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「同調圧力は忌むべきものだ」と思考停止していたことに気付いた話 - Jun 19, 2020

このところ狂ったような長文を立て続けに書いていて、いいかげん出涸らし感が出てきた気がするけど、このツイートからたらたら書き連ねたことの増補改訂版として残しておく。

欧米社会にもあるらしい同調圧力

Gitのデフォルトブランチ名「master」が奴隷制を想起させるさせないの議論を発端に、差別される側にとって「言葉狩り」に一体どういう意義があると考えられるのかを改めて考えたんだけど、釈然としないモヤモヤ、露悪的な言い方をしてしまうと「差別主義者って言われるのが怖くてビビって過剰反応してるだけなんじゃないの?」「現実にある差別構造の撤廃に切り込む方が大事だろうに、言葉遊びをしてるだけの人がなんで『これぞ先進的な人権感覚、皆も追従せよ』みたいなツラしてるわけ?」みたいな違和感はずっと残ったままだった。

なぜそんなにモヤモヤしてしまうのかというと、これって普段から日本でも見慣れてる、同調圧力に基づく自主規制の光景と変わらないと思うからだ。ナイフでの殺傷事件が起これば文脈を問わずナイフ描写がマスメディアから一斉に「自粛」で姿を消す。問題がありそうかなさそうかを個別に熟考する暇も無く。それとよく似てると思った。

時々「日本は同調圧力による抑圧が強くて、個人が生き辛い。欧米はそんな同調圧力なんかなくて、個人の意志が尊重される。日本は遅れてる、もっと欧米みたいになるべき」みたいな言説を見かける(下手したら自分も言ってたかもしれない)けど、今回のような事例を見るにつけ、全然そんなことないじゃん、欧米だって同調圧力強烈なんじゃん、と感じる。

よく知られた例を挙げると、アメリカでは、高校の卒業パーティー(プロムと呼ばれる。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でマーティの両親がダンスしてたアレ)にカップルで参加するのが「一人前の大人として認められるための通過儀礼」で、「できるのが当たり前」で、そこからあぶれたら大変惨めな思いを強いられると聞く。大人の男はジムに通って体をムキムキマッチョに鍛えるのが当たり前、休日は近所の人や仕事仲間を招いてホームパーティーで社交するのが当たり前。そういう「当たり前」に乗っかれないとコミュニティから排斥されるから、無理して必死で合わせて、それで疲弊して心を病む人もいるとかいないとか。

そういう日常生活の抑圧を、日本でしか暮らしたことのない僕は知る由も無いんだけど、何だかんだで英語を使わざるを得ないOSSの世界に関わっていると、そこにある抑圧が、伝聞でなく生のこととして自分にも感じられる。メディアを通じて語られる「解説」では分からなかった、少数派の声を観測することによって、「あっこれ同調圧力くさい」と感じている。

それで、アメリカというローカルな社会の同調圧力に屈した人達が、思考停止して外形的に規範に従おうとして躍起になって起こしている(ように見える)ゴタゴタに、なぜアメリカ社会の外にいる我々まで振り回されなきゃいけないのか? blackという色も色の名前も、masterという言葉も、文脈も歴史も剥ぎ取って「彼ら」が「正しい使い方」を一方的に決めるなんて、横暴ではないのか? という感覚が僕にはどうしても拭えなかった。

「同調圧力クソ食らえ」の声をあんなに多く目にしてきたのに

僕がインターネットを利用し始めたのは、パソコン通信からWebへの移行が急速に進みつつある時期だった。「2ちゃんねる」の隆盛や「はてな論壇」の盛り上がり、TwitterがまだドライなSNSだった頃までを通して見ていて、僕の観測範囲の「大きな声」はわりと「同調圧力クソ食らえ」的な方向に偏っていたと思う。カビの生えた古臭いしきたりを後生大事にありがたがる「奴ら」に、やりたくないことを無理やりやらされ、不得意なことばかりで評価され、より合理的にするための改善も許されず、理不尽な目にばかり遭わされる。旧弊な社会の強烈な同調圧力には苦しめられてばかりだ、という恨み辛みの声が多かった気がする。

