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Chromiumのコミットメッセージの「よりinclusiveにする」とはどういう意味か、GitHubがしている事の何がキナ臭いのか - Jun 16, 2020

1つ前のエントリにちょいちょい追記してるんだけど、見通しが悪くなってしまったので別エントリにした。

blacklistをblocklistにするとか、master/slaveを別の語に言い換えるとかの変更は、一体誰のためのもので、どういう意義があるのか? という問いに対して、1つ前のエントリを書き始めた時点でまだ自分は完全に腑に落ちる理解ができていなかったように思う。

その後、観測した反応や他の人による同じ件への言及を見ていて少しずつ、表題の話が腑に落ちるようになった。と同時に、改めて、先の言い換えを推進する流れの妥当性の怪しさを感じた。

自分がどう理解しどう腑に落ちたのか、今どのような疑問を持っているのか、を記録のためにまとめる。

inclusiveにするとはどういうことか

辞書には「開放的な」とか「包括的な」とか書いてあるのだけれども、僕の個人的な感覚では、日本語の語感的に、この文脈でこれらの訳はあまりしっくりこなかった。もっと平たい言い方で「人をより呼び込む」と訳すにしても、これがどういう呼び込みになるのか? 道端で「blacklist~blacklistだよ~」と呼び込みするのと「blocklist~blocklistだよ~」と呼び込みするのとで、後者の方がお客を取れると言われても何だかピンと来ない。僕が思うに、「exclusive(排他的な、排除的な)」の対義語として考えると、この文脈では「特定の人を理不尽な理由で排除しない」という意味合いを主にして捉えるとしっくりくる気がする。

極端な例え話をする。アメリカに旅行して、フラッと入った飲食店の店頭に、「ジャップもニガーもユダヤ小僧も歓迎!」と書かれていたとしよう。店内に入ると、屈強な白人男性達の常連客が一斉にこちらを見る。店内を見回すと、太平洋戦争時にアメリカにあった日系人収容所の写真とか、黒人奴隷の貿易船で奴隷として売られる予定の人達がすし詰めにされている様子の絵とか、アウシュビッツの写真とかがいっぱい飾られている。この店主はとんでもない差別主義者なのか? と思いきや、別にそういうわけでもないらしく、本人はいたって気のいい「普通の人」で、単に口が悪くてスラングしか知らないだけで、飾ってある写真や絵も「なんかよくわからんがオシャレっぽい!」と思って置いてあるだけだという。(常識的にはあり得ないんだけど、百万歩譲って、ほんとにそういう状況があったと仮定する。)

こういう時、この店主は単に無知なだけで、誰かを差別して傷付けたいとは思っていないのだとしても、アメリカという不慣れな土地で、言葉もあまり通じなくて心細い思いをしている僕は、店構えを見てギョッとするし、店内に入るとものすごい居心地の悪さを感じるし、なんなら身の危険も感じてしまう。他に店があれば速攻出ていきたいところだけれど、もしそこが荒野のど真ん中でポツンと1軒だけ店があるというシチュエーションだと、そうもいかない。

こういう場面で、店の方から自主的に「ジャップ」などの蔑称を書かないようにしたり、店内にこういう写真や絵を飾らないようにしたりしてくれていると、僕は恐らくビクつかずに店に入って食事をする事ができる。これが「inclusiveになる(する)」という事だと、僕は認識している。

Chromiumでblacklistという語をblocklistに改めた変更のコミットメッセージの「use more inclusive names」も、これと同様に、いくつかの言葉を改めることで、今まで嫌な思いをすることを理不尽に強いられてきていた人たちが参加しやすいようにする、という事を意味しているのだろうと自分は解釈した。

ある表現がinclusiveなのかexclusiveなのかは、排除される側の人にならないと分からない

先の例え話のようにどぎつい・誰が見ても明らかなケースはまあ分かるけど、blacklistがexclusiveな表現なのか? master/slaveなんて技術的に中立な表現でしかないのに気にする奴の方がおかしいだろ? と思う人は多いと思う。特に、日本で生まれて日本で暮らしていて日本から出たことがない人はそうなんじゃないだろうか。

