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僕が呼ばれる場合とその相手を考えてみたところ、よく考えてみたら、僕のことを名前で呼んでいたのは両親だけだったということに気がついた。それ以外の人からはみんな名字かあだ名で呼ばれていた。
逆に、僕が相手のことを気兼ねなく明確に名前で呼び捨てにできるのは、昔も今も弟だけだ。そして、僕が暴力その他で相手を屈伏させることができていたのも弟だけだ。だから僕の頭の中では無意識のうちに、名前で呼び捨てにするという行為と、暴力で相手を屈伏させるという行為とが、密接に関連づけられているようだ。(自分が呼ばれる場合はこれとは関係ない)
よって、僕が弟以外の相手を名前で呼び捨てにするときというのは、相当僕が調子に乗ってる時くらいのものだと言うことができる。そして今のところ幸いにも、そのような機会は訪れていない。
……普通は、親友同士呼び捨てで呼びあったりとかするものなんだろうなあ。そういう機会に恵まれなかった僕は、つまり、本当の親友がいないということなのかもしれないなあ。
鬱。
――何故こんな事を今頃言うているのかというと、初めて会ったときに「名前呼び捨てで呼んで」と言われた(相手に、そう呼ばれたいと願われた)にも関わらず僕の方がそれをためらってしまったという事実が、なんだか負い目になっているからなワケですが。
呼び捨ては嫌いです。家族は別として。言うのも言われるのも。
「捨て」ですから。人は捨てるものじゃない。
人を捨てることも人に捨てられることもなかっただけだと思います。
そういう捉え方もあるのか……
相手の呼び方には、俺は結構こだわるというか、呼び捨て主義というか、呼び捨ての方がいいな、なんて思っています。 だけど、思っているだけで実際の運用には結局周囲に合わせる形で目上あたりには、それなりに配慮した形になったりします。ネット上では、何...
どんどん呼び捨ててくれてかまわないですよ。何代も前の先祖の住んでいた地名やら職業なんやが元になっている苗字よりも、直接の親に貰った名前で呼び合うほうが好きです。敬意を示す手段は呼び方の他にいくらでもありますしね。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2005-09-28_name.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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