パソコン通信時代やそれ以前、あるいは特定の狭いコミュニティでは、独特の同調圧力はあった。「ネチケット」なんて言葉もそういえばあった。でも、人が少しずつ増えていくにつれ、「そういう同調圧力は馬鹿馬鹿しい」という声の方が大きくなっていったように思う。

それで、僕は「同調圧力を理不尽と感じる人の方が実は多かったんだ! 個々人が自分の意志に基づいて自由に生きられる、ネット社会とはなんと素晴らしいのだろう!」と考えてしまっていた。誰でも自由に互いの発言を引用・言及できて、互いの言論を検証し合って勝負を付けられる世界だ、と思ってしまっていた。

でも、それはあくまで、「黎明期のイノベーターやアーリーアダプター」が敷いたレールに乗っかる形でわらわらと参入してきた、自分を含む「アーリーマジョリティ」達が(この辺の用語の意味はマーケティング用語での分類を参照のこと)、揃ってコミュ障やはぐれ者ばかりであったがために奇跡的に生じた、ほんの一時期だけのマイノリティの天国に過ぎなかったようだ、と今では思ってる。

レイトマジョリティがどっと押し寄せてきて、今では、ネットも現実の日本社会をそのまま投影した人口構成になってしまったようだ。「FF外から失礼します」といった「前時代じみたマナー」が幅をきかせ、理屈が正しいか間違っているかに関係なくただフォロワーの多い側が数の力で押し切って「勝利」をもぎ取っていく、そんな理不尽が当たり前の社会に、ネットもすっかりなってしまったのだ、と感じるときがある。

社会の同調圧力は、少数派や劣位の者にとっては「理不尽で忌々しいもの、嫌悪の対象」だけれど、多数派や優位の者にとっては「ごく自然な、当たり前のこと」でしかないようだ、と今では思っている。関係者全員嫌がってるのに何故か無意味に続いてる因習、なんてものは現実にはそうそうない。

同調圧力の恩恵を自分が受けていた(かもしれない)、と気付かされて

同調圧力はマイノリティにとっての敵で、思考停止により理不尽を強制するもので、いかなるときも憎むべき対象。そんな風に強く思っていたので、差別を否定する規範をもたらしてくれるなら同調圧力もいいじゃないかというコメントを見て、僕は正直、大きく動揺してしまった。そのコメントをした人が、とある漫画に登場する「マジョリティのならわしに馴染みきれない不器用なキャラクター」の名を長年借りて名乗っている論客であるということにも、余計に動揺した。

でも、よくよく考えてみると確かに、自分もその「同調圧力に基づく思考停止」の恩恵に直接的にあずかっていたのかもしれない、と思えてきた。

2年前にシリコンバレーを訪れたとき、滞在先で、訪問先で、利用した公共交通機関で、あるいはLyftの乗り合いで、僕はあからさまな人種差別に遭うこともなく、なんならこちらのミスであわや飛行機に乗り遅れるかもとなった時に現地の方に多大なお世話になりもして(黒人の空港職員の女性だったと記憶してる。時間がなくてお礼をできなかったのがずっと心残りになっている)、会う人会う人に大変よくしてもらえて、非常に楽しく旅を満喫できた。その時の事を、僕は大変ナイーブにも「いい人ばっかりだったなあ」と思っていた。

でも改めて冷静に考えてみれば、彼の地で接した人の全員が全員、心の底から理性的に「差別はよくない」と思っていたとも限らないのだ。アジア人の僕に対してあからさまな差別をしたら他のアメリカ人から非難されるかも、と恐れてにこやかに接してくれていただけかもしれない。いや、十中八九は単に、観光客がそれなりにいる所では、みんな基本的に旅行者には優しいということなんだと思うけれど、そうでない人が不可視化されている可能性に、今の今までまったく思い至っていなかった。そのことを、今非常に恥ずかしく感じている。

