Jul 17, 2006

処理能力の高低、キャパシティの大小

僕のすることなす事にいちいち理屈っぽい言葉を並べ立ててくる友人と割と本気っぽい感じで口論をして、長々と掘り下げて話してて出てきた話なんだけど。

僕は割とダラダラその場その場の感覚で生きていて、そのうちまあ何とかなるんじゃないのとか、人間ってそういうものだよとか、妙に楽観的だったり割とさっさと見切りをつけてしまったりと、物事を深く考えない性質がある。

そんな考えで生きていると、その友人と接しているときに物凄く気疲れするんだ。何かにつけて、僕は「まあそれでいいじゃないか」と軽く流したいのに、「何でそう簡単に切り捨てちゃうの?」とか「もっとこれを良くしようとか思わないの?」とか問い詰められるから。

で、それにキレて本格的に議論モードに突入したワケなんですけれども。

彼は、頭が良い。頭の回転が速いし記憶力も良い、「賢い」という形容がまさに相応しい人なんだな。問題を見つければ全て解決しなくては気が済まないし、また、おそらくそれができる人でもある。

対する僕は、頭が悪い。頭の回転が遅いし記憶力も悪い、「鈍い」という形容がまさに相応しい人だ。問題がいくつも重なったときには最も重大な物・急を要するものを一つか二つだけ選んで解決に向けて進ませ、それ以外は深く考えず切り捨てて(あるいは受け入れて)しまう人だ。問題があっても根本的には解決しない事の方が多い。

ただ、解決はしてないんだけど、問題に悩んでいる状況は消滅してるんだな。何故かというと、問題を問題と考えないように自分の考えを変更してしまっているから。「まあ、それはそれでアリだよ」とか「これはパッと見は問題に見えるけれど、逆に考えるんだ。その状態でもいいさと考えるんだ。」という風に考えることで、問題を問題でなくしてしまうよう、判断を誘導していることがある。これを心理学では「防衛機制」と呼ぶのだけれども。

防衛機制というのは多分、読んで字のごとく、弱い心を守るためのものなのだと思う。だから言い換えれば、心が強い人には防衛機制は必要ないのだろう。頭が悪くキャパシティが小さい僕はしょっちゅう防衛機制に頼っているけれども、頭が良くキャパシティが非常に大きいその友人は、そもそも防衛機制を持ち出すまでもなく全ての問題を「問題」と認識したまま処理してしまっているようなんだな。

Cドライブに新しく数GBのゲームをインストールしたいと思ったとしよう。ところがCドライブには空き容量が足らない。そんなとき、どう対処するか。

僕は、コマンドラインでdirコマンドを叩いてルートディレクトリから順番に見ていき、なるべく浅い階層で、不要そうなディレクトリをざっくり削除して(あるいは、必要そうなディレクトリをごっそり残して)いくタイプだと思う。下の階層まできちんと見て「これは本当に削除しても大丈夫かどうか」を検討するのは、よっぽど切羽詰まったときだけかもしれない。

しかしその友人は違う。彼は無茶苦茶処理能力が高いので、まるでHDDの中身をクラスタ単位で把握しているスーパーハカーのごとく、全てのディレクトリツリーを一斉に走査できる。全てのディレクトリについて、削除して良いかどうかをいちいち検討できてしまう。そして最低限の時間と最小限の手間で問題を解決してしまう。

僕にはそれは真似できない。僕はディレクトリツリーの中身を一望できるほど全てを把握しているわけではないし、下手したら、dirコマンドで画面外に流れてしまった出力のことすらすっかり忘れてしまったりもする。だからディレクトリの中身をページングオプションを指定しながら1階層ずつ見ていくしかない。第1階層のディレクトリを全て見終えたらその時点で2~3個の「より深く見ていくディレクトリ」を見定めて、その中のさらに1階層までを見る。そうやって、少しずつ狭く深く掘り進み、やっと一つの問題を解決できる、というのが僕のレベルなんだ。

そのゲームが本当に必要かどうかにまで立ち返ることもある。その時も深くは考えず、それぞれの表面的なところだけを捉えて、もしそれが大雑把に必要そうであればHDDの中身をルート直下のディレクトリ単位で大雑把に消すし、大雑把に不要そうであればゲームのインストール自体を放棄してしまう。

しかしそれは、ツリーの全体像が見えてる彼からしたら、「何でそこで簡単に切り捨てられるの?」「何でそんな浅い判断で納得できるの?」ということになる。

出会う問題全てについて解決するべく深く検討してたら、僕はそれだけで他の仕事が全部ストップしてしまう。だから深く考える前の物凄く浅いところで「これは深く考える必要アリ」「これは流してよい」といった風にふるいにかけないといけない。浅い考えで納得してるというよりは、浅い考えで納得しないと、僕は生きていけないんだよね。

彼は善意で、僕の目の前に転がる問題全てについて僕を「それらを解決できるレベル」に引き上げようとしてくれているんだとは思う。ただ、今の僕には目の前の問題全てを問題として認識し続けることのできる精神的な余裕はないし、全てを処理できる能力もない。せっかく一つか二つにターゲットを絞ってゆっくり処理しようとしているのに、「これもターゲットにしないと駄目だよね」「こっちもやっつけないといけないよね」と、今まで敢えて捨て置いていた課題を掘り起こして目の前に突きつけてくる。浅い階層で切り捨てていた問題を掘り起こしてさらに掘り下げると、さらなる問題が中から出てくる。僕はそれに耐えられないんだな。

仕事、趣味、彼女とのこと、部屋の掃除、ゴミの片付け、洗濯物、料理。目の前に問題、しなくてはならないことはもう山積みになっている。僕は「多少部屋がほこりっぽくなっても気にしない」「栄養が多少偏っていても腹がふくれればそれでいいから、しばらく外食にする」といった風に重要度の低い(と思える)物をばっさばっさと切り捨てて、処理能力の要領に収まりきる数にまで「問題」の数を制限しているんだ、無意識のうちに。

でも彼はキャパシティが大きいから、数を制限しようとしない。「部屋がほこりっぽいとダニの温床になってアレルギーになって、その結果寿命が何十年か縮むんだけど、それでもいいの?」「料理を憶えないと、栄養が偏って、体力が衰えて、その結果寿命が何十年か縮むんだけど、それでもいいの?」そんな感じであらゆる問題を深く掘り下げて具現化し、目をそらすことができないような状態にして、僕の目の前に突きつける。すると僕はもう耐えられない。重要度の高い具体性の高い問題が重なりすぎて、処理能力を超えてしまう。オーバーフローしてしまう。そしてそれが僕にとってのストレスとなる。逆に彼にとっても、「何でこんなくらいでオーバーフローしてしまうんだ?」というイライラが発生し、彼にとってのストレスとなる。

賢い人と馬鹿な人とが出会った時は、どっちかが――現実的には余裕のある賢い人の方が――折れて相手に合わせるか、早々に互いに不干渉を徹底するか、しかないんじゃないのかな……そんなことを思った23歳の夜。

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