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セクハラを「軽い気持ちでやってしまう」人、の考える事:自分の場合の振り返り - Jun 28, 2018

このエントリは、女性エンジニアの権利を守りましょうとか差別よくないよねとかの社会に対する語りかけとは本質的には関係無い、個人的な述懐です。

女性エンジニアの差別やハラスメントの話と、それをきっかけに考えた差別やハラスメントそのものの話と、立て続けにクッソ長文を書いてしまったのですが、自分でもちょっとどうしたのと思う部分はあります。

「自分がやってる事まで一緒くたにされると困る」「下手したらこっちにまでとばっちり来そうだから先に釘刺しておきたい」みたいな自己保身、予防線というのも動機の一つではあったのですが(その割に、「シス管系女子なんてタイトルの物を作ってる奴がどの口で言うんだ」みたいな明らかに文章を読んでない反応もあったので、藪蛇にしかならなかったのかもしれませんが)、やっぱり最大の動機は、過去の自分を恥じる気持ちが強いからなんだと思います。

自分が言及した記事の反応(の一部)僕の書いたエントリへの反応(の一部)なんかも、見てるとほんと辛いんですよね。憤慨してる人がいる一方で、何が悪かったのか全く分からないという人がかなりいて、それが過去の自分にものすごくそっくりに思えて。なので、「過去こういう中の一人だった自分だからこそ、こういう人達に届く表現ができるのではないだろうか?」と思って、色々な言葉でなんとか表現してみようとしたのでした。結果はお粗末でしたが。

 

よく、こういう時に何が悪いのか分からない人を非難する言葉として「想像力が無さ過ぎる」とか「感情が無いんじゃないのか」とか「権利意識が低すぎる」とか色々な表現が使われると思うのですが、僕は、そのどれも適切な認識とは言えないんじゃないかなあ、と思っています。こういうのの何が悪いのか全く分からなかった頃の自分は、スター・ウォーズやゼノギアスのような何千年や何万年といったスケールが出てくる壮大な物語を妄想するくらいには「想像力」はあったし、自分の事を馬鹿にされれば怒り、悲しい物語を見て涙するくらいには「感情」もあったし、「人種差別ダメ!絶対!」と思うくらいには「権利意識」もあった、と言えると思うのですよね。じゃあ今と何が違ったんだろうっていうと、当時は自他の境界が曖昧だったと言えるんじゃないかなあ、と思っています。

 

今でもものすごくはっきり覚えている話なんですが、幼稚園とか小学生とかそのくらいの頃、チャゲアスのASKAの芸名はフラれた相手の女性が好きだった人の名前に由来している)という話を聞いて、こう思ったんですよね。「は? 意味わからん。今めっちゃ有名人やん。その人、なんでフッたりなんかしたん? フッてなかったら今頃芸能人の彼女やで? めっちゃ自慢できたし幸せになれてたんちゃうん」って。いや、言いたい事は分かります、はい、これはこういう事ですよ。

  • その「フッた当時」に未来の事は分かるはずがない、という事が分かっていない(現在・過去・未来の概念がまだ分かっていなかった)
  • よしんば予知できていたとしても、「芸能人だというだけで付き合う価値がある」「芸能人と付き合えたら幸せだ」と思うかどうかは人それぞれである(そう思わない人もいる)、という事が分かっていない。

ひどいですね。まあ幼稚園児とか小学生とかの言う事ですからね。しょうがないですよね。

で、その十何年後、成人してさらに何年か経ってた頃だと思うんですけど、知人男性の同人サークル(文字書き系)を訪問した時に「次表紙描いてもらえないですかね?」と依頼された事がありました。その時に、当時他の女性イラストレーターさんが表紙を描かれていた事を受けて僕は「いやいやいや、僕に描かすより今のイラストレーターさんに任せた方が絶対いいでしょう。だって女の人が描いた絵ってだけで付加価値じゃないですか。男だけで作ってますって言うより、女性も関わってますって言えた方が価値が高まるじゃないすか。同じくらいの腕前なら、自分だったら絶対女性イラストレーターさん続投って判断しますよ」と速攻で断ったんですよね。そしたら「それセクハラですよ!」ってその場で突っ込まれまして。いや、はい、これも言いたい事は分かります、これもこういう事ですよね。