というか僕だってそう思う。正直言って、感覚的にはまるでピンと来ない。差別とはどういう事かみたいな話に関する知識と、前述のような仮定の話とを組み合わせて、ようやくボンヤリ「あーこういうことなのかなー」と想像が及ぶ程度だ。

僕はそれは仕方のないことだと思う。これらの語が「よくない」とされている理由の人種差別に、特に自分が「される側」として関わることは、日本で生まれ育った人はどうしたって縁遠いのだから。

しかし、それは強者や傍観者の理屈だと僕は思う。先の例え話のシチュエーションで、店主や常連客に「こういう看板や装飾はexclusiveだ」と文句を言って、「え、だってジャップはジャップでしょ、呼んだらあかんのけ?」「え、この収容所の感じがオシャレでかっけーのに、なんで駄目なん?」と、まるで訳が分からないという顔で返されるのと同じ事だ。

繰り返すが、この例の「彼ら」は別に、悪意でそうしてニヤニヤ笑っているわけではない。自分達のルーツや身近な所や同胞に、収容所に入れられた人がいるわけでも人身売買された人がいるわけでもないので、それらに顔をしかめたくなる気持ちが、ただピンと来ないだけなのだ。

人種差別以外にもこういう例はいろいろある。例えば男女差別やハラスメントという文脈なら、アップルで男性ばかりの職場に入った女性従業員が、男性従業員達のドギツイ性的なジョークを告発した事例のような話は、別の会社の事例も含めて何度か似たような話を見た気がする。

「そのシチュエーションで、自覚しているかどうかに関わらず、圧倒的に優位な立場で、存在を肯定されていて、主導権を持っている側にいる人」には、自分達のしていることがinclusiveなのかexclusiveなのか(知識が無ければ)分からない。ということは、日本で男性として生まれ育ち、男性の多い分野で活動してきた、という「多数派側」の一人として自覚しておきたい。

所詮アメリカという一地域のローカルな事象のことで騒ぎすぎだ、という指摘も見たけど、差別自体は地球上のどこにでもあって、どこで起こっても都度真面目に考える必要はあると思っている(なので、「普段てめー中国のチベット少数民族弾圧に全然無関心じゃねえか」という指摘があれば、それはすごく妥当だと思うし耳が痛い所ではある)、言い換えると、たまたまアメリカだったから無視していいというものでもないと思っている。

あと、この記事単体で読んで「じゃあmasterは全部言い換えなきゃなのかよ。master's degree(修士号)はtrunk's degreeか? jedi master(スターウォーズの「ジェダイマスター」)はjedi trunkか? postmaster(郵便局長)はposttrunkなのか? master copy(原版)もtrunk copyなのか?」と文句を付けたくなった人には、1つ前の記事に「語源の文脈が違うなら置き換えの必要はないのでは」みたいなことを書いたのでそちらも目を通しておいて欲しい。

差別を「した」経験がある人として

特に僕は、男の身でありながら、女性ITエンジニアを主役に据え、「シス管系女子」とまで題したマンガを描いており、どう言い繕おうとも女性を客体として描いている性質は否定できず、女性ITエンジニアに対する抑圧を強化しかねない側にいるため、「気付かないうちにやらかしてしまう」事への危機意識を強く持たずにはいられない、という事情もある。

というか、思い起こしてみれば、「かもしれない」でなく、記憶にあるだけでも実際2度ほど「差別だ」と言われたことがある(昔からこのサイトを見ている人にとっては周知の事実で、別に隠していた過去というわけでもない)。

1回目は、高校時代に日本語入力ソフトウェア用の関西弁単語集(辞書)を配布していた時の収録単語。「関西弁の単語」と思って入れた物について、「この単語は差別語だから削除すべき」と言われた。「バカチョンカメラ」という語がそれ。「バカでもチョン(半人前という意味の古い言葉)でも使えるほどに簡単なカメラ=AFカメラ」という語源らしいから本来では差別に関する言葉ではなかったようなのだけれど、「チョン」を「朝鮮人の蔑称」と解釈した人達が後付けで「バカでも朝鮮人でも~」という意味と見なして、バカと朝鮮人を並置する差別的表現とする考えが生まれたのだという。語源なんかどうでもいい、今は差別的な意味と解釈されているのだから消しなさい、という指摘であった。

