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過去の日記を捨てられる人、捨てられない人 - Jan 27, 2007

知人が、かつてノートに書き留めていた日記の束を最近になって偶然見つけて、内容の恥ずかしさのあまりそれらを捨ててしまった、ということを書いていた。6年間にも及ぶそうだから、相当な量だろう。

この日記……じゃなかった近況報告は、たしかサイトを作ったときからずっと書いてるけど、通算でもうそろそろ8年分になるわけか。さすがに古すぎる奴は僕も恥ずかしいから、圧縮して置いとくだけにしてるけど、でも完全に消してしまおうという気にはちょっとなれない。

過去の日記を捨てるということは、自分自身でも忘れていたような過去の記憶の記録を捨てるということは、過去そのものを捨てるという事にとても近いのではないだろうか、と思う。整形とか、引っ越しとか、改名とか、そういう行為も、目的がどうかはともかく、結果的には「過去の自分と現在の自分との関連を断つ」行為になると言えるだろう。

それができない人と、できる人との差は、どこにあるんだろう。

自己愛の強さの差だろうか。本質的には自分大好きナルシシストだから、過去の自分を切り捨てられないんだろうか。

あるいは、「質より量」なのかもしれない。今の人生、過去の人生、どの一瞬を切り取っても厚みのない価値の薄いものであるなら、せめて量だけでも集めて重ねて価値を見出したいのかもしれない。

もしかしたら、未来が失われることを、突然自分がこの世から消え去ってしまうことを、恐れているのかもしれない。「過去を捨てる」ということは、大抵の場合、「新しい、未来の自分」の価値を上昇させるために行う行為だと思う。でも、その「未来」が無かったら、どうだろう。積み重ねてきた過去も、これから積み重ねるはずであった未来も、どっちもなくなってしまったら、自分の価値はどこに残るんだろう。自分のことを誰が覚えていてくれるというんだろう。

諦めが悪いんでしょうね。いろんな意味で。

分類:出来事・雑感, , 時刻:01:03 | Comments/Trackbacks (1) | Edit

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私も捨てたことが

小学六年生から大学卒業までくらいのあいだ、不定期につけていた日記だけどね。その際そんな難しいこと考えなかったよ。あるときふと読み返してみたら、もう強烈に恥ずかしくて、保存しておく価値ないと思って。自分がもし事故やなにかで、それらを処分する暇もなく死んでしまったら、親きょうだいに見られるだろうと思うと、捨てることにためらいはなかったな(笑)
それからも少しつけていたし、どうしても捨てたくなかったのもあるから、それは思い出箱と名づけた箱の中に、私的な手紙類とともに入れていて、「もしも私が突然死んだりしたら、この箱は開けることなく私の遺体と一緒に焼いて欲しい」と親に頼んでます。けど、いざそんな状態になったら思い出してくれるかどうか・・・
サイトの文章はさ、どうしてもどこか「他人に読まれる」ことを意識して書いてるでしょ、どんなに正直な心情を吐露していても。だけど日記は、誰も読まないと思ってるから、むちゃくちゃセキララ。そこが違うんです。

Commented by まりねこ at 2007/01/27 (Sat) 03:53:37

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