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の動向はもえじら組ブログで。
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チャットと電話を同時進行でできる人というのが僕には信じられないけれども、そういう人もいるらしいから、そういうことも人間には可能なんだろう。でも僕にはできない。頭悪いから。頭いい人が羨ましいわ。羨んでもどうしようもないんだけどさ。こういう頭の良さってもうどうにもならんと思うし。
pitONEで特価になっていたLogitecのFMトランスミッター内蔵 車載用MP3プレーヤー「DiALIVE」LAT-FM200U(W)というものを買った。
なんというか、無駄に多機能だなあ。というところが気に入った。
オマケとして?iPodをUSBポートに接続して使うためのアダプタが付いてきてたんだけど、なかなか使い出がありそうな気がする。iPod miniとかはDock⇔USBのケーブルでPCやこういった機器に接続すると、通信モードに入ってしまって操作の一切を受け付けなくなるのだけれども、このアダプタを挟んで繋ぐと、ACアダプタに接続したときと同じように動作するようになる。おそらく、内部でUSBの信号線だけをカットして、ただの電源供給源として使うようにするというものなんじゃないかと推測してる。こういうものこそ標準添付あるいは標準のUSBケーブルに機能が内蔵されてれば嬉しいものなんだけどなあ。まあ美しくないからアポーはこういうのは採用しないんだろうけど。
こないだ益田ラヂヲさんと菊池さんとアメリカ村でゴニョゴニョした後に、休憩がてら益田さんご推薦のゲームを一つやったんだけど。ゲームの名前は忘れた。
ゲームのルールはシンプルで、プレイヤー同士の読み合い・騙し合いというのがキモなんだけど、これが結構面白かった。
なんでボードゲームを普及させるのが難しいんだろう……ということをその後で話してたんだけど、今思うと、このゲーム性の高さ自体が敬遠される理由になってしまってる側面はないかなあ、という気がふとした。要するにめんどくさい。何がめんどいって、ボードとコマを展開したり片付けたりってことじゃあなく、頭を働かせることが。相手プレイヤーを疑って疑って疑いまくることが。
もちろんコンピューターゲームにだって、そういう要素はいくらでもある。わかりやすい例でいえば、対戦格闘ゲームのプレイヤーはコンマ数秒の間に相手がどんな手を繰り出してくるか何通りもの予測を行うというし。
ただ、コンピューターゲームが派手な映像や爽快感のある動き、音声など、心理戦以外の様々な要素を持っているから、時間あるいは集中力を振り分ける場面において、かなりの部分受け身でいられるのに対し、ボードゲームはもっとプリミティブなものである分、常に集中して能動的でいなくてはならないような気がする。同じ30分のプレイでも、コンピューターゲームでは10分くらいが頭を使う時だとしたら、ボードゲームでは30分間脳味噌フル回転で休むヒマがないんじゃないだろうか。
もちろん、別に脳味噌使わなくてもプレイはできそうだけど、受動的に楽しめる要素がほとんど無い分、その場合のプレイはつまらないものになるような気がする。
最近僕はVアプリのミスタードリラーに結構ハマってるんだけど、これやってる間って、実は結構頭ボーッとしてる。パターン認識とかで頭を使ってる可能性はあるけど、権謀術数を張り巡らす心理戦に比べたらはるかに単調。
あぁ、なんか最近自分どんどんバカになってってるなあと思ってたけど、こんなところで実感してしまうとは……
自分の部屋にスイッチングハブを導入した。これでノートPCを使うときにいちいち別の部屋まで移動しなくて済むぜー(っていうか無線LAN使いなさい自分)。
におわない納豆料理は、ニオイという納豆の特徴的な良さを排除つまり「素材を殺して」いるのか、それとも、ニオイによって殺されていた納豆の他の良さを引き出して「素材を生かして」いるのか?
