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見捨てられることの恐怖におびえること - Dec 13, 2005

「突然フラれるんじゃないか」とビクビクするのは、考え方が間違ってるんだよね。ケンカにならずに突然そうなる時点で、多分もう、終わってるんだと思う。

突然「サイテー!」と言われてそれっきりになってしまうのと、怒られ詰られ泣かれ叱られ……というのと、どっちがいいのか。後者を「うざい」と思ってしまうようなら、むしろ自分の方が終わってる。

常々思ってることだけど、社会人って基本的に他人に対して無関心なものだ。これは非難するべき事じゃあない。自分で自分の人生の舵を取るのは大変なことだから、他人にほいほい奉仕してたら身がもたない。必要最低限以上は、他人のためになんて動かないのが当然だ。

だから、他人は叱ってくれない。こちらが間違いを犯しても、「ああこいつは使えない奴だな」と判断して以後のつきあいを控えるようになるだけで、わざわざ間違いを正して教えてくれたりなんかしない。色々教えてもらいたければ、対価を払わなくてはならない。対価無しで教えてもらえる特権は、子供にしかない。否、親がその対価を肩代わりしてくれているにすぎない。本当に対価や打算無しで色々教えてくれるのは、自分を愛してくれている親だけなんだ。

逃げ出さずに、自分の何がいけなかったのかを叱って教えてくれるということは、それだけ、自分のことを特別に思ってくれているということなんだ。そのことを認識しないといけない。どうでもいい人間なんだったら、相手だって叱ってはくれない。叱られないって事は、どうでもいいと思われてるって事だ。叱られなくなった時点で、もう終わってるんだ。

見捨てられて終わってしまうのではなく、終わってしまってるから見捨てられるんだ、ということを、見捨てられることそのものだけを恐れる前に、思い出すべきなのだと思う。

分類:モテ・非モテ・恋愛・自己承認, , , 時刻:00:51 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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