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の動向はもえじら組ブログで。
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僕のすることなす事にいちいち理屈っぽい言葉を並べ立ててくる友人と割と本気っぽい感じで口論をして、長々と掘り下げて話してて出てきた話なんだけど。
僕は割とダラダラその場その場の感覚で生きていて、そのうちまあ何とかなるんじゃないのとか、人間ってそういうものだよとか、妙に楽観的だったり割とさっさと見切りをつけてしまったりと、物事を深く考えない性質がある。
そんな考えで生きていると、その友人と接しているときに物凄く気疲れするんだ。何かにつけて、僕は「まあそれでいいじゃないか」と軽く流したいのに、「何でそう簡単に切り捨てちゃうの?」とか「もっとこれを良くしようとか思わないの?」とか問い詰められるから。
で、それにキレて本格的に議論モードに突入したワケなんですけれども。
説明不足の内輪ネタばかり続くのがまずい
というのが結論らしいんだけど、それってオープンソースとかそのへんの界隈のひとにも言える事かもなと思った。ただ、オープンソース系は最初からその話題だけで閉じてて、他の世界の人が入り込む余地がなく、同じ世界の人達が集う傾向があるように思えるので、内輪ネタだけで延々回り続けてくんじゃないかという気もする。そうこうするうちに意見の交流もなくなり、価値観が偏ってしまう、と。
それはそうと、ネタにできる程彼女とのやりとりが無い僕はどうしたらいいのでしょうか。もう1ヶ月ほど声聞いてないんですが。
今さらだけどなんかもうほんと15日も22日も家で寝てたい。エロマンガのネームとか描かんといかんけど全然思い浮かばないし。Bon Echo対応のためにあれこれなんてする気すら起こらんし。台風かなんかで潰れちまえばいいのに。も組もMJもこの地上から消えてしまえばいいのに。日本国内でFirefox 1.0が出る前からFirefox使ってたギークでオタクな連中はみんな死ねばいいのに。イベントやって足引っ張る連中もイベントを叩いて足引っ張る連中も全員死ねばいいのに。ついでに僕も死ねばいい。そうして空白地帯になった所でMCが大資本投下してイメージ戦略打ち出しまくって大勢の日本人が目新しい舶来物のイケてるソフトとしてありがたがってFirefoxを使うようになればそれでいい。
まあ、行きますけどね。仕事だし。
「頑張れ」と言えない相手がいる。「頑張れ」と命令するに値するほど自分の方が頑張っていると言える自信がない。「頑張れ」と焚き付けるほど「頑張っていない」ところがある、まだまだ「頑張れる」はずだ、と無責任に言ってしまえるだけの自信がない。「頑張れ」と言うことが相手にとって悪いプレッシャーにならないと言える自信がない。
……と考えるのは考え過ぎなのだろうか。もっと軽々しく、何も考えずに「頑張れ」と言うべきなのだろうか。「いただきます」「おはようございます」「こんにちは」「ありがとう」といった言葉の「本来の意味」にまで誰も気を留めないのと同様に、「頑張れ」についても言葉の意味まで深く考える必要なんてないのだろうか。
応援したいんだけどなぁ。
どうしてこう、自分の中で決着を付けられないんだろう。八つ当たりしてしまうんだろう。醜い。カッコ悪い。歳不相応。幼稚すぎる。ダサすぎる。誰かに何か言いたくて仕方がない。優しくしてもらいたくて仕方がない。甘えたくて仕方がない。一人で納得できない。自分で自分を肯定できない。我慢ができない。当たり散らしたくて仕方がない。
大人なら、10秒もしないうちに自分の感情を完璧に分析し尽くして、1分もしないうちにそれを完璧にコントロールしきれて、それでナンボだろうに。僕と来たら、2時間3時間4時間かかってやっと自分の感情が見えてきて、しかし分析なんかできてもいないし、ましてや永遠にコントロールなんかできやしない。
何より最悪なのは、そうして現象だけに囚われて原因を解決しようともしない浅ましさ。「どうせ変えられない」と決めつける怠惰さ。一時の気休めのために、同じことをこれから先も延々繰り返すつもりなんだよこいつは。呆れ果てて物も言えませんね。
