たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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最近ちょっと、「見ててムカつく」「自分を小馬鹿にしたような態度に思える」そんなブログをlivedoor Readerに登録して見てみている。なんでムカつくのか分からない、とにかく気にくわない、何かにつけて神経を逆撫でされるような感覚になる、そんなエントリばかりが連ねられていくブログを見てみたりしている。
それはべつに、マゾい理由ではなくて。僕はそこから何かを見付けたい、学び取りたい、その鏡に映し出される自分の本性を知りたいのかもしれない。何をされれば僕はムカつくのか、どうすればムカつかずに済むのか、それを正確に把握したいのではないだろうか。
自分を制御できる大人になりたくて、敢えて訓練のつもりでそうしているのかもしれない。
幸い、この世の中には僕より賢くて攻撃的な人がたくさんいる。そういう人達のエントリを読むと、劣等感を刺激されてムカつきまくって頭がカーッと熱くなってくる。そういう時が――筋肉の使いすぎで筋肉痛になるように、頭の使いすぎで知恵熱を出したりうするように、もしかしたら心が疲れきった後、傷ついた箇所を強化補修するために脳汁がドバドバ出るかも知れない。それで成長できるかもしれない。
そんなことを考えてみているのだけれども。
なんか会社のアドレス宛に「転 職 し な い か ?」メールが来た。しかも英語で。読んでみると、宴会君でアドレスを拾ったとかなんとか書いてあって、オープンソースがどうたらこうたらとも書かれてた。……機械送信のスパムではなさそうな気もするんだけど、これも広義のスパムになるのかしらん?
まあ「高度な英語力が必須よ」とか書いてあったので、いずれにしろ縁の無い話なんだけどさ。
自分よりあらゆる面で賢く優れた人が自分のすぐ隣にいて、僕は、そのことに耐えられるか?
そういう相手の代表は、「親」だろう。子供の頃、親は自分よりあらゆる面で優れた存在で、親は自分の知らないことをなんでも知っている存在だった。
そんな存在、自分が圧倒的敗北を喫する相手である「親」に対して、僕が劣等感や焦りを感じずに済むのは何故か? おそらくそれは、「自分にも追い付ける可能性」が残されていると思えるからではないかと思う。
でも、その相手に一生かかっても自分は追い付けない、ということが分かっていたとしたら、どうだろう? 例えば今自分が30歳だとして、10代のうちからヤリまくりの男には絶対に追い付けない。「おととい来やがれ」は実現不可能だからだ。
勝てる可能性がないからこそ、劣等感を感じるし、焦る。焦るというか、恐怖する。こいつは自分の存在意義を脅かす者だ、と思って、いてもたってもいられなくなる。そして排斥しようとする。己の矮小な自尊心が隷属することを許さないから、その屈辱に耐えられる強靭な精神を持ち合わせていないから、拒絶する。
でも、そうできない相手もある。拒絶するに拒絶できない、色んな事情でそうせざるを得ない相手というものがある。
そのうちに僕は、耐え切れず、隷属を選ぶようになる。
同じ言葉の指し示す物が文脈によって変わるということはよくある。先のエントリは「無難」という言葉の持つ二つの意味に着目してみた。
特定の文脈にどっぷり浸かっていると、他の文脈でもその言葉が使われ得るということに、気付けなくなってしまうこともある。「特定の文脈」が「当り前」であると思ってしまうこともある。「無難」はオシャレの分からない人間は「オールマイティ」の意味であるとしか思えず、オシャレの分かる人間には「素材をそのまま使う高度なテクニック」の意味であるとしか思えない、という風に(オシャレの分かる人が本当にそういう思い込みに囚われているかどうかは知らない。おそらくは僕の勝手な妄想だろう)。
「わたおに」と聞いても「わたしのおにいちゃん」の略としか思えない人間は、萌えオタの世界・文脈にドップリ浸りすぎて、一般常識から解離してしまっているということですね。そしてそれは僕の事ですね。さらに言うとネタが古すぎですね。いろんな意味でもう終わってますね(僕が)。
軽蔑の対象に出会った時の反応について。
自分自身が実名もしくはそれに準ずる評価のある特定の活動名において発言するかどうか。
相手を名指しするかどうか。
内容が論理的に筋が通っていて正当か、それともただ感情に任せただけのものか。
口汚く罵るか、やさしく言い含めるか、無視するか。
はてなブックマークでのコメントにも責任を持てでとりあげられている事例のような例を見るにつけ、性善説に基づいて作られたシステムほど脆弱な物はないなあ、とか、そのようなシステムがあれば必ず最悪の使い方に落ち着いてしまう人類とは実に醜い種であるなあ、とか思う。
僕の目には世界はそういう風に見える。だから、性善説の人に見えている世界と僕の見えている世界とはおそらく全然違う物なのだと思う。そのような人に「なんでそう悲観的に考えるわけ? それはおかしいよ」と言われても、こっちにしてみれば「いやいや君の方がおかしいよ。なんでそうも非現実的な楽観的な予想をするわけ?」ということにしかならないわけで、永遠の平行線だ。
見て不愉快になる物は見なければいい、と人は言う。例えば自分に対する陰口が書かれた匿名掲示板。例えば自分に向けた悪意が積み重ねられているソーシャルブックマーク。自分の目に入るところにそれを入れなければいい、そう言う人は多い。中にはシステム的にそれをやってしまう人もいる。リンク先のさとうさんはそういう人のようだ。
しかしそれができない心の弱い人もいる。僕はそういう人間だ。
自分に向けられた悪意の具体的な姿を一度も知らなければ、それが存在することなど思いもしないで、幸せに生きていけるのかも知れない。でも、一度でも知ってしまったら、それが種となって、不安はどこまでも成長していく。気分をゼロから1に変えるのは大変だけれども、1から100にも1000にも増幅するのはたやすい。一度不安の種が蒔かれたら、たちまちそれが心の中全てを埋め尽くしてしまうほどに生長する。
だから僕のような人間は必死になって、1や100や1000あるものを0に戻そうとする。唯一絶対の答えを解き明かして前提から否定しようとしたり、不安の種の温床を消し去ろうとしたり、異常な反応を示す。平たく言えば、簡単に釣られる。誰が釣り糸を垂らしてもガンガン食いつく、入れ食い状態。時には数十・数百もの釣り糸を口から生やして無様な姿を晒したりもする。
不安を増大させる係数が無駄に大きいんだ。普通の人より加速度的に早く不安が増大するんだ。
まるでガソリンのように、一度火が付いたら爆発するまで燃えさかってしまうんだ。
そういう病気なんです、多分。
11ページあったものをどうにかして10ページに収めて著者校正を返した直後に、ページが9ページしか確保できなかったんでもう1ページ削れとのお達しが。
あちこちを削ったり図版を減らしたりという手もあるんだけど、可逆圧縮で限界まで圧縮したところをさらに削るわけだから、もはやここから先は非可逆圧縮の世界になってしまうわけで、どうせ非可逆にするんだったらあちこち少しずつ欠落させるよりはごっそり一カ所欠落の方がまだ他の部分を大事にできるだろうと思って、大きなネタを一つ削る方向でどうかと打診してみた。次回にその内容を持ち越せればいいんだけど、持ち越せなかったらどうしよう。
まあ、可逆圧縮で残した部分も大して質は高くないんですがね! あ、それでページ数減ったのかな……