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何かを説明するための例え話というのは、相手にとって分かりにくいであろう事柄を、相手や他の人や誰でも分かりそうに思える他のことに当てはめて言い換えるものだと思う。
ということは、逆に考えれば、その人がその言葉で言い換えるということは、少なくともその人は、その言い方であれば誰にでも通じる――そんなことは当然であり常識であると思っている、ということも言えるのではないだろうか。その人が何かをどのように例えているかを見ることで、その人の世界観を推測できるのではないだろうか。
ということを、天馬氏の書かれたエントリを見て思った。「氏がそうだ」と言っているわけではありませんし、内容にケチを付けるつもりも毛頭ありませんので、あしからず。
僕の離婚バトル~仁義無き戦い~を最初のエントリから順を追って読むと、胸の辺りが苦しくなったり涙がこぼれてきたりしてやるせない気持ちになった。
実話なのか作り話なのかは眉唾として、話の流れを見る限り、元妻もかわいそうな人だなあ。完全な被害妄想としか思えないところがあちこちに。こういう人って「嘘をついてる」という自覚がないんだろうな。自分に都合の悪い事実は「見えてない」「認められない」んだろう。指摘されたらファビョる。そういう人を約一名知ってるから分かる。社会生活は送れているにしても、一種のビョーキなんだろう(差別的な意味で言うのではなく、そういう症状が出るのが「当たり前」であって「どうしようもない」んだろう、という意味で)。
むなしい……
罵られて動揺するのって、そんなに珍しい反応なのか……リアル生活で言うなら、郵便受けがカミソリメールで一杯になるとか、毎日机の上に花瓶置かれるとか、そういうのに相当するようなものだと思うんだけど。それでも普通の人はもっと図太く生きていけてるものなのか。
それだけでも、僕にとって「普通の人」というのはもはや尊敬の対象なのですよ。そして、自分もそういう強い人に生まれたかった、と悔やまれてならない。
戸塚ヨットスクールの話とか見てて思ったこと。
とかなんとか。
イジメの加害者の少年に(ある程度の訓練を受けさせた上で)崖下りをさせて、その時の命綱をイジメの被害者の少年に持たせ、加害者少年に恐怖を味わわせるという話は、そりゃ効きそうだけどエグいなあと思った。
現代日本における団体アレルギー、団体とか法人とかはとにかく善良な一般人を騙くらかして自分達だけイイ思いをしたがっているに違いない、という風な風潮は、全共闘だの何だのの時代の話を聞いて得た教訓が「歪んだ思想に導かれるのって怖い」ではなく「群れる奴らって怖い」だけで終わってしまっている、あるいは意図的にそのレベルで終わらせてしまっているから、だったりしないかしらん。
ていうか、そんな風潮がそもそもあるのか? それに、そんな教訓なんてあったのか?
と、適当なことを言ってみるテスト。
僕は、自分の行動が、他者の僕に対する評価を変動させ得るということを知っている。例えば僕が何か「良い行い」をすると、他者の評価は「彼は良い人だ」という方向に動く可能性がある(そうならない可能性もある。ただ、「彼は悪人だ」となる可能性よりは、そちらの可能性の方が高いだろう)。ということを、僕は知っているし、そう信じている。
そう考えているが故に、僕は、無償の愛とか汚れの無い善意といったものを表明することができない。仮にその時、何も見返りを期待せずにただ善意で、あるいは自分の興味本位で、善行を為したとして、それを後から自己評価するとき、僕は、先の事を思い出して、自分の行動に「それはどうせ、他人の自分に対する評価を良い方向に動かすための偽善でしかない」という説明を付ける。
根っからの善人というのは、自分のする行動が他者の自分に対する評価を変動させ得るということを知らない・考えない・知っていても特にそれが重要だとは考えていない、思考のベクトルが「自分(の評価)」に向いていない、外向的である、そういう人なのではないだろうかと、ふと思った。
久しぶりにくーまんの部屋を見てみたら「旅行中」と出て、待ち受け画面に戻ったら、なんかくーまんがかわいくなくなってて(ぉぃ)びびった。
……調べたところによると、どうやらこいつは話に聞く「くーぱぱ」らしい。こんな隠れキャラがいたとは知らんかった。
忙しい、と言える身分ではないのかもしれないけれども、そう言いそうになってしまう。
時間はたっぷりある。いくら初めての独り暮しだとはいえ、近所に店はたくさんあるし、もともと掃除をあまりしない人間だから掃除に時間をかけるということもないし、拡張機能のサポートといったって最近はもっぱら放置状態だし、そもそも家に帰ったらまだネットに繋がってないんだし、何もしないでボケーッとしてる時間というのが結構ある。でも、主観的にはどうも、時間が無い! という焦りにも似た感覚を感じてしまうんだ。
やる気があって自ら能動的に何かをできる時間が、あまりないんだ。
僕はやる気ゲージが極端に短いらしい。よっぽどの事でもない限り、一日のうち数時間も集中していられない。数千字文を書けばもうそれでやる気が尽きてしまい、後の時間は何もできなくなってしまう。
ボケーッとしてる時間の全てを創造的な事や仕事に回せないものだろうか。そうすればきっと今の何倍も仕事をこなせるようになるだろうに。それでやっと真っ当な社会人と呼べるクラスの「忙しさ」になるのだろうに。
時間はあっても自ら能動的に何かをするやる気が足りていない、という状況を、忙しいと言って良いものなのだろうか?
まあ引っ越しつうことで引越先の契約をしても約1ヶ月は繋がらないというのは予想通りなんですが、会社の方もまだ工事が終わってないそうで、本気でしばらくネットに繋がらんようです。
わーいこんな時に限って仕事が詰まってるのにぃー ヽ(;´∀`)ノ