それで泣き疲れて寝るしかないなんて……
なんてお子様。なんて人間未満。
「ネット上の人格=自分」になってしまってるブロガーは 少し叩かれれば人格攻撃と受け止めて酷いダメージを被るけど ヲチャは違うからね。
「ガチでやってる奴カコワルイ」という価値観には虫唾が走る僕なのです。ユニークなハンドル、実名に基づいて発言・活動を行い、その延長で職を得ている、現実とネットがリニアに接続されている僕のような旧人類は、「ネットと現実の区別が付かないネット脳乙wwwwwww」と揶揄されるだけなのがオチなのだけど。
ubuntu Linux 入門キットという本が出るようですね。谷さんの日記で知った。「うぶんつたん描いてよ」とせっつかれてた頃のことを思い出すと、なんとも感慨深いです。
最近「ハルヒ」を見るようになって思ったことがいくつかある。
まず、アニメにおいて「綺麗な絵が動く」ということはただそれだけで価値あることなのだと思った。「絵よりもストーリーが大事」というのは負け惜しみでしかなくて、暴力的なまでに美しい映像はそれだけで他の要素を圧倒するものなのだと思った。エンディングのダンスやライブの映像はその中でも特に良質な部分で、これだけで商品として成立しうるとすら思う。ていうかCDよりもこのPVの方が欲しいんですけど?
もう一つ思ったのは、見逃したものを・そもそも放送地域などの関係で見れないものをオンデマンドで追いかけることができる環境があること(YouTubeのものは違法コンテンツだけれども、Gyaoとかで合法的に可能ならそっちの方が望ましいのは言うまでもない)は、この商品の売り上げに対して大きくプラスに働いているのではないかということ。深夜枠のアニメなんてのはそれなりに注意を払っているマニアでないとチェックできない。そのマニアの中でさらにコンテンツの購入にまで至る人というのは限られている。コンテンツを届ける母数を増やすことがコンテンツに対価を払う人の数を増やすことに繋がるのであれば、マーケティングに有効に利用できるのではないだろうか? 放送される・販売されるアニメコンテンツの絶対数がとんでもなく多くなっている現在、たった一度だけ見るためにDVDを買う馬鹿はいないし、レンタルで視聴するには時間がかかりすぎてその頃には市場が商品に対して興味を失ってしまっている、だから「リアルタイムなオンデマンド再放送」が必要であり且つ有効なのだ、という風な言説を、先のハルヒ12話に関する感想リンク集の中で見かけた気がする。
とぴあさん、さとうさん、haltさん、というと僕の中ではいずれも頭の切れまくる(キレやすい、ではない)凄い人達なのだけれども、彼らが皆「見たくない発言・ものをソフトウェアで自動的にフィルタリングして排除する派」であることを知って、ああやっぱりなと思った。
僕の場合、はてなブックマークやチャットのログ等は全てそのまま見ていて、不愉快になるようなものもそのまま見てしまって、それで結局時間を無駄にしてしまったりする。彼らがすごいと思うのは、そうなる前、目に飛び込んでくる前にフィルタでシャットアウトしてしまえるところだと僕には思える。
自身にとっての有害性を明確に把握する認識力、容赦なくそれを断つ決断力、そしてそれをシステムとして実現してしまう実行力。何となくダラダラで生きていては凄い人にはなれないのだなと思った。
「(´・ω・`)」のAAを僕はよく使う。チャット(IRC)でもメールでも。
それに対してとある友人から、自分(その友人)の発言がきっかけで落ち込まれてるみたいでいい気がしないと言われた。
確かにこのAA・顔文字には元々「しょぼーん」という言葉が結び付けられており、しょんぼりした様子を表すものであったようだ。しかし自分は特別にションボリしたときでなくてもこのAA・顔文字を使う傾向にある。
自分は無自覚にそのようなAA、顔文字を使っていたので、特にその人のせいで気分を害されたとかそういうことはないのだけれども、しかしこの件で改めて、自分の基本的態度がションボリしたものであること、平常時からしてダウナーであることを改めて認識するに至った次第なのです。