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ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち(Amazon.co.jp)を読んだ。
統計的に見て、少年による凶悪犯罪は増加してなどいない、むしろ減少傾向にある。にもかかわらず何故「凶悪な少年犯罪が増加している」という言説がまかり通るのか。
それは、社会がそのようなストーリーを求めているからだ。そうでないと困る人達がいるし、そうであった方が嬉しい人達がいる。その「人達」とは、社会を構成する圧倒的多数の我々一般人に他ならない。私達自身がこの社会を、実態以上に「危険に満ちていて」「ドキドキハラハラな」ものに仕立て上げようとしている。ホラーハウス、お化け屋敷にしようとしている。
それが本書のタイトルに込められた意味だ。
筆者は、少年犯罪者と精神病患者による犯罪に対する社会の反応を顕著な例として挙げ、社会が今どのように変化しているのか、どのように変化したのかを読み解く。
現在、精神医学がいかなる営みに荷担しているかは明らかだろう。あるいは、この社会が一体、何を行おうとしているかも明白だろう。それは病者の社会復帰どころではない。
社会の秩序を乱す些細な逸脱者の排除だ。
表向きの主張はよく似ている。だが、全く違うのは、この批判が少年や病者を法的主体と見るのではなく、社会の危険な敵だとみなすものだったことだ。
そしてその変化が一体何をもたらしているのか、何がそのような変化の原動力になっているのかを、「不安」「恐怖」というキーワードからさらに一歩推し進めて「快楽」にまで結び付けて解釈する。我々はこのリアルな社会をお化け屋敷に見立てて楽しもうとしている、それで楽しませることをビジネスにしている者がいる、それに我々が乗っかっている、と。
わたしたちはいま、怪物すらも活用して、日々の快楽の源としてしまった。防犯活動に従事する住民達にとって、地域を徘徊する不審者は、小さな怪物たちにほかならない。めったにお目にはかかれない凶悪犯罪者の代わりに、不審者たちに怯えてみせているのだ。
そのような社会に名前をつけるとするならば、ふさわしいのは「ホラーハウス」という名であろう。暗闇からいつなんどき脅かされ、襲われるかわからないホラーハウスの興奮が、そして恐怖を前に心をひとつに肩を寄せ合う快楽が、まさにいま社会を席巻しつつあるのだ。
そうした中で、人々は「犯罪とは何か」ということを現実の問題として考えることを放棄し、お化け屋敷のごとく「よく分からない怖いもの、自分とは異質な恐怖」と軽く考え、「そんな怖いものは排除しちゃえ」と無邪気にはしゃぎたて、もしかしたら自分の権利を奪いかねない法案にまで嬉々として賛成する。「え、だってこいつが噛み付くのは僕らと違う異常な人だけでしょ? 僕らは正常な人なんだから大丈夫だよね?」と、何が異常と正常の線引きをするものなのか真剣に考えもせずに、法制度という猛獣を社会に解き放つ。
ボーリング・フォー・コロンバインで語られたアメリカの銃社会の話を思い出す。白人達は閑静な住宅街に引っ込み白人だけの町を作って、周囲を柵で覆って、各戸に銃を配し、「いつか襲ってくる黒人の恐怖」から必死で逃れようとしている、という話だ。そしてその恐怖は彼らにとって非現実的なものではない。日常的に銃犯罪が起こる社会で、それを楽しむ余裕なんて無いのではないだろうか。
それに対して日本社会は、そういう状況そのものをエンターテインメント化してしまった。現実感の喪失、想像力の欠如。何もかもが他人事なのだろう。
それともそれは日本だけでなく、世界中どこでも起こっていることなのだろうか?
本文の2/3以上を費やして、少年法の成立から現在に至るまでの議論と、精神病患者、異常者、触法精神障害者など様々な名で呼ばれる人々の過去の扱いを解説して、「ン? ン?」と思わせた後、最後の1/3で一気にたたみかけるという構成。長々とばらまいてきた「ひっかかり」を一気に回収する様はなかなか爽快だ。上の文はその最後の1/3の部分の要約に近い。
ただ、僕の場合はその種まきのための前半が少し退屈で、途中で投げ出さないで最後まで読む努力が必要だった。それを乗り越えた先にはこういう面白さがあったわけだけれども。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2006-08-06_horror.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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