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正論が抑圧の象徴になる時代? - Jan 13, 2021

レッドブルが くたばれ、正論。 というコピーで新成人向けの広告を打った、という話を見かけた。

この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする といった文からは、いわゆるポリコレ疲れ、左翼・リベラル的な言説への反動、のような雰囲気を感じる。若者を抑圧してくるそういった物に抵抗しよう、というメッセージのように感じられた。

広告が意図する所は一応理解できてると思う。挑戦はした方がいいし、うるさく言って足を引っ張ってくる年寄り連中の言うことを真に受けて萎縮しない方がいい。そこの所に異論はない。

だけど、このコピーに、僕は真っ先に違和感を覚えた。
僕は今38歳で、新成人だった頃から遠く離れた所に来てしまったのだけれど、自分が新成人やそれより若かった頃を思い返すと、「弱い立場から正論を武器に抗弁したが、正論が通らなくて煮え湯を飲まされた」経験の方が記憶に強く残ってる。
融通が利かなくて、弱い立場のこちらに対して抑圧を押しつけてくる物は、僕にとっては「筋の通った正論」ではなくて「筋の通らない因習・慣習」だった(と感じられた)ように記憶してるから。

抵抗者
「自分が教わった理屈に基づいて考えると、これこれこういう理屈で、こうあるべきなんじゃないの? なんでそうなってないの?(正論)」
既得権益者
「現実を知らないガキは黙ってろ。ガキにはわかんねー大人の事情って物があるんだよ(理屈の通ってない抑圧)」

こんな感じだった気がしてる。

レッドブルの広告に書かれた「正論」という言葉からイメージされる抑圧は、

抵抗者
「理屈とかよく分かんないんだけど、自分にはどうしても納得できない。これっておかしいんじゃないの?(素直)」
既得権益者
「理屈を知らないガキは黙ってろ。これこれこういう理屈でこうなってるんだから、素人が浅知恵で口出すな(正論ぽい抑圧)」

こういう感じなのかなと思った。実際、そういう場面は自分でも体験したことがあるし。

また、正論を武器にしていた左翼かぶれの知識人達が、かつては被抑圧者だったとしても、今では抑圧者の側になっているケースも、多々あると思う。

ただ、(これは、この広告のメッセージそのものというよりも、この広告のような言葉の選び方がごく自然に出てくる発想や、受け入れられてしまう風潮に対しての意見なのだけれど、)「正論」というものを権力と同一視して、抵抗者は権力とともに正論もを否定せよというのは、僕には、知的には後退してると思える。
正論は誰でも手に入れられる武器なのに、それをわざわざ忌むべき物と位置付けるのは(ともすれば、手放すことを奨励しているとも取れるメッセージを発するのは)、自分で自分の首を絞めてると思える。

僕としては、抵抗者には常に、正論を武器にしていてもらいたい感覚がある。
納得できない部分があれば、頑張って言語化して論理立てて正論で主張して欲しいし、
権力側が主張する、一見すると正論に見える言葉の中に巧妙に隠蔽された詭弁を明らかにして、その正論じみた言説の正論でなさを暴くようにして欲しい。
腐敗した古い正論を、より洗練された正論で打ち崩して欲しい、と思う。

今抑圧してきてる者達が、僕みたいなおっさんが、「正論」という建前で言ってる諸々のことの内容を嫌いでも、それは構わないので、ただ、「正論を立てて主張する」という枠組み自体まで否定しないで欲しい。
(……と、アイドルグループを卒業した人のような事を言ってる時点で、この枠組み自体が見捨てられる風潮はもう止まらないのだろうな、という気もひしひしとするけど……)

 

正論と反・正論の相克というと、よく引き合いに出されるのが、功利主義の「最大多数の最大幸福」という言葉だ。
現代の抑圧者は馬鹿ではないので、馬鹿正直に「俺とその身内だけが良ければよかろうなのだァァァ!」なんて主張をしたりはしない。
必ず「最大多数の最大幸福って知ってるか? 君らは少数派だろ? 君ら少数派が幸福になるために、多数派が不幸を強いられるっていうのは、全体にとって利益にならないだろ? これが正論だろ?」という言い方をしてくる。

それに真正面から抵抗しようとすると、
「それじゃあ、多数派の幸福のために少数派は死ねっていうのか! 正論はいつもそうやって少数派を抑圧する! 正論は敵だ!」
という言い方をしたくなる、それはよく分かる。

でもちょっと待って欲しい、その反論の仕方では勝てない。なぜなら、味方を増やせないから。味方の数は力だから。勝つには力を、味方を増やせる言い方をしないと。

抑圧者が「これが正論だろ?」という言い方をするのは、そういう言い方をした方が、抑圧者にとっての味方を増やせるからだ。それが強力で有効な武器だと分かっているから、彼らはそれを使っている。

