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ニート養成所 - Dec 26, 2006

The Goog Life:グーグルが従業員を子供扱いすることでつなぎとめている件

「子供扱い」でもまだヌルいと思う。これはアレですよ、一部の人にはおなじみのアレですよ、「ニート養成所」ですよ。追い出されたらもう生きていけない、会社が潰れても生きていけない。わらい。

実際、ほら、その、なんつうか。遅刻とかあんまりうるさく言われないと――言われても言われるだけだったら多分無意味で、具体的に何回で減俸とかの生活に影響するペナルティが無いと、結局、だらしない人はどこまでもだらしなくなっちゃうもので。服装も、私物を置くか置かないかも。何でもそう。

だから僕は自分の将来が不安になるんだな……

いつの間にかotsune氏になっていたらしい - Dec 25, 2006

import otsune from Hatena - 「id:otsune=id:C_L=むり・くりさん」ではないですよ

2006年12月25日 TransFreeBSD TransFreeBSD * id:C_Lさん中の人説。この説によればたぶん piro.sakura.ne.jp も中の人。バックには www.planetpdf.com がついている可能性も。この辺りが十数人で3交代制説の根拠かもしれない。

ちょwwwwwwwwwwww

前向き後ろ向き - Dec 24, 2006

前向きだな、とたまに言われる。ここに書いてる内容だけ見てる人には信じられないかもしれないけど、僕も信じらんないけど、実話なんだからしょうがない。

「なんだ、本質全然見えてねえのな」と少し思わなくもないけど、でも本質を見せよう見せようとせずむしろ嘘で塗り固めている自分なのであれば、よっぽど付き合いの深い人や洞察力に優れた人以外、気がつかなくて当たり前だろう。

ほんとに前向きな人は、後ろ向きと言われることはまずないだろうけど、前向きだなと言われることもあんまり無いんじゃないかという気がする。

僕は本質的に後ろ向きなのであって前向きじゃないから、少しでも前向きであらねば生きていけないと思って、努めて前向きに振る舞おうとしている。だから目に付いて、「前向きだな」と言われるんじゃないだろうか。

本当にナチュラルに前向きな人は、目に付くことがあんまり無い、本当にごく自然に前向きでいられてるんじゃないだろうか。

なんかね、嘘臭く思えちゃうんですよ。前向きに前向きに振る舞うことが。口頭でならそう振る舞えるのは、ログが残らないから。その場限りの言いっぱなしで済むから。でもここはちがう。文字情報は残る。恥ずかしくてならないから残せない、と無意識に感じてるのかもしれない。

じゃあ思慮深くて色々考察できるのがお前のナチュラルなのかと言われると、それも嘘っぱちのように思える。むしろ思慮が浅くてほんとはなんにも考えてないのが僕の本質だと思う。

大抵いつもその場の気分で適当に決めている。大局的に見て出費が増えるとか健康のために宜しくないからとかの理由まできちんと考えて食事を取るということもなく、ただ安いからという理由でスーパーカップ1.5(たまに2.0)で空腹を満たす、そんな昼食も平気で取る。

そんな人間性が文章にも表れていると思う。だから本当に頭が良くて賢い人が僕の書いた長文を見たら、その裏にあるただひたすらに自分を飾り立てようとする薄っぺらな虚栄心を一発で見抜いて、それ以外に何も含まれていないことまで見抜いて、軽蔑すると思う。

それでもやめないのは、何故か。

結局のところ、ここにログとして残されているのは僕が「自分はこうでありたい」「こうであって欲しい」「こうあるのがカッコイイ」と無意識のうちに思っている像を反映したものだけなのかもしれない。

匿名志向の文化のせいで被害が拡大したということはないだろうか - Dec 22, 2006

アメリカで育ってきた人とこないだ話してて、向こうとこっちとでネットに接する時の姿勢が全然違うんだなあということを思い知らされたというか何というか。

向こうでは、ネットでも発言は実名ベースで、匿名で書くことの方が少ないそうで。日本はその逆で、実名なんか書いたら何があるか分かったもんじゃないよガクガクブルブル、匿名で書くのが当たり前だしそうするべきであると親も先生もみんなが口を揃えて言っている。その人は日本でそういう「情報教育」がなされていることについて、向こうの感覚では全然ピンとこない、という風に言っていた。

