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の動向はもえじら組ブログで。
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「Yes, but」法(名前の通り、「いいですね、でもここが……」と、一度持ち上げてから落とす説得のテクニック)は知ってたけど、「責任を他人に押しつける法」としても使えるというのは気がつかなかったなあ。いや、ここで紹介されてるのは、自分のせいじゃない余計な責任まで自分一人で背負い込むな、本来責任を負うべき奴に責任を負わせろ、という話なんだけど。
でも考えてみたら結構無意識にこういう言い方はしてるかも知れない。「これとこれが解決されない限りはできない」という風に、何故できないのかの理由を示す、それは自分が責任を負いたくないからという場合もあるし、自分には分からない領域のことだからという場合もあるし、根本的解決を望んでいるからという場合もある。
ネットがあったから僕は仕事にありつけた。でも、そこに「本名を晒すこと」は必ずしも必要ではない、というか、仕事にありつけるということと本名を晒すかどうかとは全然別の事だ。例えば漫画を描くときにペンネームだけで活動している人が、そのペンネームでプロの漫画家としてデビューするなんていうのは、よくあることだ。
「本名を晒すこと」の「メリット」は、「本名じゃなきゃ信用しない」という頭の古い人に若干信用してもらえるようになる、たったその程度の事しかない。それに比べれば「デメリット」の方が圧倒的に多い。
ただ、名前も晒して、顔も晒して、絵も晒して(絵の癖ってのは名前を隠してても結構分かる)、そこまでしてしまった僕はもう後には退けない、って事は言えるんじゃないかと思う。
今後本名での活動を一切やめて、ネット上で何かする時は今までと繋がりそうな事は全て控えて(例:絵を晒す、パーソナリティに言及する、顔写真、などなど)、という風にすれば、「これからのこと」は本名と切り離せるだろう。「よっぽどの理由」を申し立てて本名の改名を認めてもらうか、どっかに婿入りするか養子になるかして本名を変えれば、過去の本名との繋がりも断てるだろう。整形手術でもすれば、過去の顔との繋がりも断てるだろう。そのくらいのことをしないと、もうどうにもならない、取り返しがつかない。
ま、そんな状況だから、いっそのことどんどん前に進んでみるのも面白いんじゃないか、と僕は思ってるんですよ。そうとでも思わなきゃやってらんない。
インターネットのおかげで、時間的隔たりも空間的隔たりも越えて、一人の人がとても多くの人に容易に接触できる、そんな世界が実現された。
どんなに凄い「才能」があっても、それが活かされる場と巡り会わないことには、宝の持ち腐れになる。今まで歴史の中に消えて行った幾多の「凡人」の中には、持っていた才能を活かす機会に恵まれなかったからそうなってしまったという人も多かったんじゃないだろうか、いや、もしかしたら「凡人」すべてが何かしらの「才能」を持っていて、その中でたまたまそれを活かせる場に巡り会えた人だけが「天才」と言われて歴史に名を残すことができて、巡り会えなかった残りの人全てが「凡人」として消えていったんじゃないか、とすら思う。
ネットのおかげで、そういう場に巡り会えるチャンスは飛躍的に増大した。ネット世界のどこかにいる「それを必要としている人」に見つけてもらって、その能力を能力として評価してもらうことができるようになった。
僕が今こうして職にありつけているのも、ネットがあったからこそだ。ネットが無ければ、僕は自室にひきこもって下手糞な絵を描いているだけのただの消費者で終わっていただろう。ネットがあったからこそ僕は生産者になれた、自分のもっとも効率よく生産できる物を、生活に必要な物(=金)に変換してくれる場に出会えたのだと思う。
だから、ネットは所詮バーチャルな物だとかそういう感じの事を言っている人を見ると「それは違う」と言いたくなると同時に、「ああこの人はネットという媒体が無くても身近な所で自分の能力を評価してくれる人を見つけることができる幸運な人なんだな、だからネットという媒体に価値を感じないんだな、羨ましいことだ」とも思う。
なんというか、こう、大味というか大雑把というか、「だーいじょうぶだいじょうぶ、ミーにまっかせなサ〜イ!! HAHAHA!!」とか言って色々ぶっ壊しながら直進する陽気なアメリカン、というキャラクターを思い浮かべました。