2回目は、大学卒業~社会人1年目の頃に描いた、Ubuntuを擬人化したイメージで描いたキャラクターイラスト。Ubuntuという言葉がアフリカの言葉に由来していることから、アフリカをイメージして「自分が描くイラストにしては黒目の肌色のつもりで塗った」キャラクターのイラストを公開したのだけれど、それ単体で見た人達から「ホワイトウォッシングだ」と非難された。単体で切り離さずに、自分が過去に描いて塗ってきたキャラクターの肌色と比較して見て欲しいと僕は思ったけれど、そういう言い訳は通じなかった。(この時の肌色は、表情が分からなくなることを恐れて調整した結果で、今になって思えば確かに明るすぎたと思う。)

こんなマウンティングをしてもまったく不名誉でしかないのだけれど、今回の言い換えの件について「そんなことくらいで差別とか、馬鹿馬鹿しい」「こんなの差別にあたらないよ」「自分は良識的な人間だから、差別にあたるようなことなんてしないよ」と安全圏から良識的なことを言っているつもりで言及している人達の中で、ガチで「善意でやったつもりの事が、差別にあたると非難され、言い訳が通用しなかった」経験がある人はどれだけいるだろうか? 「それ差別ですよ」といわれたときに謝る方法という記事(リンク先はアーカイブ)で述べられているような「最悪の言い訳の仕方」をしないでいられる人はどれだけいるだろうか?

それらの経験を経て「教化」された、とは僕は思っていないけれど、自分の思う所の善意に基づく行動や発言でも、客観的には差別やハラスメントとなりうることはままあり、「事前にすべてのリスクを把握して予防しきる」ことは不可能なので、せめて、「やってしまった」と判明したら迅速に対応するよう努めるしかない、という認識を今の僕は持っているので、自分にとってこういう話題は、遠い世界の他人事の、真面目に考える必要のないこととは、まったく思えないのだ。

排除された人は本当にいるのか? 排除された人がいなくても、可能性があるというだけで対処をしなければいけないのか?

ただ、今回取り上げているwhitelist/blacklistやmaster/slaveの話については、僕はどうにも釈然としない部分がある。それは、これらの表現によって排除された人の存在が見えないという事と、呼びかけをしている人が揃いも揃って非黒人インテリばかりに見えるという事だ。まさにこのエントリを書いている最中に知った、GitHubの既定のブランチ名がmainになったると決まったことを報じるツイートや、それに連なる賛意を述べるツイートの発言者を眺めていても、なおさらその印象が強まる。

また、GitHub公式のツールの事例では、ネガティブな反応(コメントに付けられた「👎」)がそれなりにあるにも関わらず、まったく何の議論もなしにするすると話が進んでいるというのも、気味の悪さを感じた。

そういえば、GitHubは過去に女性エンジニアに対するハラスメントの告発がニュースになっていた事もあった。これは邪推だけれども、この件を承けて、「マジョリティ側」にいる人には「よりinclusiveに振る舞っている様子をアピールして点数を稼がなければ」という心理的プレッシャーが強く働くようになっているのでは、という事はそれなりにあり得そうな気がしてしまう。

もしそうなら、この一連のことは完全に「余計なお世話」でしかないとも言える。

そもそも、アメリカのITの現場に黒人が少ないのは、黒人が教育上不利な立場に置かれているという背景によるもので、「これらの表現がexclusiveであることによって黒人が居心地の悪さを感じていること」が主要因とは言えないのでは、という指摘もある。

「inclusiveにするための行動」が事態をより悪化させはしないか?

余計なお世話で、的外れで、しかもデメリットの方が大きいのだとしたら、ますます許容しづらくなる。ではデメリットは具体的にどのような感じなのか?

