たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
先のエントリでさらっと書いたけど、彼女の写真を待ち受けにするとか壁紙にするとかって、恥ずべき行為なのでしょうか。何かの機会にチラッと見た人が揃って「へぇー待ち受けにしてるんだー(ニヤニヤ)」みたいな反応を示すので、自分の判断に自信がなくなってきます。
多分だけど、こういうのってきっと中高生やなんかの「子供」がやるようなことなんだろうなあ。もうすぐ四捨五入したら30になるような歳のいい大人がするようなことではない、という意味で、その幼児性を見透かされているようでなんだかアレだ。
そりゃ「普通の人」は20代にもなってりゃあ恋愛観も落ち着いてきて大人な対応を取れるもんなんだろうけど、23で初めて交際相手ができた自分は、そういうレベルにまだまだ到達できるハズなんかないですよ。人生周回遅れで悪かったな!!
水原ありささんというコスプレイヤーの人の涼宮ハルヒのコスプレ写真(Cureで検索すると他の写真も見られる)、僕は素直に「いいねえ」と思ったんだけど、友人にはきもい。。目が。。。
、不自然極まりない
、生がこもってなくてきもいよー
、と不評だった。
このハルヒの写真ではおそらくカラーコンタクトで黒目を大きく見せていて、それが不自然に見えるということなのだと思う。まあ人によって好きずきだと思うけれども、これが「不自然」であるということは客観的に見て事実だろう。
問題は、それにもかかわらず僕が何故違和感を感じなかったか、どうしてこれを自然なものとして受け入れてしまったか、だ。
僕はおそらくこれらの写真を「現実の人間の写真」とは見ていないのだと思う。極端な話、incise soulの美少女3DCG(「おっぱい! おっぱい!」のアニメーションのティファで知ってる人もいるんじゃなかろうか)や、あるいは美少女フィギュアに類するものとして受容している、そんな気がする。
他の例でいえば、「Final Fantasy Ⅶ Advent Children」に対する反応が人によって分かれるのも、その映像に対する「ゲームキャラクターのCGのリアリティを増す方向で突き詰めた結果」と「リアルな人間からいくらかの情報をそぎ落として3DCGに落とし込んだ結果」という認識の差のせいだと思う。
そういう僕にとって、この「水原ありさ」という名前はCGの作家であるとかフィギュアの原型師であるとかと似たようなものとして認識されているわけだ。
泡沫ブロガー天狗問題を見て、どうしてブロガーやってると天狗になってしまいやすいのかを考えてみた。
Web上で感想や意見を表明する場合、それにはいくつかのレベルがあると思う。自分の感覚では、とりあえず以下のように思っている。
上位ほど入れあげている度合いが高くて、下位ほど醒めた淡泊な反応、という風に見てほしい。創作系の反応が上位にあるのは僕が創作を趣味にしているからであって、人によってここは変わるかもしれない。しかしながら、4位以降の序列については、一般的にも言えることではないだろうかと思う。
もしこのような図式があると仮定して。
2chの「匿名性」は権威や議論を破壊するのは得意だけど何かを作り上げるのは不得意という話。本題は別なのかも知れんけど、頭の悪い僕はこの点だけ理解できた。
僕が2chにあまりシンパシーを感じず(匿名でダラダラ消極的に参加するのは構わないんだけど、そこに積極的に参加して何かを為そうとは思わない)、2chとうまくつき合っていってるplus7氏やその他の方々のことを理解し難く感じるのは、これが理由なのかもしれないと思った。
てっきりエイプリルフールのネタ記事か嘘ニュースかと思ったら、CNETのマジ記事だった。
「ゼロックス(紙面に書かれた内容を複製する機械、一般名称はコピー機)」は僕はそういう表現を使ったことも聞いたこともないのであまり実感が湧かないけど、「ホッチキス(紙を金属の針で綴じる道具、一般名称はステープラー)」「ウォークマン(磁気テープまたはCDをセットすることで音楽を再生できる機械、一般名称は携帯型オーディオ)」「ファミコン(コンピュータを使った家庭用ゲーム機の総称、一般名称はビデオゲーム)」「ガンダム(人型の巨大ロボットの韓国における総称、一般名称はロボット)」あたりのことを考えたらまあ実感湧くかも。
目くじら立てて取り締まるよりは、これを活かす方向で何かプロモーションすればいいのになあ、と思う。
とりあえず本気でGoogleがこの言葉の使用を取り締まろうとするなら、アレだ、「ググる」という言葉が含まれたページを片っ端からGoogle八分にすればいい。Googleなら、あのGoogleなら、そのくらいのことはやってくれるんじゃないの?