それで僕はいわゆるケツ毛バーガー事件を例として挙げて、実名出すとこんなに危険なんだということが実際起こってるから仕方ないでしょう、と言ったんだけど、しかしよくよく考えてみたら、この事件の被害を深刻化させた一因にはもしかして、日本のネットの文化の匿名志向の強さがあるんじゃあないだろうか? と思えてきた。

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嬉しい記憶を忘れてしまうこと - Dec 21, 2006

いついかなる時でも全く嬉しくないのか、と言われると、さすがにそうではないと思うんだけど。嬉しかったこと、現在進行形で嬉しいこと、考えてみればあるはずなんだけど。

でもたまに何故かヤケクソ気味に、そういうの全部すっ飛ばして「嬉しい事なんて一つも無い!」と言い放ってしまったりする。

「構って君」なだけだ、と言われてしまえばそこまでなんだけど。

ただ、そう言ってしまうときの主観では確かに、嬉しいことがあったということには目が向かないで、何故だか嫌なこと・嫌な部分だけしか見えなくなっているような気がする。

それで結果として、「俺はお前のことを高く買っていたのに、そんな俺を侮辱する気か?」と、知人友人に不快な思いをさせてしまうこともある。

他人のことに頭が回らない自己中なだけだ、と言われてしまえばそこまでなんだけど。

ぐちゃぐちゃ考えるのは余裕があるからだ、余裕があるのは本気じゃないからだ - Dec 20, 2006

いつもぐちゃぐちゃ内省してばかりの人は、それだけぐちゃぐちゃ考えるだけの余裕があるということだから、目の前の問題に本気で全力で取り組んでいない証拠。

まあ、確かに、その日その日を生きることに本当に手一杯であれば、こういうエントリを書く時間は無いはずでしょうしね。苦しい苦しい、死にたい死にたい、と「言ってる」人ほど実は大して苦しくも死にたがってもない、というアレでしょうか。

考えてるヒマがあったら手を動かせと。思考を停止しろ、考えるな、と。結果は後から付いてくるのだぞと。

すばらしい。

マイナーな趣味(絵を描くこと、XUL、etc.)にただ素直に無心で没頭してきて、結果として社会で軽んじられる存在に成り下がった(大したシェアもない開発環境に特化した技能なんて、社会的にどれだけ役に立つと言うんだ?)、付いてきた結果は全然嬉しくない物ばかり、という経過を辿った人間には、ちょっと残酷な話ではありますけどね。

まあ、そんな人にはこの言葉を贈るしかない。「運が悪かったんだ、諦めな」と。

うわあ。それ、一番言われたくない言葉だ……

報われない(なかった)努力を讃えるというのは、そういう運の悪かった負け組を、他人や自分が慰めるための欺瞞的行為、合理化の一形態でしかないのかも。と思った。

自分のする行為の価値 - Dec 19, 2006

white_cake氏のエントリのコメント欄で出張チラシの裏してしまったのでこちらに移しておくというかちゃんと書き直しておこうと思った。

成功の保証がなければ努力する気になれない、などとほざくやつは下司だ。

必ず報われることがわかっているのならば、それは努力などではなく、ただの手続きに過ぎない。報われぬかもしれない、という恐怖に耐え、それでも歯を食い縛って前に進もうとするからこそ、あのひとは美しいのだ。

この種の言説はたまに見掛けるけれども、僕はこういうことを考える時どうしても、「それもまた絶対に成功することが保証された出来レースに過ぎないのではないのか?」と思ってしまう。「成功しても失敗してもどちらでも構わない、そのために一心不乱に努力することが美しいのだから」というのなら、結局、その人にとっての「成功」の定義が「勝負に勝つこと」でも「お金を儲けること」でもなく「美しくなること」にすりかわっただけで、ともすれば「努力しさえすれば美しくなれる」と言っているのと変わらないことになるのではないか、と。

そんなこと最初から考えてやってるようなのはダメだ、邪な動機に基づいているから美しくない、と、反論される。そりゃあ、最初からそう考えてやってるのなら、ただの偽善だろう。そうではなく、本人がそれと意識していないところで、無意識の領域で、偽善をはたらいている可能性は無いと言いきれるのだろうか? 表向き「一心不乱に努力したいだけ」と言っていて、本人もそう思い込んでいて、でも実際には「一心不乱に努力している自分を外から見たときの美しさ」に酔っているだけだったりはしないだろうか? そうでないという保証はできるのか?