まず、「こういううるさいことを言う連中のことが気にくわない」ということで、運動を主導している人達ではなく、ここで「当事者」とされているマイノリティの人達の方にヘイトが向く恐れがある。もっとも、今のところこの件に言及している人は比較的冷静なようで、ヘイトは「当事者のため、を錦の御旗にしているSocial Justice Warriors」にも見える人達の方に向いているようなので、これは杞憂かもしれない。

特定の「言葉」を排除することで、その言葉や問題が実在していたという事実が覆い隠されてしまい、本質的な問題の解決(差別の解消)が遠のくではないかと懸念する人もいる。これについては僕は、差別の歴史を語り継ぐ事の大事さは分かるけれども、「実用品としてのソフトウェアやツール」の中でそれをやる必要性はないと考えてる。というか、科学や技術の分野のツールは、そういう煩わしい人の世のあれこれからなるべく切り離してニュートラルな表現に寄せていき、より純粋性を高めていくに越したことはないのでは、と思ってる。(でも、これも所詮は都合のいい切断処理に過ぎないだろうか?)

技術的な観点での移行のコストはどうか。単純に、作業が面倒だというのは間違い無い。また、名前を変えることで他からの参照が切れてしまうことの問題もある。ただ、自分としては「技術は人を幸せにするためにあるもの」と思っているので、技術の都合とその外の人間社会の都合とがバッティングした時は、余程大きなコスト的な問題がなければ、原則としては技術の方が折れるのが妥当ではないかと思っている。自分の個人管理のプロジェクトについて言えば、移行はおおむねワンライナー1つで済んでしまう程度で、外部の依存関係も無いので、コスト的なデメリットは非常に小さいと思われた。

まとめ

整理すると、

  • 「この言葉を使わないようにしよう」と呼びかけている人達に共通して見られる属性に、欺瞞性を感じてしまう。
  • 「これらの表現は自分達に対する差別だ」のように言っている実際の「被害者」の姿を、自分は観測できていない。
  • 「アメリカのITの現場に黒人が少ないこと」にせよ「黒人がアメリカ社会において一般的に不利な立場に置かれていること」にせよ、この言い換えが状況を積極的に良くしていく材料になる証拠はない。
  • しかし、自分が善意で選んだ言葉遣いが、世界のどこかで差別にあたる可能性は否定しきれない。
  • 「何もしないよりは、できるところからでもやる」事を否定する強い理由もない。

というのが自分の現在の見解で、この考えに基づいて、自分個人の管理下のリポジトリについては自分のポリシーに従ってブランチ名を変更したけれど、他の人にまでそれを強く勧める事まではしない、というスタンスを今のところは取っているつもりでいる。

自分はこのように気楽な個人の立場だし、やっても影響の範囲はたかが知れてるんだけど、それに比べると、「GitHubの社員が自社サービスや公式のツールで」これをやるというのは、どうしたって広い範囲に強く影響する。GitHubは今や、アメリカという一地域の私企業というよりも、Webに生息する世界中のITエンジニアにとって重要なインフラの1つとなっており、インフラがインフラとしての分を越えて社会にメッセージを訴えかけていっている、インフラの利用者のする事に対して職権濫用とも言える形で自分達のメッセージを勝手に載せていこうとしているように見える、という事が、余計に問題をややこしく、キナ臭くしているように感じる。(実際には、他にもGitLabなりBitbucketなり選択肢はあるので、GitHubを勝手に特別扱いして祭り上げてしまっている我々末端のITエンジニア側の意識の問題という所もあるかもしれない。)

 

こういう状況になってしまっては、もはや、仮に黒人ITエンジニアが一人や二人出てきて「まさに我々の意図を汲んでくれた!」やら「我々はそんなことは望んでいない!」やら言った所で、その言葉を誰も素直には信じられず、状況をより混乱させてしまうだけなのではないかとも思う。

何にせよ、僕はもう自分の個人管理下のリポジトリ群のデフォルトブランチの切り替えを済ませてしまった。今からできることは、今後の状況の推移を観察することのみだ。

分類:出来事・雑感, , 時刻:02:02 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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