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「軽蔑」はなんだかニュアンスが違うような気がするんだけど語彙が貧弱でいい言葉を思いつかなかったのでとりあえずこう書いておく。
「信用する」ということと「ナメてかかる」ということの違いはどこにあるのだろう。「信用される」ということと「ナメられる」ということの違いはどこにあるのだろう。
僕は僕の友人・知人について、僕の個人情報をむやみに公に垂れ流したり、僕に致命的なダメージを与えるような攻撃をなしたりはしないであろう、と信じている。でも、それは「こいつらは俺に害をなさない安全な相手だ。こいつらからの攻撃は警戒しなくても良いだろう」という風に嘗めてかかることと、一体どう違うのだろうか。あるいは別の例でいうなら、僕は遠距離中の彼女について、浮気はしないはずと信じている。でも、それは「こいつは俺に隠れて浮気なんかしやしないだろう」という風に嘗めてかかることと、一体どう違うのだろうか。
無駄に攻撃的な人というのは、「ナメられない」ために、威嚇的で横柄な態度をいつも取るのだと聞いた。でもその代わり、公共の場においては、眉をひそめられ、危険な対象と認識され、人に近寄ってもらえなくなる。
物腰柔らかな人というのは、「信用される」ために、丁寧で謙虚な態度を心がける。でもその代わり、リーマン狩りに狙われたり詐欺のカモとして狙われたりと、虎視眈々と獲物を狙う者達に目を付けられ、悪意に晒され続ける。
何となくだけど。主導権が自分と相手のどちらにあるかという認識が、「信用する」ことと「ナメてかかる」ことの違いなのではないか、とふと思った。相手に主導権がある(相手の方が優位に立っている)と認識している時が「信用している」、自分に主導権がある(自分の方が優位に立っている)と認識しているときが「ナメている」。そんな風に。
いかなる場合においても、主導権を握った者が最終的に勝つ、ということなのだろうか。
刃物を自ら渡した相手に刺されたとしても
それでもいいと思えたらそれは信頼だと思います。
後悔したなら妥協です。
ちなみに物腰柔らかと卑屈は違うから、
一見柔なひとが悪意に必ずしも晒されるとは
限らないんじゃないかなぁ、と私的に思います。
刃物の例えは興味深いです。本質を突いている気がしました。
「この人に刃物を渡した時、まず自分に対して危害は加えないと思うけれども、もしそうなっても後悔しない」=信用している
「この人に刃物を渡した時、もしもの場合なんてありえない、この人には絶対に自分に危害を加えることなんてできやしない、と確信している」=ナメている
上で自分が書いた内容に組み込むと、こうなるでしょうか。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2006-08-16_belief.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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