たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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僕の幸福論について、益田ラヂヲ氏がこの人が非モテだった頃なら納得したかも知れない
とコメントされているのだけれども……僕はこういう事を急に言い出したわけではなく、ずっと前から思い続けて、言い続けてきたことだ。無意識的には5~6年以上前から、意識的になったのはここ数年、だろうか。
むしろ今僕は、いかにすればこの閉塞的な幸福論から一般的幸福論に思考をシフトできるのかで悩んでいる。この幸福論は、僕が独りで生きていく限りには唯一無二の道だと今でも確信しているけれども、他者の人生をそれに巻き込んだ場合の危険性も認識していて、独りでないのならこの幸福論は封印するべきだと思っている。
一歩退いてこの件を見てみると、この幸福論に納得できてしまう人は独りで生きていくことができ、納得できない人は普通の幸せを掴まずにはおれない人なのではないか、と思う。
発言者のモテ非モテの話に続く。
昨日は、しばらく出稼ぎに行かれるzoeさんの壮行会ということで肉食ってました。
zoeさんが「萌え」とはなんぞやとか「腐女子」とはなんぞやとかしきりに興味を抱いておいでのようだったので僕なりの見解をとうとうと語ってみたりしました。
僕は一体何を語っているんですか?
今年1月に買ったんだけど、フル充電してても2時間ともたなくなった感じ。そろそろ修理という名の電池交換に出すべきですかねえ。
はてダのキーワードの一部が「現代用語の基礎知識2006」に掲載されるという話。そのリストの中にカトキ立ちの5文字が燦然と……
ていうかこのキーワードがここまで注目されるに至ったのは僕の書いた例の検証&考察が発端になっているということを疑う余地はなく、率直に言うと僕にもなんかくれよ!と。カトキハジメ氏にもなんかプレゼントしたげてよ!と。
あーHGUCデンドロ早く組み立てないとなあー……
もう使わなくなった古いPCを知り合いに譲るということで話を進めていたのだけれども、親が激しく反対しているためどうなるかわからないという状態らしい。なんでも、タダで譲るとか借りるとか買い取るとかそういうのがダメらしい。
それでふと思ったのだけれども、こういうのを断る心理というのはどういうものなのだろうか。僕の感覚では、以下のような理由しか思い浮かばない。
なお、今回だけでなく他の事でもそうらしいので、僕個人が嫌われているからという可能性は除外。
人間心理って難しいなあ。
このブログ?はblosxom starter kitをベースにflavourやプラグインまわりをいじって作っているのだけれども、なぜか更新情報のRSSがはてなRSSで読み込めない。
index.rssはRSS用のflavourによって生成されるRSS形式のコンテンツなのだけれども、これを読み込ませてみると、Firefox (ライブブックマーク)もBloglinesもFEEDBRINGERもdel.icio.usも問題なくいけるのに、自分の知る限りははてなRSSでだけがこれをちゃんと読み込めないんだ……
不思議な事に、latest.rdfで登録すると今度はきちんと読み込める。なぜ? latest.rdfへのアクセスは単純に前者のパスにリダイレクトしてるだけなのに……orz
恋愛の話の続き。
非言語的コミュニケーションの観点から脱ヲタをというものを考えてみたりとか、すっかり僕も「頑張ればモテるよ!」式の愚にも付かない空虚な慰めをする嫌な奴に成り下がってしまったと思われても仕方ないような事ばかり最近やってる気がしてしまうけれども、それは本意ではない。僕はただ、それだけが幸せであるとは思っていない。というよりも、幸せとそれとは全く別の問題なのだと思っている。
努力次第で人はいくらでも幸せに生きられると思う。何故なら、人には考える頭というものがある。自分で自分を暗示にかけることができる。他ならぬ僕自身、今までそうやって生きてきた。
「自分という個人」が幸せになれないのなら、発想を逆転すればいい。世界全体が「自分」なのである、と考えればいい。あるいは言い換えれば、「自分の価値判断」の基準を「人類」全体にまで広げればよい。そういう視点からものを見れば、「他人」の幸せも何も妬ましくなくなる。それどころか、「他人」の幸せも「自分」の枠の中での出来事なのだから、なんだって「自分の幸せ」になる。
世の中には無条件で他人の幸せを祝福できる人もいるだろうが、僕は、そういう人ではない。僕はあくまで他人を祝福しているのではなく、他人を通じて、自分を祝福しているのだ。
全てを祝福できるようになれば、もう、勝ったも同然ですよ。
そう考えるから僕は、他人の幸せを妬んでテロを起こすことには否定的だ。妬まなくてもいいじゃないか、一緒になって祝福したらいいじゃないか。自分と他人とを分け隔てて考えるから妬ましくなるんだ。ならば分け隔てなければいい。肥大化した自己愛で全てのものを包み込んでしまえば、全て自分を愛するのと同じように愛せるだろう。
思うに、人は自己愛を否定するから幸せに生きられないのではないだろうか。「そんなものに価値はない」「そんな閉塞的な考え方に未来はない」じゃあ、価値や未来を捨ててしまえばよいのではないだろうか。そもそも、価値や未来といったものはそんなに大切なのだろうか? 誰にとって大切なのだろうか? 自分にとって大切でないなら、大切にすることなんてないんじゃないのか?
幸せに生きられるかどうかなんて、きっと、そんな程度の問題。
恋愛できるかどうかというのは、努力と運の両方が必要だと思う。運が足りない部分はある程度まで努力で補えると思う。でも、どちらか一方だけでどうにかなるものとは思えない。僕はここまでの所、非常な幸運に恵まれていたと思う。
いくら自分の側が努力しても、相手が見つからなければどうしようもない。相手を見つけられるかどうかは、運だろう。ただ、努力して顔を広くすると、人との出会いの機会は増える。その結果として、相手が見つかる可能性が高まるかも知れない。僕は、Webサイトの運営を続けていなければ出会えなかったろうし、今失えば、これから先どれだけ努力しようとも、こういう出会いはきっともう一生無いだろうとも思う。
ルックスは、努力ではどうにもならないものと努力次第でどうにかなるものの両方があると思う。両親共に美男美女であるとかいうのは、完全に運だ。ただ、極端な話、整形手術という手段はある。僕は小さい頃に歯列矯正を受けたけれども、これだって立派な整形だ。ファッションセンス抜群な両親の元に生まれ育つとか、そういうのは幸運だけれども、そうでなければセンスは手に入らないというものではない、努力で後からでも身につけられるものだと思う。
努力と運とは複雑に絡み合っている。そんなに世界はシンプルではない。
全盲の人は、一人だけでどれだけ努力したって、色の組み合わせのセンスを身につけることはできないと思う。けれども、色を教えてくれる晴眼者のパートナーを見つけられれば、それも可能になるかも知れない。パートナーを見つけられるかどうかは、運かも知れない。けれども、話し上手になって人脈を広げる等の努力がそれを見つけられる確率を高めるために全く無意味であるとは思えない。
幸せの話に続く。
ARIA The ANIMATION。ARIAのアニメ化の話、着々と進んでるようですね。あの空気がどこまで表現できるのかが気になるところです。
出来によってはマジでDVDとか買ってしまうかもしれん……
「異彩」としか言い様がないなあこの味は。「存在の解像度を下げる」「ジャンプで人を殺す」等の言い回しとか、絵の構図とか、オモロイわホント。今読んでる漫画の中でも明らかに飛び抜けてヘンだ。
あとドーピングコンソメスープの静注はバージニアによろしくからの引用という話は間違いないと思った。