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の動向はもえじら組ブログで。
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社会問題の可視化とジェンダーより、男の身に危険が迫って初めて社会問題になるってこった。
という言葉が重く響く。リンク先では主に男女の性差別問題について言っているけれども、男女以外のことでも言えることだよなと思った(リンク先でも言及している)。つまり「偉い人」が困らない限り、その問題は無き物として扱われる、と。
本当に重大な問題は、まだ誰の目にも留まっていないところ、他人事である領域にこそあるのかもしれない。日の当たる場所で「これは俺たちの問題だ」と思ったときには時既に遅し、なのかもしれない。メディアが「これが今のブームだ!」と採り上げたときには既にブームは終了している、といったように。
まだ「他人事」である間にこそ、それが自分の領域に浸食してきたときのことを想像して、早め早めに考えなくてはいけないような気がする。そういう想像力が欠如してしまっていること、想像力を奪うような育て方を社会がしてしまうことに、恐怖を感じる。
プレステ2が思わず欲しくなってしまった。
就職してからの定期代わりに約1年ほど使ったPiTaPaが今無性に恋しい、というと大袈裟なんだけど、たった1ヶ月いただけでこっちの交通システムのウンコっぷりをうんざりする程体感させられた身として、はやいとこPiTaPaかそれと同等のサービスを首都圏でも実施してくれないかなーと思わずにはいられないのです。
そうなんだよそうなんだよ。何が悲しくてチャージなんてせんならんの? 割引があるわけでもなし、大して手間が減る訳でもなし、なんもええことあらへんがな。というのが磁気式プリペイドカードからIC式プリペイドカードへの移行を検討する人間としての素直な感覚なわけで。
プリペイド式というシステムがそもそも、人にやさしくない、機械や売り手の都合を優先した物なんじゃないかなーと僕には思える。乗り越し清算は厳しくチェックする癖に料金の取りすぎには寛容、という切符のシステムにすら不満を感じる程の「ワガママな消費者」の僕としては、そんな選択肢しか許されないこの状況に憤りを感じずにはおれんのです。ウンコだなあと僕が思うのはそこなのです。
完全なものは美しいかで言及されたことを受けて。
自分で自分の個性を個性として評価できるという事がどういう事なのか、僕にはよく分からない。
他の人についてなら、それができる。知ってる人の中でその人よりずっと技能のある人、その人よりずっと人望のある人、その人よりもカッコイイ人、その人よりもかわいい人、色々いても、その人にはその人の個性があり、それはそれだけで価値あるものだ、否定し得ないものだ、という風に思うことはある。
しかし自分のこととなるとそれができない。自分より上手い人がいる、自分より物知りな人がいる、そんな風に比較ばかりして、それはそれだけで価値あるものだと認めることがなかなかできない。
それはもしかしたら、自分自身の個性を評価された実感に乏しいからなのかもしれない。否、個性を評価され得る場から自ら逃げ続けてきていたからなのかもしれない
先日天馬氏にも指摘された、僕が何でもかんでも本音を言うということの理由。
僕は、矛盾がないことが好きだ。何もかもが明らかになって一本の筋道立った説明が付けられる状態が好きだし、そうでない状態というのは不安でならない。何かよく分からないものがあれば、名前を付けて認識可能にしなければ、怖くてたまらない。その流れで、僕は「愚かで馬鹿でかっこわるい自分、事ある毎にボロが出まくりの自分」が嫌いだし、「理論的に矛盾なく筋が通った賢くてかっこいい強固な自分、ボロの出ない自分」が好きだ。今の自分がそうであるかどうかではなく、そうありたいと思うのだ。
自分が好きな自分であるためには、ここから、二つの方向が導き出せる。一つは、本当に非の打ち所のない完璧な人間になること。もう一つは、自分の情けない面を完璧に隠して、非の打ち所のない完璧な人間を演じること。
だが、僕には後者の生き方はできないように思う。
ソフトバンクモバイル……理屈的には妥当なところだとは思うけれども感覚的には最悪なところを突いてきましたなあ。
僕が違和感を感じるのは多分、いつでもどこでも何にでも「ソフトバンク」という名前を冠してしまうその恥ずかしげの無さ、に対してなのだと思う。
いや、他の社名で同じ事をやってても必ずそう思うとは限らないんだけどね。ただ、「ソフトバンク」という名前はいかにも野暮ったい。野暮ったい名前にもかかわらず、それを連呼するのが野暮の極み。もっとスタイリッシュですっきりした名前であれば、連呼されてもここまで嫌にはならない。
livedoor Readerにも同じようなことを感じないでもないけど、使い勝手は悪くないので、使ってる。でも携帯に関しては今のプランは基本料が安い以外は何もいいことないし、そもそも自室で電波が入らないという最悪な状況なので、救いようがない。
ナンバーポータビリティが始まったら速攻で乗り換えようと思う僕なのでした。
20:00追記。ただの噂だったらしい。
18日追記。やっぱりマジだったらしい。あーあ。
今や僕には、色々な考えのメモを通じて他者を救おうとか人の役に立とうとかそういった考えはほとんど無い。ただもうひたすら、自分の記憶をデジタルメディアにコピーして保存し、自分の考えを整理し、自分にとっての「宇宙の謎」みたいなものを解き明かすこと、それが最終目的になっているような気がする。
そんな感じで、世のため人のためでもなければ、アクセス数を稼ぐためでもない、ただひたすら自己満足のためだけに書くというのが、長続きの秘訣なのかもなと思った。
友人がその筋の偉い人に「PHP勉強したいから教えて!」と言ったところ、「ハァ?」と返されてしまった、と言っていた。
プログラムの書き方というのは、習おうと思って身につくようなものではない、と思うことがある。教わるプログラミングというのは例えて言うなら辞書を見ながら学ぶ英語だ。でもプログラミングの本質はそこにはない。プログラムで最も重要なのは、語彙(関数名やメソッド名)ではなく、ものの考え方そのもの(アルゴリズム)だからだ。
プログラミングの本質とは、いかに上手くコンピュータに言うことを聞かせられるか、いかにコンピュータを説得したり宥め賺したりおだてたりできるか、いかに巧みにコンピュータとコミュニケーションを取るか、ということだと思う。
プログラムを書くということは、機械と対話するということ、コンピュータに対して自分が「これこれこうして欲しい」と思っていることを正確に教え伝えることなのだ。そしてその結果できあがるプログラムというのは、機械の世界のルールに則って再構築された「デジタル化された自分の思考パターン」に他ならない。「こういう状況になったら、俺ならこうするね」という考え方をもっと複雑に正確にコンピュータの世界の言葉に翻訳したもの、それがプログラムなのだ。
人の争い事を見てて思ったこと。
僕はバトルする事自体を楽しめる人間ではないようだ。勝てるバトル以外はしようという気になれない。バトルするとしたら、勝てると分かってる場合だけだろう。あるいは、最初から「これは自分が勝っているバトルなのだ」と確信している場合だ。バトルして勝って相手を叩きのめし完全勝利することだけが、僕にとっては楽しい。負けることを楽しめる程には、僕は人間ができていない。