見積もりって自分にとってはとてもストレスのかかる仕事の一つだ。必ず求められるし、でも要件もまだまとまってないうちから「どのくらいの時間がかかるか」なんて聞かれたって答えられないし、それでも答えなきゃいけないし、あまり時間を食いすぎる見積もりをすると「うわ、こんなにかかるの? どんだけ無能なんだこいつ」って思われそうだし、そう思われてしまったら肝心の仕事が取れないから収入ゼロになってしまうし。もちろん見積もりに比べて実際の作業が長くなれば自分で自分を「ああ何でこんなに時間かかってるんだ、これじゃ客にも会社にも損害を与えるばっかりじゃないか」とか責めるようになるし。
でも自分が発注する側になったらきっとやっぱりとにかく見積もりをしてくれって言いたくなるだろうなとも思う。百円とか千円とかならいいけど、額が大きくなればなるほど、丸々無駄になった時のダメージは大きいし。慎重にならずにはいられない。初めて仕事を頼む相手であればなおのこと。
「これはよいまとめ(是非実践するべき)」というコメントと「これはよいネタ(こんな事実践してはいけない)」というコメントが両方ともたくさんあって、何だかなーと思った。この一例を見ても、人の言う事を盲信するって危険な事なんだなと気付かされる(←そんな大層な事か?)。
島国大和のド畜生 ソコソコの社会人一年生向けマニュアル こういうのも。
追記。
“当たり前”のことをすると当たり前に潰される。 - orangestarの日記では、そういう「フレッシュマンの作法」に則ったrepon氏が負け組となり、則らなかったfromdusktildawn氏が勝ち抜け組となったという事実を指摘している。これだけが決定的な要因になって勝ち負けが決まるとは思わないけど、勝ち負けを決する要素が二人の選択の違いに表れているという事は言えるのかもしれない。
自分の偏見でまとめると、「そういう些事に囚われる人は大成できない。かといって些事に囚われなければ大成するというわけでもない。些事に囚われない事は大成の必要条件ではあっても十分条件ではない。些事に囚われる事は負け組の十分条件である可能性が高い。」とかそんな感じなんでしょうか、この流れは。
ヲタ好みの「属性」の多くは「安全圏から見てる分にはいいけど、実際に近くにいたら困る」という物が多いけれども、ヤンデレなんてその最たる物だよなと思う。要するにメンヘルだもの。
幸い僕自身は今の所「話せば分かる」人としか付き合った(男女交際じゃなくて人付き合いの意)事がないけど、話が通じないって怖い事だなと思う。こっちはして欲しい事があって、でもどんなに頑張ってもそれは相手には伝わらなくて、相手は相手で自分の考えてる「して欲しいだろうと思う事」にこっちの事を当てはめて考えてて、それをこっちが望んでいない事すらも相手には伝わらなくて。
でもほんとは世の中そういう場合の方が多いのかも知れない。「話して分かった」つもりになってるだけで、ほんとはどっちも相手の事を全然分かってないのかも知れない。察する事が美徳とされる文化の<ruby><rb>下</rb><rp>(</rp><rt class="読み">もと</rt><rp>)</rp></ruby>で生きてきて、「話が通じるのが当たり前、話が通じないのは異常」と思い込んでいるから、現実の状況に下駄を履かせて「うん、話が通じた」って勘違いしてるだけなのかも知れない。
児童ポルノ問題についてみんな勘違いしている。 - orangestarの日記
「ロリコンはキモイ!! 死ね!!!」と思うことは自由だし、そう言うことも自由だし、そうあるべきだ。そう発言することも考えることすらも法で禁止してしまうなんてことが、あってはならない。ロリコンをキモいと思う人がその心情を自由に発言し主張できる、そういう世の中を僕らは守っていかなければならない。
僕が児童ポルノ法(の「準児童ポルノ」うんたらかんたらの部分)に反対する理由も、誰もが反対するべき理由も、まさにそういうことだ。
その事が分からない人は、この件について口を挟むべきではない。
追記。「性的視線から無縁な児童」なんてのは単なる「フィクション」じゃないの? - 想像力はベッドルームと路上から→王様を欲しがったカエル | 児童ポルノを撲滅しようと画策している団体は、内部で児童にポルノを鑑賞させている。 色々ねじれてるのなぁ。