そこは表現次第、受けとる人次第ではある。ただ、世間一般では、納豆の良さはニオイではなく味や栄養価の部分にあって、ニオイは大事な要素ではないとされている。だから納豆のニオイを消すことは世間一般では良いこととされる。
でもそれは、そんな世の中の風潮は、臭う納豆が大好きで納豆の真価はニオイにこそあると思っている人には、耐え難いものだろう。あるいは、納豆は食べるのではなく他の使い方をするのがベストだ、とか、納豆は見て楽しむものだ、とかそういう価値観の人であれば、食べるために納豆をあれこれするということ自体がもう我慢ならないことだろう。
「俺は納豆を食うという価値観に世の中が無条件に染められていることに納得がいかんのだ。食うためにどうこうするという価値観を誰彼構わず押しつけることが許せんのだ。食えない納豆は存在を否定され、食えない納豆を好む人間も排除されるという世の中が許せんのだ。」
hazama-hazama氏の発言の意図はそういうことではないかと、僕は見ているのだが、どうだろう。外していたらツッコミを入れて誤解を解いてほしいんだけど。
行き詰まってるなあ。
誰が悪いと犯人捜しをするなら、自分が悪いということにしかならない。他に関わっている人が皆、不可抗力でのっぴきならない状況に置かれている中で、僕だけは、自分で選択した結果として現状がある。
やる気のでない状況。グダグダの状態。これをただの災難と見て逃げるか、自分を成長させるチャンスと見て耐えて挑むか。
ライブドアとホリエモンに関してはポケーっと何も考えず礼賛してた(僕自身は、ルールを作る側に回って自分の都合のいいようにルールを作っていく、金のある人々も、彼らの作ったルールの網を巧みにすり抜けて金を増やしていくホリエモンのような人々も、人生ゲームの勝利者だと思っている。高潔に生きても負けは負け、汚く生きても勝ちは勝ち、と思っている)ところがあるんだけど。
彼の表面的な言葉に自分は「騙されて」いたのだろうな、と思うけれども、この「騙されて」という言葉は暗に彼に責任をなすりつけているようで好きになれない。なんていうか、こう、「見る人が見ればそれは危険極まりない濁流だというのに、目が曇って頭が茹だってそれに気付かない・気付こうともしない馬鹿な奴が、そこに勝手に身を投じて愚かにも自滅した」みたいなニュアンスでこれを言い表す言葉ってないものかな。
「信じて」だと、なんだか美しいことをしてるような言葉の響きが感じられてアレだなあ。
「盲信」というとなんだか宗教ぽい感じがするんだけどどうだろう。
「愚信」……なんて言葉は、無いか。
語彙が貧弱だとこういうときにもどかしくて困る。
僕のように、劣等感が強く、自分が劣っていると認識して落ち込む傾向のある人間は、常に自分と他人を比較している。逆方向に考えれば、こういう人間は自分が優位に立ったとき、自分が優れていると認識してうかれる傾向があると言える。自分と他人とを比較して優劣を付けなければ生きていけない、差別主義者予備軍なのだと言えるだろう。
こういう危険な人間は、劣等感を感じさせ続けることのできるような地位という牢獄に閉じこめてコントロールしておくのが、社会のためなんじゃないだろうか、そんな風に思うことが時々ある。自分が這いあがろうとすることは、社会秩序に仇なすことに繋がるんじゃないだろうか、そんな風に思うことがある。
「本質」という言葉を使うとき、僕は相当慎重になる。ある物事についての万物普遍の本質とは何であるかということを、僕は容易には口にできない。
この言葉を使うということは、自分はそこまでのことしか考えてないということを表明するということでもある。つまり安易にこの言葉を使えば、自分の底の浅さを露呈してしまうことになる。僕は、人に賢く見られたいという欲望があるので、それを非常に恐れている。使うとしても、「これこれこういう場合の本質的なもの」とか「このようなタイプにおいての本質的なもの」といった言い方をして、普遍的なものには可能な限り言及しないようにしたいと思っている。
でも、世の中実際には、そんなことは気にしないでもっと軽々しく「本質」という言葉を使っている人の方が、要領よくうまいこと生きていってるようだ。要領と人当たりの良さこそが、世渡りの本質なのかなあ(と、ここで軽々しく使ってみるテスト)。
……まあ多分に僕も「本質」という言葉を軽々しく使ってしまってるとは思うんだけどね。僕よりずっと頭のいい人から見れば、「何この底の浅い『本質』話」と笑わずにはおれんはずだ。