  • そのイラストレーターさんが、自身の「女性である」という性質を付加価値として売りにしたいと思っているとは限らない。
  • その男性知人も、そのイラストレーターさんが「女性」であるという点をその人の付加価値と思っているとは限らない。彼自身が、「女性が関わっている」という事を価値として推していきたいと思っているとは限らない。
  • 僕自身は「自分が持ってる属性は何でも武器にしたらええやん。その方が得やん」「相手が持ってる属性全部値踏みしたらええやん。それで得の多い方を選ぶの当然やん」と考えていて、誰もがそのように考えていると思っていた。

これもひどいですね。成人してなおこれですから、救いようがないですね。幼稚園とか小学生とかの頃から進歩してないですね。

どうやらもっと歳食ってる人でも似たような考え方をしているケースは結構あるようなんですよね。なのでこれは「年齢を経れば分かるようになること」「ほっといても分かるようになること」ではないのでしょう。田房永子という人が描いた、中高年を想定していたらしい「実は彼ら(セクハラをする人)自身が自分のことを人間扱いしてないのではないだろうか」「性別とか年齢とかの『入れ物』に沿って生きる、それが人生だと思ってる人に注意しても通じない……」というマンガは、当時の自分の思考の一面をものすごく適切に言い表してると思います。ただ、少なくとも僕自身のケースを考えると、これだけでは説明が付かないかなあと思うのです。上の世代の人より僕の世代(僕は1982年生まれです)の方が、確実に人権とかその辺の教育は多くなされていたわけですから。

ところで、発達障害とか自閉症スペクトラムとかの文脈で出てくる話で心の理論という物があります。「サリーがボールを自分用のカゴに入れて外出した。その後、サリーがいない間にアンがそのボールを自分用のカゴに移した。戻ってきたサリーはボールを探すためにどこを見に行くか?」という問いに対し、幼い子供や心の発達が遅れている人、自閉症の人などはアンのカゴを見に行くと答える、何故ならアンとサリーが別々の精神を持っていると理解できないから、みたいな話なんですが、過去の僕の誤りも、この話の延長線上にあるんじゃないか?と思うんですね。

前述の表紙オファーの話よりずっと後になって医師の診察を受けて「発達障害とかアスペルガー症候群とかの名前が付くような、社会生活に支障をきたすほどの重度ではないが、そういう傾向はある」という診断をもらったので、思い過ごしではないと思うのです。あの頃の自分は、自分と相手は別の人だという事を知識としては知っていたけど、心の奥底ではちゃんと分かってなかったんだと思います。自分と他人は視界を共有してはいない。自分と他人は記憶を共有してはいない。そこまでは分かっていても、自分と他人は価値観を共有してはいないという事は分かっていなかった。自分と他人の価値観の境界線が曖昧だった。という事なのではないかと。

だから、「僕がこう思うんだから相手もきっとこう思っている」という事を推測ではなく確信としてそう考えていて、どんなに説明や反論をされても「えっ、でも本当はあなたもこう(僕の思ってるように)思ってるんでしょ? なんでそんな建前ばっかり並べてるの?」としか思えなかったんではないかと思います。

 

そんな自分が変わったきっかけは、元彼女が与えてくれたと思っています。はっきり覚えている忌まわしい記憶なのですが、遠距離だった彼女と久しぶりに会ってデートして、記念日にしたくなるような、それまでの人生で味わったことの無かった幸せを感じた後の会話で、自分だったらそう言われてもべつに何とも思わない事を口にして、それまでニコニコしていた元彼女が急に表情を曇らせ、泣き出してしまった、という事がありました。それで当時の僕は、利己的なこと甚だしいんですが、この人にだけは嫌われたくない、この人に嫌われたら後がない、この日の思い出をこんな最悪な終わり方にしたくない、という恐怖心から、何が悪かったのか本当のところでは分かっていなかったなりに必死でフォローを試みたんですね。それで彼女は泣き止んで、その後、自分の言った事の何が悪かったの、彼女が何をどう受け取ってどう悲しんだのかという事を、帰りの道すがら懇々と説いてもらったのでした。

