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の動向はもえじら組ブログで。
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もう使わなくなった古いPCを知り合いに譲るということで話を進めていたのだけれども、親が激しく反対しているためどうなるかわからないという状態らしい。なんでも、タダで譲るとか借りるとか買い取るとかそういうのがダメらしい。
それでふと思ったのだけれども、こういうのを断る心理というのはどういうものなのだろうか。僕の感覚では、以下のような理由しか思い浮かばない。
なお、今回だけでなく他の事でもそうらしいので、僕個人が嫌われているからという可能性は除外。
人間心理って難しいなあ。
恋愛の話の続き。
非言語的コミュニケーションの観点から脱ヲタをというものを考えてみたりとか、すっかり僕も「頑張ればモテるよ!」式の愚にも付かない空虚な慰めをする嫌な奴に成り下がってしまったと思われても仕方ないような事ばかり最近やってる気がしてしまうけれども、それは本意ではない。僕はただ、それだけが幸せであるとは思っていない。というよりも、幸せとそれとは全く別の問題なのだと思っている。
努力次第で人はいくらでも幸せに生きられると思う。何故なら、人には考える頭というものがある。自分で自分を暗示にかけることができる。他ならぬ僕自身、今までそうやって生きてきた。
「自分という個人」が幸せになれないのなら、発想を逆転すればいい。世界全体が「自分」なのである、と考えればいい。あるいは言い換えれば、「自分の価値判断」の基準を「人類」全体にまで広げればよい。そういう視点からものを見れば、「他人」の幸せも何も妬ましくなくなる。それどころか、「他人」の幸せも「自分」の枠の中での出来事なのだから、なんだって「自分の幸せ」になる。
世の中には無条件で他人の幸せを祝福できる人もいるだろうが、僕は、そういう人ではない。僕はあくまで他人を祝福しているのではなく、他人を通じて、自分を祝福しているのだ。
全てを祝福できるようになれば、もう、勝ったも同然ですよ。
そう考えるから僕は、他人の幸せを妬んでテロを起こすことには否定的だ。妬まなくてもいいじゃないか、一緒になって祝福したらいいじゃないか。自分と他人とを分け隔てて考えるから妬ましくなるんだ。ならば分け隔てなければいい。肥大化した自己愛で全てのものを包み込んでしまえば、全て自分を愛するのと同じように愛せるだろう。
思うに、人は自己愛を否定するから幸せに生きられないのではないだろうか。「そんなものに価値はない」「そんな閉塞的な考え方に未来はない」じゃあ、価値や未来を捨ててしまえばよいのではないだろうか。そもそも、価値や未来といったものはそんなに大切なのだろうか? 誰にとって大切なのだろうか? 自分にとって大切でないなら、大切にすることなんてないんじゃないのか?
幸せに生きられるかどうかなんて、きっと、そんな程度の問題。
ARIA The ANIMATION。ARIAのアニメ化の話、着々と進んでるようですね。あの空気がどこまで表現できるのかが気になるところです。
出来によってはマジでDVDとか買ってしまうかもしれん……
184 名前:('A`) 投稿日:2005/08/25(木) 19:02:54 0
「隊長ってのは一番安全な場所で指示出して、成功したら全て自分の功績だと胸を張って目立ち、
失敗したらへらへら愛想笑い浮かべながら謝りゃいーんだ」
ネトゲでのピザ友人
夏の葬列 9月2日分に転載されてた書き込みが、どっかで見た大好きなセリフだったような気がして、ぐぐりまくったり本棚眺めたりして30分ほど悩みに悩んだ末に、やっと思い出した。
昨日は、足永さんとかzoeさんとかが、Googleの中の人になった某氏(名前出してイイの?)とともに肉を食す会を催されるということで、僕もおじゃまさせていただいてました。
愉快な会社ですね。
『オタクvsサブカル』を煽ってみる - araig:netでの仮説が興味深い。曰く、自分が男であること・オスであることを、否定するのがサブカル、認める(そして開き直る)のがオタクである、と。
僕はまごう事なきオタクだけれども、男根主義が中心にあると言われるとかなり納得するところがある。ツンデレ姉萌えとか年上スキーとか言ってるし。
ただ、僕の場合はそれと平行して同時にレズスキーだったりもするので、「男根主義」がオタクとサブカルの違いだと言われると少々違和感もある。……のだけれども、僕のレズスキー趣味の根底にあるのは、男を捨て去りたい、女になりたい、という願望なのかもしれない。その場合でもやはり性的なものにこだわっていることは変わらず、つまり、男根主義がどうこうと言うよりも、これは、性的な欲求そのものについての話なのではないかと思えてきた。
女性サブカラーや女性オタクがそのあたりをどう考えているのか、興味があるなあ。
そうそう。昨日の昼の党首討論会?だっけ? BS2で生中継してた奴。一応録画しといて、昨日帰宅後にちょっとだけ見たんだけれども。
とりあえず、最初の所の見た目の印象は 小泉総裁>神崎代表>>志井委員長>>福島党首>>>岡田代表 だと思った(綿貫代表のはちゃんと見てない)。
と、今更な感想を書いてみる。
Firefox Hacksの前書きを見ていて、何故鬱になったのか。羨ましかったからだ。
日頃自虐的なことを言っていても、実際の所、僕はFirefox関係での自称「実績」に誇りのような感情を抱いていた。これだけの時間と労力を投じてきたことは伊達じゃないはずだと、自分で思いこもうとしていた。
でも、それはやはり伊達だった。あるいは、ただ時間を無駄にかけていただけで、質的には全く進歩していなかった。僕がくすぶっている一方で、こうしてブランドものの本の前書きという晴れの場所で有識者に称えられ評価されている凄い人がいるということを見て、その事を痛感させられた。
自分の仕事に、誇りを持てなくなった。
そういうことは今に始まった事じゃあないけれど。
いつもそうなんだよな。自分と、自分よりはるかに高みにいる人とを比べて、勝手に「ああ俺はなんて駄目なんだ」と考える。それが駄目なんだ。僕なんかがそんな人達に追いつけるわけないじゃあないか。それで届かなくて「やっぱリ駄目だった」なんて言うのは、高さ300メートルのバスケットゴールにシュートを決められなくて「やっぱリ僕にバスケは無理だった」とバスケ自体を諦めて、正規の高さのゴールにチャレンジすらしないようなものだ。
逃げを打つ人生なのが嫌だ。逃げを打たずに生きるのは大変なことだ。僕はたった3日ともたなかった。逃げを打たないと生きられない自分が嫌だ。