Black Lives Matterのデモに関する報道の中で、「デモ隊の中に白人警官が取り残されたのを、彼らが暴徒からのリンチに遭わないように、デモに参加していた黒人男性達が、身を挺して庇った」といった美談を何度か見かけたけれど、そういう「美談」の中には、特別に高潔な人間というわけでもない普通の人が、「よき市民はそう振る舞うべき」という同調圧力に屈してそうしただけの場合もあったのかもしれない。

なにより僕自身、今回のGitのデフォルトブランチ名の変更については、「やらないと過去の言動との矛盾を指摘されそうだから」「みんなそうする流れっぽいから」と渋々ながらやった部分が無いとは正直言えない。これだけ引きずっているのが何よりの証拠だ。

社会には、どう頑張っても差別やハラスメントが本質的によくないこととは思えない人、同調圧力に屈してでなければ差別やハラスメントをやめる動機がない人、というのも確実にいる。そういう人に対する「手綱」として同調圧力が機能している場合があるということは、事実として認めないといけないのかもしれない、「よい同調圧力」と言わないといけないのかもしれない、と今頃になって気付かされた。

そういえば、トランプ大統領に関するコメントで、「大統領はアメリカ国民を団結させないといけないのに、トランプは国民の分断を煽っている」という感じの物を見かけた記憶がある。アメリカの社会が、「差別はいけないことだとする」「差別主義者はみんなの敵だとする」同調圧力を実際に持っていて、過去の経緯はどうあれそういう同調圧力によって雑多な人々がまとめ上げられ辛うじて成立していたのだとすると、折に触れ差別的言動をしているトランプ大統領が実際にそこにいることによって、その同調圧力が弱まり、社会が解体されていく、というのは当然のことなのかもしれない。

僕が憎むべきは、「同調圧力」ではなかったのかもしれない

僕はずっと自分自身を「マイノリティ」だと思っていたので、「多数派の同調圧力は自分に生き辛さを与える」と考えていた。その後、僕自身が日本社会の中で優位側(男性、正社員、等)の属性を持っていると意識し始めて以降はだんだん、「自分も多数派の同調圧力に乗っかって、自分よりも少数派の人に生き辛さを与えているかもしれない」と思い至るように……というか、自分が意識的にあるいは無意識に、実際に抑圧に加担してきていたし、今も加担している、という事実と向き合うようになってきた。

いずれしても、僕は「同調圧力=個々人に生き辛さをもたらすもの」、つまり「悪」と定義し、無条件の否定的感情を持っていたと言える。

そういう「悪いもの」に自分や彼らは屈してしまっている、自分がずっと嫌ってきた「同調圧力」という邪悪な現象にまるで歯が立たなかった、という感覚から、今回のことが僕にとっては大きなストレスとして感じられていたのではないか、と思う。

でも、ここまでに述べたような「よい同調圧力」の効用を考えると、僕が本当に否定したかったのは、同調圧力そのものよりも、同調圧力を使って行われる「個人の尊厳の否定の正当化」の方だったのかもしれない。「同調圧力」という言葉を否定的なイメージで捉えすぎていたせいで、アメリカ社会の「個々人の尊厳を肯定する同調圧力」を、僕は今まで「同調圧力」とは認識できていなかったのかもしれない。

僕にとって、個人の尊厳の否定は悪だし、個人の尊厳の否定を正当化することも悪だ。「自分の尊厳を高めたいが、誇れる物が特にない。じゃあ、相対的に自分の位置付けを高めるために、自分より少数派や弱い立場の者の尊厳を傷付ければいい。そうすることで自分が楽になりたい」という人がいたとき、彼の望みを尊重したいとは思えない。正直言えば、そういう望み自体を持たないようになって欲しいとすら思う。

そんな僕には、「個々人の尊厳を肯定する同調圧力」「個々人の尊厳を傷付けることを否定する同調圧力」をもはや否定できない。
なので、僕は今後は「同調圧力」そのものは否定しなくなっていくのだと思う。

 

