には必要だけれど、それは敗北なんかではない。問題を解決できればそれが勝利であって、どう解決するかは手段の話に過ぎない。問題を解決できないことこそが敗北なのだ」みたいな考えに基づいて書いた本だったけれども、これはそのまま僕の人生の指針の考え方になっているのではないかと思う。

つまり、メリットデメリット両方を勘案するのも、対立する意見を尊重して妥協を受け入れるのも、すべては今直面している問題を解決するため・物事をより良い方向に進めるためである、と。

浅慮から何かを「銀の弾丸」と思い込んで突っ走ってしまうのも、妥協や調整をカッコ悪い事だと忌避して頑なになるのも、物事を良い方向に進めることに寄与しないなら、目的に適う手段ではない。そう考えているからこそ、僕は「丸くなる」事を肯定的に捉えているんだと思う。

世の中の事を一気に強引に変えようというハードランディングは、今の仕組みに基づいて生きている人を苦しめる事になり、軋轢を生み、抵抗勢力を生み、物事を良い方向に変えていく事そのものを妨げる。
今の・古い世代の人も、納得の上で苦しみなく退場していけて、後の世代の人も、古い仕組みに苦しめられることなく新しい仕組みで生きていけるというソフトランディングの形を取るのが、結果的には一番スムーズに事が進む。
即効性はないけれども、そういうサイクルが延々と繰り返される中で少しずつ良い方向に変わっていって、問題の解決に近付いていくのが、持続可能な社会という物なんじゃないだろうか。

 

昨今のコロナ禍のように、そんな悠長な事を言っていては駄目でハードランディングが必要な時もある、というのは分かるけど、そうでないならなるべくソフトランディングに寄せた方が、長い目で見たら良い結果になる気がする。

昔からボンヤリとそう考えていたように思うけれど、ここ数年でやっと、このくらいの精度で言語化できるようになってきた気がする。

分類:出来事・雑感, , 時刻:03:03 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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