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おこがましい という思考停止 - Dec 18, 2006

そもそも僕が何に対しておこがましいと思ったかというと、相手の心情にズカズカと踏み込むことについてだ。言い換えれば、僕は、人が他人の信条にズカズカと踏み込むことは分を超えること、滅多にやっちゃあいけない事、タブーに近いことだと思っているということだ。

タブー視。それは思考停止ではないのか?

法やルールといった物に対する人間の精神の発達について書かれた文書を、どこかで見た気がするんだけど。確か、最初は「いけないからいけない」とか「みんながダメといってるから」といった理由でルールを守っているのが、次の段階では「法に基づいて」とかの理由に変わり、そのうち「法はただの条文でしかない、それよりも何故その法が作られたかということまで考えるべきだ」とか考えるようになる、という。赤信号の例でいえば、みんなが止まっているから止まるというのが最初の段階、交通法規を遵守しなければと思って止まるというのが次の段階、車が一台も走ってないんだったら赤信号でも渡って構わないし青信号でも絶対に安全とは限らない、となるのが最終段階、という感じ。

ここで僕は、他人の心に踏み込むことは「いけないこと」だと、教条的に考えていた。しかし哀さんは、踏み込んで相手の人生をより良く変えられるのなら踏み込んでも構わない、という立場を取っている。

という事はこれは、精神の発達の段階において哀さんの方がはるか先を行っているということではないのか?

「個人の内心に踏み込むべきではない」という考えと「個人の内心に踏み込んでもよい」という考えの「対立」なんかではなかったのではないか?

「とにかくなんだかよく分からんけど個人の内心に踏み込んじゃダメー」という風にしか言えない子供が、「内心なんて場合によってどんどん踏み込んで構わないだろ、何言ってんの?」と冷静に判断できる大人に噛み付いていただけなのではないのか?

実にカッコ悪いですね。愚かですね。

おこがましい - Dec 18, 2006

誰かのことをおこがましい、と思うことがそもそもおこがましいのかもしれない。

哀さんが他人の心情にズカズカと踏み込んで「あなたはこうするべきだ」「だが、そうしない自由もあなたにはある」「決めるのはあなただ」と啓蒙する様子を僕は、おこがましいと思った。最終決定権を相手に委ねているのだから押しつけではないだろう、と言えるかもしれないけれども、僕はそれ以前の部分、そもそもズカズカと踏み込むということ、そして本人が気付いていない問題を可視化して突きつけることが、おこがましいと感じた。

おこがましい思うということは、相手が分をわきまえていないと思うということは、「この程度」が相手には相応しい、と思うということだ。つまり相手の意志や考えに関係なく、相手を特定の型にはめて考えようとするということだ。

そんな資格が自分にあるのか? 自分の考えている物事の枠よりも、相手の器の方が大きいのではないのか? 自分が相手に対して「あいつにはこのくらいが相応しい」と思うということが、すでに自分の分を超えているのではないのか? 自分よりはるかに賢く頭の出来が優れている哀さんの考えることに僕ごときが異論を差し挟むということが、分不相応なのではないか?

ともかく、確実に言えるのは、そのように過剰に慎重にならずにはおれないほど、僕にとって「おこがましい」という言葉の持つ力は強大であるということ。それと、「おこがましい」と言われて恥じ入らない人とは価値観が合わないだろうな、ということ。

感性が極めて日本的なんでしょうね。きっと。

……というところまで考えてやっと気がついたことがあるので、それは次のエントリに分けて書く。

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