相手が強力な武器を使っているのに、自分も今同じ武器を使えるのに、「あいつらが使ってる武器だから気にくわねえ」と、わざわざそれをかなぐり捨てて竹槍でつんつんやってても、勝てるわけがない。

彼らと同じ武器を、正論を使って反論しよう。
「今幸福でない者を、幸福になれる側に含めるための、幸福になれる人を増やす努力を怠る口実に、数の大小を理由にするな!」
反論するならこうじゃないか、と、僕は思う。

 

抑圧者の言う「最大多数の最大幸福」って、例えば99%の人の幸せのために1%の人を切り捨てる、みたいな意味だけど。
100人のうち99人を救って1人を見捨てないといけない場面が、まったく無いとは僕も言わない。
でも、毎回そうやって切り捨てを続けていけば、いずれ誰も残らなくなる。
(実際には、出生率次第では人が減るスピードを増えるスピードが上回って、問題にならないのかもしれないけど。)

そうじゃなくて、なるべく100%を、できれば101%以上を幸せにすることを目指して努力し続ける必要があるんじゃないかな。
ていうか「最大多数」っていうくらいなんだから、100%超えを目指しても何も問題ないでしょ? そうしてはならない正当な理由があるの? なくない?
そうして余剰の幸せが増えれば、僕らの生活はより豊かに幸せになるでしょ。

それが、クリエイティブという事であり、挑戦ということなんじゃないのかな。
そのためのツールが学問であり、そのためのメソッドが科学なんじゃないのかな。
その積み重ねが、科学技術とか人類の英知とかって言われる物なんじゃないのかな。

抗うために正論を捨てるっていうのは、「99%を不幸せにしてでも1%を幸せにする」って主張することのように、僕には感じられる。
誰もがその抗い方を続けた先には、万人が互いに奪い合う結末にしかならないように思う。

だから、現状に抵抗するときは、101%以上を幸せにする言い方をして欲しい。そのために正論を重ねて欲しい。
そうした方が、より多くの味方を得られて、より勝利に近付きやすいんじゃないか、と僕は思う。

まあ所詮は理想論で、その正論を現実に落とし込む方法を考える過程で、妥協も必要になってくるんだけど、理想くらいは常にそうありたいなと。

 

ここまでは「抵抗者」の視点の話だったけど、ここからは、抵抗を受ける「権力者」「既得権益者」の視点の話。

今よりずっと若い頃は「抵抗者」でいられた僕も、なんやかやで長く活動を続けてるうちに、気付けばすっかり歳を取り、どちらかと言えば「若者に打ち倒されるべき権威」の側になってしまったと思う。

その過程で見聞きしたことや体験したことを踏まえて、今改めて思うと、僕が見てきた「理屈の通ってないように見える抑圧」の裏にも、何らかの理屈はあったのかもしれない。
多分、僕ごとき相手にわざわざ解説するのは面倒だから、「うるせーな、黙ってろ」で終わらせたかったんだろうなと思う。

僕自身が今、Tree Style Tabに対して寄せられるさまざまな要望に対して、「これこれこういう理屈で、それはやらないことにしてる」と説明するのに毎回ものすごい労力がかかってるから、よく分かる。
これを「うるせー素人はすっこんでろ」の一言で済ませられたら、そりゃラクだろうなあと思う。

そんな感じで、僕が「まったく隙の無い正論のはず!」と鼻息荒く主張していた内容が、より物を知っている人から見たら、失笑物の穴だらけの雑な暴論でしかなかった、ということもあったんだと思う。
子供が大人に抗う場面だけでなく、大人同士でもそれは普通にある。例えば、実際の現場で詳細な情報を知っている人と、外部から観測している人とでは、持っている判断材料に差があるのは当然。
「岡目八目(囲碁を指しているプレイヤーより、それを外から眺めている人の方が全体が見えていて、先を読めるものだ)」という諺はあるし、そういうケースが無いわけではないけど、多分普通にそうでないケース、今取り組んでる人の意見の方が正しいことが多い。

ただ、そういう「岡目八目気取り」に出会ったときに、一笑に付すよりは、なるべく対話をするようにした方がいいのでは? と思ってる。
説明のために自分で整理する中で、自分の見落としに気付いたり、現状よりいいやり方のヒントを得られたりすることが、何度かあったし。
こちらの説明を聞いて「じゃあ、自分がやってみよう」と挑戦してくれる人が現れたこともあったし。
打率は高くないけど、意義はあるんじゃないかと思って、今でもできる限り対話はするようにしてるつもりでいる。

稚拙で穴だらけの雑な正論を言っていた人も、そういう対話の中で見識を深めれば、より洗練された正論に辿り着けることもあるんじゃないのかなと。

 