ただ、だからといって「よい同調圧力」を無限大に肯定してもいけないと思うし、「他人の尊厳を傷付けることでしか自分の尊厳を高められない」人に何らケアをしないままでいいとも思えない。そういう人をただ断罪するだけで終わるというのは、「『正しい側にいる俺エライ』と自己肯定感を高めるためだけに、そのようにしか生きられない人の生き辛さを無視し、尊厳を傷付ける」ことと同じで、前段で僕が否定したかったものとして挙げた「悪」そのものだからだ。

これは高潔な精神でそう考えている訳ではなく、むしろ、極めて打算的な考えに基づいている。「少数派や劣位の者も生きやすい状況」を作る上では、得てして「他人の尊厳を傷付けてしか自分の尊厳を高められない人」が(時に自分自身もが)抵抗勢力となってしまい、本来手に入れたかった「少数派や劣位の者も生きやすい状況」が逆に遠のいてしまう、と思うからだ。

なので、本来の希望を実現するためにこそ、何らかのケアなりソフトランディングの方向性なり、そういう人の生き辛さをも最小化できる方法を模索することを、諦めてはいけないと思っている。

 

今回「同調圧力に屈して、少数派・劣位の側の尊厳を守る(とされる)行動に同調した」こと自体を、恥じる必要は必ずしもなかったのかもしれない。自分が恥じるべきポイントは、実はそこではなかったのかもしれない。

その行動が本当に差別解消に寄与するのかどうか? どの程度寄与するのか? そのリソースを使ってもっと根本的な問題解決に取り組むべきでは? という問い自体は、今後もしていく必要はあると思うし、状況の変化を無視して的外れなことをしてしまっていないかの再検証も必要だけれど、「同調圧力だから」ということ自体は、否定的判断材料とは捉えなくてもいいのかもしれない。

理性による説得と納得に基づく合意を諦めてはいけない、限界ギリギリまでその努力はしないといけないけれど、社会秩序の中で生きるしかない自分のような人間が、個々人の尊厳を可能な限り維持しながら社会として連帯するためのツールとして、教育と自由意志に基づく説得の限界を越えて社会機能を維持するためのものとして、同調圧力は時に必要なものと認めざるを得ないのかもしれない。

「多様性を重視する価値観において唯一受容されないのは、多様性を否定すること」
「自由を重視する価値観において唯一受容されないのは、自由を否定すること」
というのは度々言われることだけれど、今回のことはその限界領域で起こっている事象なのかもしれない。今は、その限界のラインが動的に揺れ動いているまさにその瞬間の、混迷期ということなのかもしれない

そんなことを、今回の一連のことで感じていたいくつかのモヤモヤを埋めるおそらく最後のピースとして思った。

分類:出来事・雑感, , 時刻:09:21 | Comments/Trackbacks (1) | Edit

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「良い同調圧力」は、あると思います。

そういう「良い同調圧力」という面は多いでしょうね。例えば、ニューヨークではかなり奇抜な格好をしていても、ジロジロ見られないってのがあるらしいですが、それは「他人をジロジロ見るのは失礼だ」という「同調圧力がある」からでしょうし。

ウインドリバーなどの映画に見えるように、都市部以外のアメリカには、かなりの闇が未だに眠っています。
2018年度のモンタナ州の自殺率は10万人あたり29人となっており、これは同時期の日本のどの都道府県よりも高い自殺率です(2018年、日本で最も自殺率が高かったのは秋田県で、10万人あたり23人)。しかし、国全体の自殺率では、アメリカは日本を下回ります。これは、カリフォルニア州やニューヨークなどの都市部が、とてつもなく自殺率が低いからなのです(10万人あたり1桁)。だから国全体の自殺率では、日本を下回ることになります。このように、住む場所の格差が凄まじいです。

ちなみに、カリフォルニア州の日本人人口が27万人に対して、モンタナ州は800人くらいしかいません。
こういうのも、「外国人の目がない」つまりは「(良い)同調圧力が無い」結果と言えるかもしれません。

Commented by TTMM at 2020/08/23 (Sun) 13:08:49

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