正直なところ、その1回でガラッとすべてが変わったということは多分無かったのですが、その時の、この世の終わりかと思うような恐怖と衝撃がきっかけになって、それ以前には考えもしなかった「自分と彼女は別の価値観を持っている」という事を少しずつ意識するようになり、その後も(その彼女と別の理由でお別れした後も、今の妻と付き合い始めて以降も、結婚後も)同様の「価値観の違い」に起因するやらかしを何度かして、その過程でだんだんと「自分と他人は別の価値観を持っている」「皆それぞれ異なる価値観を持っている」という事も理解できるようになっていったのではないか、と今では思っています。

 

叱られない事、怒られない事、衝突しない事、失敗しない事だけを心がけていたら、多分ここまで自分は変われなかっただろうと思います。冒頭触れた「何が悪かったのか全く分からないという人」達は、それまでの人生で幸か不幸かそういう失敗から学びを得る機会……特に「失敗を認めて自分を変えなきゃ後が無い」と真剣に向き合う機会が無かっただけという事なのかもしれません。そう思うので、僕は「彼ら」に心底からの怒りを覚えられずにいる、むしろシンパシーすら感じているのでした。


以下、7月1日追記。

ボンヤリとWebフィードを眺めていて、「億単位の遺産を相続した事を知った途端、夫の両親(義理の親)がたかってくるようになった」みたいな話をたまたま見かけたのですが、「他人にたかる奴の気が知れん」というコメントを見て「あっこれ同じ話かも」と思いました。

というのも、元々自分は「幸せや資産や技術はお裾分けするのが当たり前、何故ならお裾分けする物だから(※トートロジー)」という考えを持っていて、持っている物を分け与えないで抱え込む行為を「がめつい」とか「ケチくさい」とか無条件に思っていたからです。いつの頃からかその考えは改まり、今は「分け与えたいと思う人もいる、そうでない人もいる」「分け与えたいと思わない人が分け与える義務は無い」「ただ、分け与えないで抱え込むと格差が拡大し社会が不安定になるので、そんな社会になる事を憂える人は、分け与えたいと思っていなくても自分のために分け与える事もある」と考えるようになっていますが、

セクハラ一般も、「女性性という価値を持っているのなら、その価値は『皆の共有財産』なのだから恩恵を分け与えるべき」みたいに思っていた部分があると思っています。今でも、事故や事件で亡くなった人の報道を見る時、その人が中高年や若い男性であれば(遺族の今後を憂う気持ち以上の事は)何も思わず、若い女性であった場合にのみ「わあ勿体ない」と一瞬思ってしまう事はあり、その度に「いや、何が勿体ないんだ。子供を産める存在が1つ減ったのが勿体ない、とでも言うのか? 『男』という属性を共有するどこかの誰か(もしかしたら自分)がSEXできるかもしれなかった相手、が減った事が勿体ないとでも言うのか? 本人の意志を無視して?」と思い直す、という事を内心でしているというのが現状です。

価値観だけでなくあらゆる物事について、「自分の物と他人の物という区別が付いていない」「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物、とナチュラルに考えてしまう」のが自分の野生に任せた元来の考えで、その上から後付けで個人の自由という価値観をインストールしたというのが実際の所なので、今後もし長生きしてポロポロと知識が欠落していくに従って、この後付けでインストールした価値観も失われてしまえば、僕はまた自他の区別が曖昧な「セクハラ野郎」「絵が描ける人に会えばタダで描いてくれと求め、歌を歌える人に会えばタダで歌ってくれと求めるタカリ野郎」に戻ってしまうのかもしれません。歳を重ねた後で習得した物ほど、認知症になると先に失われていくと言いますし。

分類:出来事・雑感, , , 時刻:03:30 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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