僕は歳を重ねる中で、世の中の色々な理不尽(と自分には思える事)には、大抵の場合、それぞれに経緯・理由・理屈があってそうなっている、ということを知るようになってきた。
本当に理由のない理不尽もあるけど、全部が全部そうではないんだな、と。

でも、「現状がそうなっている理由」は、「今でもそうあるべき理由」ではないことがある。
よくよく調べ直してみると、状況が変化して、新しい技術が生まれて、「今でもそうあるべき理由」はとっくの昔に崩れている場合がある。

あるいは、もっと能動的に、「現状をこのようにしている理由」を突き崩すために、根回しをして状況を変えてもいい、新しい技術を生み出してもいい。
というか、個人的にはそっちのほうがお薦め。自分でやって積み重ねた実績は、理屈の説得力を増す材料になるので。
「正論ばっかり言いやがって」と言われないためには、自分で手を動かすことは、やっぱり大事なので。
こういうケースでの「正論」は、邪魔することを正当化させないための盾だ。

何かをなすには、「失敗するかもしれない」というリスクを承知の上で、馬鹿になって賭をしないといけない。
でも、賭ける先の方向性を決める根拠には、正論があって欲しい。

「正論に見える言説」でやりこめられたとして、そこで黙って引き下がったり、「うるせーーーーー関係ねーーーーーー」で馬鹿になって否定したりするのは、簡単だ。
それを打ち破る新しい正論を立てるのは、ずっと難しい。
その正論を貫き通すのも、たぶん大変。

でも、そこに挑んで欲しい。挑み続けて欲しい。
僕自身は、なるべくそうありたいと思ってるし、僕が死んだ後も生き続ける後代の人達にも、そうあって欲しいと思ってる。


2021年1月14日追記。

このエントリは、自分が好んで使っている「正論」に焦点を当てて書いたけど、(過去記事から見てきた人は知ってるかもだけど)僕の関心の焦点は、どちらかというと「問題の解決」の方にある。

ここでいう「問題」とは、期待している状態と現在の状態の間にギャップがあり、そのせいで困っている・フラストレーションが生じている状態、のことを指す。現実にある理不尽や困った状態、トラブルなど、色々な物事が「問題」で、それを解消するのが「問題の解決」ということ。

解決の方法は色々ある。

  • 工夫や新技術でギャップを埋める。
  • 現在の状態をより詳しく調べ、実は期待とそんなにずれていなかったということを明らかにして、ギャップが無い状態にする。
  • 持っていた期待が非現実的だったと納得して、不当に高く持ってしまっていた期待を下方修正し、ギャップが無い状態にする。
  • 相手を騙して働かせて、ギャップを埋めさせる。
  • 相手を騙して期待を下方修正させ、あるいは現状が期待通りだと誤認させ、ギャップが無かったことにさせる。
  • 暴力で相手を無理矢理働かせて、ギャップを埋めさせる。
  • 暴力で相手の期待を無理矢理下方修正させ、あるいは現状が期待通りだと洗脳し、ギャップが無かったことにさせる。

方法は色々あるけど、新たな問題を生みやすい方法と、そうでないスマートな方法があると思っていて、僕は、よりスマートな方法を取る方が良いと思ってる。
なぜなら、僕は問題を解決したいのであって、問題を増やしたいのではないから。
(なので僕は、まず現状を詳しく把握するように努めて、次に、期待が過大でないかを再考して、それでもギャップがあるままなら、工夫で埋める努力をする、という順番がいいと思ってる。)

それを踏まえて、あるべき物があるべき所にスッと収まるような、よりスマートな問題解決の道しるべとなるのが「正論」で、その中でも副作用として新たな問題をなるべく生まない物が「より洗練された正論」なんじゃないか、というのが僕の考え。
辞書的な意味からだいぶ拡張してしまってるけど。

なので、いわゆるポリコレ信者とかSocial Justice Warriorsが、憎んでる相手をぶっ叩くために使うそれは、正論か理屈の通ってない暴論かといえば、正論寄りかもしれないけど、洗練された正論ではないと僕は思ってる。
そういうポリコレ棒ぶん殴りって、問題の解決に寄与しないどころか、問題の解決を遠ざけすらする物だと思ってる。
本文に書いたとおり、101%以上の人を幸せにする方がいいと思っているのだから、1%のために99%をぶん殴って不幸せにするやり方を、肯定はできない。

僕の関心はあくまで問題の解決にあるので、それに反すること全般に対して、僕は否定的な考えを持ってる。
この記事を「ポリコレ棒でのぶっ叩きを正当化する物だ」と解釈されるのは、僕の思う所ではないので、念のため書き添えておく。

分類:出来事・雑感, , 時刻:03:15 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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