「軽蔑」はなんだかニュアンスが違うような気がするんだけど語彙が貧弱でいい言葉を思いつかなかったのでとりあえずこう書いておく。
「信用する」ということと「ナメてかかる」ということの違いはどこにあるのだろう。「信用される」ということと「ナメられる」ということの違いはどこにあるのだろう。
僕は僕の友人・知人について、僕の個人情報をむやみに公に垂れ流したり、僕に致命的なダメージを与えるような攻撃をなしたりはしないであろう、と信じている。でも、それは「こいつらは俺に害をなさない安全な相手だ。こいつらからの攻撃は警戒しなくても良いだろう」という風に嘗めてかかることと、一体どう違うのだろうか。あるいは別の例でいうなら、僕は遠距離中の彼女について、浮気はしないはずと信じている。でも、それは「こいつは俺に隠れて浮気なんかしやしないだろう」という風に嘗めてかかることと、一体どう違うのだろうか。
無駄に攻撃的な人というのは、「ナメられない」ために、威嚇的で横柄な態度をいつも取るのだと聞いた。でもその代わり、公共の場においては、眉をひそめられ、危険な対象と認識され、人に近寄ってもらえなくなる。
物腰柔らかな人というのは、「信用される」ために、丁寧で謙虚な態度を心がける。でもその代わり、リーマン狩りに狙われたり詐欺のカモとして狙われたりと、虎視眈々と獲物を狙う者達に目を付けられ、悪意に晒され続ける。
何となくだけど。主導権が自分と相手のどちらにあるかという認識が、「信用する」ことと「ナメてかかる」ことの違いなのではないか、とふと思った。相手に主導権がある(相手の方が優位に立っている)と認識している時が「信用している」、自分に主導権がある(自分の方が優位に立っている)と認識しているときが「ナメている」。そんな風に。
いかなる場合においても、主導権を握った者が最終的に勝つ、ということなのだろうか。
同人関係の金のことってあんまり表に出すべきじゃないんだろうか、と思いつつ、何かの参考になるかもと思って数字を晒してみる。
こんな議論が起こっているようで。
このリンク先の文言を見る限り、ベル・フックスという人は「フェミニズムとして始まった運動はジェンダーフリーに変質・移行・進化した」と考えているように読める。しかしこの議論を見ると、ベル・フックスの考えというのはフェミニズムの中では異端なのか? と思えた。
ということで、そのベル・フックスという人物に僕は興味を抱いて、検索してみたわけだ。
純愛人妻日記の最新エントリを見てて思い出したけど、こないだ会社の事務所のあるフロアのトイレで洗浄ONにしたら、物凄い勢いで水が肛門に突き刺さって仰天しました。見たら水勢最強になってたし。その日一日ヒリヒリ痛かったです。危うくロストバージンするところでした。死ぬかと思いました。
で、それ以後使うときに必ず水勢をチェックするようになったんですが、いつ見ても常に最強になってるんですよね。誰だか知らんけど、どれだけ頑強な肛門を持ってるのかと。
グロい話ばかりですんません。
某氏に紹介していただいた美容院に行ってきた。人生で4度目の美容院体験(もうそろそろカウントをやめても良いでしょうか?)。
昨日行ったところでは最初と中の洗髪およびマッサージと主たるカッティングと計二人のスタッフの方に接したのだけれども、どちらの美容師さんもそこそこ親しげに(人によっては「馴れ馴れしい」と感じるかも知れない)話しかけてきて、僕の素性を訊ねられた。
これが一般的な傾向だと仮定して、どうして美容師は馴れ馴れしいのだろうか? という理由を考えてみた。