Home > Latest topics

Latest topics > 僕がある問題について自分がどう考えるかとその背景を書いているのは、フルブレーキングの副産物に過ぎない、という話

宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能! シス管系女子って何!? - 「シス管系女子」特設サイト

僕がある問題について自分がどう考えるかとその背景を書いているのは、フルブレーキングの副産物に過ぎない、という話 - Dec 08, 2019

blogとの付き合い方について あるいはなぜ自分がblogを書き続けているかについて - podhmo's diaryという記事の中で、僕の事が以下のように評されてました。

Piro_orさんはある問題について自分はこう考えるということの表明とその背景説明がとても上手な印象です。

これを書かれた方ご自身は「自分の思った事を書く」という事が今あまりできていないそうで、それで「できている人」として例に挙げて下さっていて、尊敬しているとまでおっしゃって頂いていてなんというか恐縮です。確かに、自分でもそういう事をよくしているような気がしてます。

ただ、自分がそうしている事の動機がどこにあるのかという事を改めて考えてみると、必ずしも目指すに値する対象とは言えないんじゃないだろうかという気がしています。

 

僕がなぜ自分の考えを表明したり背景を説明したりしているかというと、端的に言えば「暴走しないため」だと思ってます。

かつてWeb標準に傾倒していた頃「W3Cがそう言っているから」を錦の御旗に他の人を批判して回る、今で言うと「ポリコレ棒で他人を殴って回る人」に類する事をしていた時期が僕にはありました。最初の頃は純粋に「これはよいものだ」「これを使うと幸せになれるぞ」とお薦めする気持ちだけだったのが、いつの頃からか、動機の中に「絶対的に正しい側に立ってる自分を意識するのって、ンギモヂイィィィィ!!(恍惚)」「絶対的に正しい物を武器に無双するのって、ンギモヂイィィィィ!!(恍惚)」といった快楽を求めてという部分の割合が増していっていたように思います。自分は興味の移り変わりなどいくつかの理由があってWeb標準啓蒙・啓発の活動から離れましたが、活動を継続してその側面だけが肥大化していっていたら、想像するのも恐ろしいような大変見苦しく酷い結果になっていたのではないか、と思っています。

SNSに日々溢れる「正義の怒りの暴走」について、「怒りは貧者の娯楽だ」というような言説をちょっと前から目にするようになりました。遊ぶ金が無くても、SNSから流入してくる様々な社会のニュースに怒りを表明して、時に一言を発し、あるいは正義の執行者として「罪人を懲らしめる」のはこの上ない娯楽で、だから人は熱中するのだ(そうして皆お互いに殴り合って結果的に世の中をどんどん生きにくくしていっている)、みたいな話です。W3C信者当時の自分を振り返ってみて、学生の身分で正義感に駆られて行っていたそれは、趣味であり娯楽であったのだと今となっては思います。

その産物として技術的な知見などの有用な成果物が生まれていた事は事実で、世の中にはそういうjust for funの結果生まれた価値が数多くあり、楽しくて何かをするという事それ自体は否定するような物ではない、むしろ素晴らしい事だと思っています。ただ、「いま自分は、それが楽しいからやっている」という事に無自覚でいると、本当の動機が自分の自己顕示欲や支配欲や承認欲求だという事に気付かないまま、崇高な事をしていると思い込んで暴走してしまう。歯止めがかからなくなる。そんな風に僕は考えています。

だから僕は、衝動的に何かに物申したくなった時には、その衝動に任せて脊髄反射で何か言うのではなく、一旦踏みとどまって「今何かを言いたかった、その動機は何か?」を振り返る事が大事だと思っています。

そして、僕はどうも世の人の平均より「衝動的に何かに物申したくなる」瞬間が多いようなのです。激しやすい、感情的になりやすい、自己顕示欲や承認欲求が強くて「無双ンギモヂイィィィィ!!!」と快楽を得たい思いが強い、押しつけがましい、アドバイス罪を犯しやすい。そういう非常に残念な、むしろ軽蔑の対象となるのが相応しい性質を持つ人間である、というのが僕の自己認識です。

 

そういう自分であるが故に、気を抜けば僕はすぐ暴走してしまいます。なので僕は、暴走しないように全力でブレーキを踏む事を憶えたようです。

衝動に任せて暴走しないための一番簡単な方法は、僕は、動機を自分の中に見つける事、自分の内面の動機と向き合う事だと思っています。「自分はこう思う」という言い方で説明し直してみる、自分を主語にして語り直すと、大抵の事については、絶対の正義と思っていた物が実は自分の思い込みや好みの問題に過ぎなかったという事実が自ずと明らかになってきます。

現代社会では、個人の好みベースで何かを言う事は大人げなくてみっともない事だと見なされがちな気が、僕はしています。「みっともないとはなるべく思われたくない」という我が身かわいさと、「これは世の中に訴えかけていくに値する考えだ」という思いとを天秤にかけて、後者がより重いなら、あるいは、僕がそうしがちなように「みっともない? 上等だオラ! 俺の好き嫌いに文句なんか付けさせねえぞ!!」と思うなら、そのようにありのままアウトプットする。本当の動機を隠したまま、聞こえのいい言葉で飾り立てて「は? これは自分の好みなんかじゃなくて客観的な議論ですけど? 絶対に正しい話なんですけど?」としらばっくれない

そういうフルブレーキングの結果、火花やら何やらが飛び散ってスキール音を撒き散らしているのが、つまり副産物が、僕のしているある問題について自分はこう考えるということの表明とその背景説明の正体なのだと思うのです。

 

所詮は衝動の副産物に過ぎないから、そういう衝動のない所で「さあこれについて書こう」と身構えて何か生み出そうとすると途端に筆が乗らなくなる。ウンウン唸って時間ばっかりかかってしまい、出てくるのはいまいちキレの悪い物ばかりになる。

そもそも、このエントリ(の元にしたTwitter上での発言)自体が、冒頭のエントリを見た時に反射的に思った「いやいやいや……みんなもうちょっとちゃんと自分の本心と向き合おうよ。そんなに客観的でいれてるつもりなの? エゴの発露でしかない発言に無自覚すぎじゃね?」という「物申したい衝動」を抑えてフルブレーキングした結果の副産物だと言えます。

 

そう僕は考えているので、いやーこんなの尊敬にも目指すのにも値しないのでは? こんな人生、生きにくくてお薦めしないですよ? 大儲けもできないし大成もしない、そういうの諦めて慎ましく生きるしかない生き方ですよ? そんな風にほんとになりたいんですか? 冒頭のエントリを書かれた方が、主観的な衝動に流される事なく事実を事実として捉えられる性質の持ち主であるなら、こんなのに憧れて不得意に取り組もうとするよりも、ご自身の個性に適した戦い方を見つけられた方が生産的なんじゃないのか? と、押しつけがましくもつい思ってしまうのでした。

分類:出来事・雑感, , 時刻:16:02 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

Comments/Trackbacks

TrackBack ping me at


の末尾に2018年6月21日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2019-12-08_log-what-and-how-i-think.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。

Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.

2018年6月21日時点の日本の首相のファミリーネーム(ひらがなで回答)

Powered by blosxom 2.0 + starter kit
Home

カテゴリ一覧

過去の記事

1999.2~2005.8

最近のつぶやき