たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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Twitter / Nishio Taizo: 当たり前のことをもっともらしく語って悦に入ってる人って何なの?バカなの?
inumashさん宅で「帰る場所」云々の話がでてた時に僕が何とも言えない感覚になったのは、こういうことだ。HTMLもCSSも今や「当たり前」になった。Webで何かするなら常識と言っていいものに、すっかりなった。偉そうに語れる余地はもうどこにもない。語っても「何なの?バカなの?死ぬなの?」と言われるのがオチだ。
世のため人のためには、そうなることがよいことだと思っていたはずなのに、いざそうなってしまったら自分の居場所がなくなってしまった。
「常識」になる事があり得ない芸術・文化方面の事が、活動のホーム、心の拠り所、アイデンティティのベースになっている人は幸せだと思う。
inumashさん宅で話していた時に、「好きな絵師はいないのか?」という話になった。
絵描きの人のプロフィールを見るとよく「好きなイラストレーター」という項目がある気がするけど、僕にはそういうのがあまりない気がする。強いて名前を挙げるとしたら、カトキハジメ氏(GUNDAM FIX)、天野こずえ氏(ARIA)、西E田氏(ANAフィギュアコレクション等)、あたりになるだろうか。あとコミックLOの表紙画集も買ったからたかみち氏も名前を挙げていいかもだけど……それ以上はもう、パッとは名前が出てこない。
ていうか正直、僕の目から見たら、世の中には上手な絵師が多すぎる。一定の水準を超えてしまってそこから先は全部「上手」以上の事を認識できない。
で、その場でjunkMAさんが検索してくれて天野こずえのイラストを見たパンチさん(だったと思う)は、率直な感想として、そんな言うほど上手じゃないじゃん的な事を言っていたと思う。
まあ確かに技巧的にはそうかもとは思う。例えば白亜右月とか村田蓮爾とか、凝ってて圧倒的で上手な絵の人は沢山いるし(この2人の名前を出した事に他意はなく、単に自分が「絵が上手だと認識してるけど前述の場面で名前が出てこなかった例」として思いついただけ)。
上手い絵・自分好みの絵を探していてそこにたどり着いたと言うよりは、例えばカトキハジメであれば昔本で見た1/35ガンダムVer.kaのガレージキットとか1/144 HG ガンダムの説明書のイラストとか、天野こずえであれば当時の新連載だった浪漫倶楽部とか、絵そのもの以外のそれを取り巻く状況、文脈のような物まで含めて、前述の人達の名前が頭に残っているのだと思う。実物のHGガンダムのクラシックなシルエットと説明書のイラストとのあまりのギャップにショックを受けたとか、ウェポンコンテナが主張するデンドロビウムの圧倒的な火力にワクワクしたとか、「カトリセンコウ」というあんまりにあんまりなキャラ名だとか、浪漫倶楽部部長の切ない恋だとか、そういう物とセットで記憶に残っている。そういう文脈無しに1枚だけ抜群に上手い絵を見ても印象に残っていないという気がする。
というあたりが、僕の審美眼の無さと、その時その時の独りよがりな感情に流される薄っぺらさ・短絡さの現れなんですかね。
republic1963さん送別会の時の話の流れで今更アカウント作った。めんどいから色々デフォのままです。
今の所、投稿経路はTwitterIrcGateway(使い方説明)+LimeChat2とFirefoxのWeb検索バー。検索バーの方は、スマートキーワードで投稿できるようにするブックマークレットをセカンドサーチの機能で検索エンジンの1つとして利用してる。(しかし検索結果をタブで開くようにしていると毎回タブが開かれてしまう。これはjavascript:なURIを特別扱いするようにしていなかったセカンドサーチ側の問題。次版で直す。)
wrong, rogue and booklog - 風俗説教型ビジネスモデル
