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要するに高望みしすぎなんですよね、非モテ人も非オシャレ人も。身の丈に合った幸せを探そうとせず、自分よりも背の高い人の多い世間にひたすらいちゃもんを付け、「俺に背を伸ばす努力をさせるな」「俺の身の丈に合った幸せを提示しろ」とわめき散らしている。
そして、弱すぎるんですよね。「お前も彼女の一つくらい作ったらどうだ」とか「お前、まだ童貞なのかよ」とか「お前、キモいよ」とかいったくだらない見下しをいちいち真に受けて傷付いている。
そのことに気がついてしまったマトモな人達が、非モテ談義や非オシャレ談義を見て、こう言うんだろう。「何を下らないことをぐだぐだ言ってるんだこいつらは……」と。
わかってる。わかってるんです。しかしそれに気づいてもなお恥知らずなことにわめき散らしつづけなくてはならない、自分の外側に原因を求めずにはいられない、理不尽な攻撃を受け流すことのできるしなやかな強さを持ち合わせない、どうしようもなく心の弱い人間が、非モテであり非オシャレなのではないかと、僕は思うのです。
ここから先はもはや、心理療法士にお願いするのが適切な領分なのかもしれない。
乱暴かつ大雑把に分類してしまえるのなら、「非モテ」が「敵」とすべきは、モテ勢力でもオシャレさん達でもなく、「何を下らないことをぐだぐだ言ってるんだこいつらは……」という「マトモな人達」ですよ。
彼らは、「非モテ "問題" 」自体を矮小化させようとする「メタ非モテ」です。非モテ勢力を弾圧するのではなく、その問題自体を「つまらないこと」や「自己責任」、「人それぞれの問題」などと相対化したり切って捨てようとしたりするその姿勢は、正面からおおっぴらに罵倒したりするような「反非モテ」などより、この「問題構造」にとっては有害だと思います。
私個人の理想としては、「非モテ」と「反非モテ」が心おきなく殴り合えるような環境こそ、今実現されるべきだと考えています。そして、それを「下らないこと」だと言うような「メタ非モテ」に対しては、「外野は引っ込んでろ!」と「非モテ」「反非モテ」双方から反撃が飛ぶような状況になれば、「非モテ」がこの問題へ取り組むための姿勢というか心構えも、もう少し楽になるのではないでしょうか。
現在、「非モテ問題」を取り巻く勢力を、「非モテ」「反非モテ」「メタ非モテ」の三つに収束させるこのアイデアを、私は『非モテ三分の計』としています。
うーん…高望みっていうか。。。。
自分の求める目の高さを決めたら、それに自分を合わせていくようにしましょってことで…
そうすることは高望みとは言わないと思うなぁ…
とりあえず、心臓がもじゃもじゃになるよう、こんど毛はえ薬をお持ちします。。。
マジレスしますと、
非モテとかいうものそのものは、精神疾患ではないので、精神科医や臨床心理士の
治療対象ではないと思います。もちろん、被差別オタクとかも治療の対象とはなり
得ませんし。たまたま彼らが精神疾患に該当する状態になれば話は別ですが、
非モテまたは被差別オタクは精神疾患を有さないことは、一応申し上げておきます。
いや、重々ご承知のことと思いますけどね。他人は誰も助けにならないんじゃないか
と思います。
...何が分かってるんだ。君は何が分かってるんだ。自分たちが愚かで醜い馬鹿にされて当然の屑だって事をか。率先してそれを認めて、いとも簡単に受け入れて、受け入れずにいる連中に先んじて訳知り顔か。モテるオシャレな人間はみんな心の強い人間か。何が心の強さだ。何がどうしようもなく心の弱い人間だ。誰も彼も心の強さなんて変わるものか。変わったとしても10人10色以外であるものか。醜い人間は心も弱いか。センスのない人間はある人間より精神が劣るか。
嗚呼、嫌だ。もううんざりだ。...
何かについて考えよう、何かについて語ろうとするときに「考えるな、語るな、なぜならそれは下らないからだ」という物言いは(非モテ云々に限らず)必ず出てくるように思う。...
非モテと反非モテが、対立する現状も必然性もないですよ。結局個人個人の問題ですし。どちらも両極端ですから、そこから止揚目指すのは難しいと思います。とはいえ、自分を否定したり、反論したりする人間は貴重ですので、自分の意にそぐわないと排斥するのではなく、お互いの意見をある程度受け入れて、自分の中で反芻することは確かに重要ですよね。
個人レベルの問題としてみたら、十人十色でしょうけど、非モテの全体的な平均像としては、やはり自己防衛・外因帰属に偏っている傾向が見られます。勿論、単純に非モテにのみ当てはまることではないのですが。皆、何かの被害者になろうと必死になって、個人の尊厳が汚された!人格を否定された!俺は弱者だ!、と、豪語するのは、自分を何とかマイノリティに属させようとする孤立化願望であって、マジョリティに受け入れてもらおうという衝動からくるものではないように思えます。だから一方的な社会批判・逆差別につながりやすいと言えるでしょう。
結局、モテ・非モテの差異も、他のもっとお洒落な人、かっこいい人、あるいは芸能人などの模範的イメージとの比較によって、相対的に判断されるものですし。確実な線引きは難しいです。
モテるという定義も、わりと感覚的なものです。多分、〓主に初対面の異性などに好印象を与えて、会話・スキンシップなどの回数が他の同性より多くみられる人〓恋人などを作る機会が多い人etc.・・・だと思います。だから単純に服装・髪型などのファッション論や、反オタク論など、非モテの問題を矮小化(人によっては拡散化と感じることもある)することには疑問を感じます。重要なのは空気の作り方、相手と協調する方法であって、ファッションなどはそのための材料にすぎません。
Piroさんの意見には同感です。個人論としては、人生の価値観や異性愛の形式など、紋切り型に決まるものではないですし、彼女いなくても童貞のチェリーボーイでも関係ありません。対外的に社会参加するために、ある程度のファッションや流行に対する知識・興味を増やすことに消極的な方は、本当にそういった大衆のマス・ムーヴメントを疑問視しているのではなく、ただ自分の興味から外れている、利己的な自己防衛に映ります。
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