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僕が生きてていいのが当たり前だ、と思えなかったこと - Dec 27, 2006

「子供の全能感」という言葉から僕は、赤ん坊の「不快に思う(泣く)だけでその原因(濡れたおむつ、空腹、そのほか)が自動的に取り除かれる、自分は何でもできるスーパーマンだ、自分は何でもしてもらえる王様だ」という風な世界の認識の仕方の事を想起した。

通常、このような認識は、(世の中自分の思い通りになることばかりではないので)成長の過程で破壊あるいは修正され、世間との折り合いを付けながら自己愛を満足させる方法を見出していくようなのだそうだ。けれども、そこで失敗すると、他人と自分を比べる事でしか自分を肯定できない人間や、他人に褒められることでしか自分を肯定できない・他人に褒められるためだけに行動する「いい子」などになるのだとも聞いた。

つまり、上記の成長の過程において思いどおりにならないことがあまりに多すぎた場合や、条件付きの肯定しか得られなかった場合などに、「僕が生きてていいのは当たり前だ」という認識を持つことができず、条件付きの「生きていてもいい」しか認識できなくなってしまうのではないだろうか。

しかし自分の人生を振り返ってみても、自分が親からそういう扱いを受けていたという自覚はどうやら無い。何か別の理由があるのだろうか。

僕が生きてていいのは当たり前だ、と少しでも思えるようになったのは、彼女に存在を肯定されてからのような気がする。あったらいいなと思っていて、でもそんなことあり得ないよなと諦めていたことが、真っ向から否定されて、考えが変わったような気がする。

親からの愛に慣れきってしまって、親に肯定されているという実感が持てなくなってしまっていたのだろうか。過度に親にべったりで、近くにいすぎて、親が自分を無条件で肯定してくれることのありがたみを認識できなくなっていたのだろうか。少し遠い所から肯定されてやっと、それを認識できるようになったのだろうか。

そんなことを生きてていいのはあたりまえ。を見ていて思った。

分類:出来事・雑感, , , 時刻:16:54 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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