海外に永住したり、長く住んで生活を営んでいたりする海外脱出組の日本人が、日本語で書籍やブログを書くケースが最近は多い。もちろん日本に住民票がないから税金も納めてないし、参政権さえろくすっぽ行使していないばかりか、持っていない場合もある。僕の身内にもそんなのが居る。
そのような書籍やブログでありがちなのは、自分が住んでいる国はこれこれこういう良いところがあるのだが、それに対して日本はそれが全くダメだと偉そうに指摘するパターンである。
ただの外国かぶれじゃないのかと思った。
という時に自分が取るべき行動で悩む。
「他人にゴチャゴチャ心配されたくない」という人であるケースを考えたら、その場合は何もしないのがベストだけど……辛いという事をわざわざ表明しているのならそれは救いを欲しているというサインだろう、と僕は妄想する。本当にその手の心配馴れ合いコメント的な反応が嫌いでたまらない人だったらそもそもそういう事を表に出さないように学習しているだろう、と僕は偏見で決めつける。
でも上記の「心配」は結局は相手のためではなく、自分自身のための物でしかない。本当に相手のためを思っているのであれば、自分がどれだけ他人から滑稽に思われようとも、相手のためになるようにだけ考えて行動しないといけないだろうし、強制されるまでもなく自然とそういう行動を取るものだろう。その場合の懸念は、鬱の人に「頑張れ」と言うような、タブーを犯していないかどうかだけであろう。
コメントで伝えるべきか、直接の連絡手段を使うべきか。1対1の通信手段で手間のかかるものである方が真心がこもっているという偏見があるから、できれば 会って話す>電話>メール>コメント という風な順位のうちなるべく高い手段を選びたい。でも過剰に真心を込めすぎるとそれはそれでストレスを与えそうだとも僕は勝手に思う。ただのネットの知り合いに、twitterで「風邪ひき中」と書いただけで自宅まで押しかけられて炊事洗濯全部やられたら、それはホラーだ。それに、家族なり恋人なり、その人にとって僕より近い存在である人よりも「出過ぎた真似」をすると、相手にとってもその家族なり恋人なりにとっても迷惑でしかないだろう、と僕は妄想する。
そういうわけで、1人にはメッセージを送り、1人にはコメントし、1人には何もせずスルーした。どうするのが僕の立場では「正解」だったのだろう。誰か教えて欲しい。
自分の場合はどうか。自分の場合はとにかく「そう思ってるのはお前だけじゃないんだよ」「その辛さは嘘じゃないよ、自分にも分かるよ」と言って貰いたい。自分が「辛さ」と思っている感情が本当に「辛さ」と呼んでいい物であると保証されたい。「そんなの辛さのうちに入らない」「そんなのただの『辛いフリ』でしかない」と言われないための裏付けが欲しい。
という夢を見た。
という風な不安、恐怖が根底にあるような気がした。
個人的な意見を「一般人」として他者を責める行為について - suVeneのアレからLatest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ - outsider reflexへ、期間をあけて2度にわたってトラックバックがあった。1度目のトラックバックは2月22日、トラックバック元エントリが書かれた日。2度目のトラックバックは4月24日。
トラックバック元サイトには4月24日付けで新しく、「何故」と問うことが無意味になる場合 - suVeneのアレというエントリが書かれていた。4月27日23時17分現在、このエントリからはこのサイトへのリンクは行われておらず、また、名指しされている箇所もないため、このエントリが自分のエントリを参照して書かれたものであるという確証はどこにもない。しかし僕は、その前後にちょうど僕が別のエントリで醜態を晒していた事と、新しく書かれたエントリの内容を勝手に結び付けて、前述の重複したトラックバックはこの新しいエントリから僕がコメント欄で醜態を晒しているエントリへのトラックバックを意図して送られた物だったのではないか、と、証拠もなく妄想した。
ここで僕に取れた選択肢はいくつかあったと思う。
