宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
Kammy+氏の別のエントリに寄せられたコメントを見ていて気づいたが、嫌悪と恐怖を明確に区別したがる人がいるようだ。だが僕は、嫌悪と恐怖、嫌悪と軽蔑は、どれも同質の感情ではないかと思う。
「恐怖」とは、嫌悪の対象を己の力では退けることができない時、嫌悪の対象が己よりも格上である時に抱く感情だ。「軽蔑」とは、嫌悪の対象が己よりも格下である時に抱く感情だ。恐怖と軽蔑は、己と嫌悪の対象との力関係によって分かれるものでしかない。と、僕は考える。
ファッションについて無知な人間がファッションに関わろうとする時、ファッションについて無知な人間は、ファッションに詳しい人間に比べ、少なくとも知識・経験面においては絶対的な弱者だ。ファッションに力を注ぐことを嫌悪する人間がファッションに挑戦しようとするときに、この力関係を意識して感じる不快感は、恐怖と呼んで差し支えないのではなかろうか。
そして、これを恐怖と認めようとしない行動は、防衛機制の「代償」に該当するのではないだろうか。
力関係で「恐怖/嫌悪/軽蔑」が変化する
というなら、
「嫌い」と書く人を十派一絡げで「怖いのですね」扱いすることは
その人達を全て「弱者」と見下してる事になりませんか?
しかしあの場にコメントした人々は
「私は“おしゃれ”にコンプレックスがあります、と認めてる人」
「そもそもこのテの“無神経さ”にツッコミ入れて楽しみたい人」
など色々、それぞれだと思うんですけどねぇ……。
むしろ、
彼らはみな、恐れているのだ
で括ってしまいたい心理も防衛機制の一種「合理化」
のように思えるのですが。
>「嫌い」と書く人を十派一絡げで「怖いのですね」扱いすることはその人達を全て「弱者」と見下してる事になりませんか?
そういう見方もありますね。
>「そもそもこのテの“無神経さ”にツッコミ入れて楽しみたい人」
各人が己の立場を明確にしていなければ、十把一絡げに扱われても致し方ないのでは?
お話を伺う限り、氏と「こちら側」の人々との間には、趣味嗜好の違い以前にまずジェネレーションギャップ、特にネット上でのコミュニケーションについてのリテラシのギャップがあるように、僕には感じられました。
>リテラシのギャップ
なるほど〓。
あのコメント群には、恐怖派/嫌悪派/軽蔑派/野次馬派等々、
様々な方向性が入り混じっている様子が見受けられますが、
当のご本人にはそうした認識は無かったのかもしれないですね。
だとすれば、おっしゃる通りリテラシ(読み書き能力)の問題ですね。
考えてみれば、僕は今23歳で、16くらいの頃からネットを利用するようになりましたが、それなりの物心がついたのが小学校1年前後だと考えると、物心ついてからの半分の時間をネットとともに過ごしてきたわけで。しかも、高校に入るまでが圧倒的ないじめられっ子で交友範囲も非常に狭かったので、今ある人間関係のほとんどもネットから始まったものなわけで。
これから世に出てくる人は僕以上にネット慣れしているのだろうなあと思うと同時に、僕より前に生まれた人たちは僕よりもネット慣れしてないのだろうなあ、と思ったりもする。(それも十把一絡げには出来ませんが)
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2005-12-24_fear.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
writeback message: Ready to post a comment.