僕には1か2か3の選択肢しか思い浮かばず、1の選択肢は「管理者のくせに管理してない」感を醸し出すのが嫌だったので取り得なかった。そして、相手が僕か、あるいは、僕のエントリをウォッチしていた人達に何かを伝えたいと思っているにも関わらず、単純なミスでそれが伝わらなかったのならもったいないと勝手に気を利かせて、3の選択肢を取った。
でもその行動の根拠になっているのは、あくまで、僕の勝手な妄想であり、推測による思い込みであり、客観的な根拠は全く無い。偏見だけれども、こういう行為をこそモヒカンの人は慎むのではないだろうかと僕は思っている。そして、これまた偏見だけれども、4あるいは4-1の選択を取るのが正しいモヒカンという物なのではないかとも思っている。モヒカンの人の言う所の、表出した物だけから確実に機械的に客観的に読み取れる情報だけから考えるとは、そういう事なのではないかと思っている。
真のモヒカン的には、このエントリは、「ほのめかしばかりで卑怯な皮肉エントリ」なのだろうか。それとも、「誰に対して何を言いたいのか全く意味不明な、自意識過剰の人間による独り言の妄言エントリ」なのだろうか。
話は変わるけれども、相手が書いたテキストに込められた嫌味を華麗にスルーして、書かれた内容の客観的側面だけを淡々と追及し続けられる精神力、というものに僕は憧れすら抱く。安い煽りに乗らない賢さなのか、ただ鈍感なだけなのか、いずれにしても、そのようにできれば自分もきっと気分が楽になれるのだろうにな、と思う。
ほんと思うけど、仮に僕が他の誰かで、Piroを「友達」の一人に抱えていて、Piroがいわゆる彼女募集中状態だと知ったら、その段階でもう、周囲にいる女性全員に「にげてー!!」と大声で呼びかけたい。そのくらい、今の自分の酷さがよく分かる。この状態で求めてるのってどう考えても、「自分を包み込んで癒してくれて、男性としてのアイデンティティも認めてくれる」相手でしかないよね。非モテ議論でよくいう「非モテを自称する男共が欲しがってるのは要するに『セックスさせてくれるママ』だろ」ってまさにこれだよね。
精神的には、多分今最も心が弱っていて心の支えを必要としているのだろうけれども、これにわざわざ誰かを関わらせるというのは、生贄を差し出すようなものだ。いや、生贄とすら言えない。生贄は共同体の利益のための犠牲だけど、僕なんかに犠牲を差し出して利益を得られる共同体は存在しない。良識ある人間だったら絶対に許せないだろう、こんなのに自分の身内を関わらせたくないと思うだろう。
※この日記はだいぶ前からリアル親バレしています。
統合を批判する拡張開発の人たちは、 「自分のやりたいことに何が必要なのかを考えない人は、 そもそも拡張を使うな」とどうしても厳しい目線に立ってしまう。
これはちょっと違う。使い手は使い手自身のエゴに則って好きにすればいいと思う。
僕がしてるのは、「自分が何をしたいかもちゃんとは認識できてない、『とりあえず何でもいいから便利なプラグイン教えて』と言ってしまうような人」の、行動や思想を批判する事でも、そういう人達の行動を改めさせるべく啓蒙活動する事でもなく、「そういう人達のために自分が努力する事を、やめる」「そういう人達の視界に入らない場所に自分が逃げる」って事だ。
何故そういう人の行動や思想そのものを批判や否定しないのかというと、自分自身も別の場面では「そういう人」だと自覚しているからだ。そういう人、をターゲットにアホだのマヌケだの言う自分の姿を想像すると、「こいつ自分がそうなのを棚に上げて他人の事ばっかり言ってやがるな」とあまりに滑稽すぎて恥ずかしいので、同じ事を他人から言われたくないから、そういう事をしないようにしようと思っている。
サイボウズラボで尖った事を色々やってる人達がごめんなさいと言うからジョークとして成立するけど、僕がごめんなさいと言っても「うん、ほんとそうだよね。反省しなさい。君は無能なんだから。」って感じで、何も冗談にならない。
タイトルは上記2エントリの発端である新人プログラマーがプロのプログラマーとして独り立ちするための7つの条件 - ハックルベリーに会いに行くからの引用です。