たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
184 名前:('A`) 投稿日:2005/08/25(木) 19:02:54 0
「隊長ってのは一番安全な場所で指示出して、成功したら全て自分の功績だと胸を張って目立ち、
失敗したらへらへら愛想笑い浮かべながら謝りゃいーんだ」
ネトゲでのピザ友人
夏の葬列 9月2日分に転載されてた書き込みが、どっかで見た大好きなセリフだったような気がして、ぐぐりまくったり本棚眺めたりして30分ほど悩みに悩んだ末に、やっと思い出した。
デスノート 8(Amazon.co.jp)買った。うは! また色々起こってるな! シドウより頭の悪い僕にはもう何が何だか……
とりあえず、ニアの髪がだんだん手抜きになってってるのが注目すべきポイントと言えるだろう。あとニアが組んでたプラモはハセガワのテムジン747を見ながら描かれたに違いない。
明治セックル維新 新政府御性文録→ルサンチマンは個性ではなく…. - Kammy+'s spaceブログ版→A男さん・B男さんの話とその続きを見て。
タイトルに要約されてしまうんだけど。なんも見えてないより、下手に見えてる方が、地雷を踏んでしまうって事なんだろうなと思った。相手に対して真摯に接しているつもりでいて、A男のように「絶対」とか軽々しく言えるのは、計算高さをフル動員しているモテ男か、夢中になってて頭回ってない普通の男(盲目)かのどちらかだろう。
いわゆる喪男は他に情熱を注げる対象がないからか、とにかく自分の事だけは深く考察してる(それ以外に時間つぶしのネタがないから。これは実体験)。しかしあくまで自分という閉じた殻の中で頭を働かせているだけだから、考える材料に乏しく、偏った結論に辿り着きがちだ。故に小賢しい。
益田ラヂヲさんが 男と女の「喪」感の違いが何となく分かる
、とピックアップされていた、妄想くらいsasetekure。確かにその根底にあるものは大きく異なるようだ。
喪男と喪女の違いについて、僕の主観的な印象を表形式にまとめてみた。
昨日は、足永さんとかzoeさんとかが、Googleの中の人になった某氏(名前出してイイの?)とともに肉を食す会を催されるということで、僕もおじゃまさせていただいてました。
愉快な会社ですね。
from 夏の葬列
61 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/08/23(火) 01:06:28 0
ヲタクが恋愛に縁遠いそもそもの原因、それは顔や趣味がどうこう以前に、
ヲタクは「ホレにくい」タチというか、「自分にホレる女」が好みだからなのだ。
『オタクvsサブカル』を煽ってみる - araig:netでの仮説が興味深い。曰く、自分が男であること・オスであることを、否定するのがサブカル、認める(そして開き直る)のがオタクである、と。
僕はまごう事なきオタクだけれども、男根主義が中心にあると言われるとかなり納得するところがある。ツンデレ姉萌えとか年上スキーとか言ってるし。
ただ、僕の場合はそれと平行して同時にレズスキーだったりもするので、「男根主義」がオタクとサブカルの違いだと言われると少々違和感もある。……のだけれども、僕のレズスキー趣味の根底にあるのは、男を捨て去りたい、女になりたい、という願望なのかもしれない。その場合でもやはり性的なものにこだわっていることは変わらず、つまり、男根主義がどうこうと言うよりも、これは、性的な欲求そのものについての話なのではないかと思えてきた。
女性サブカラーや女性オタクがそのあたりをどう考えているのか、興味があるなあ。
たぶん断絶の根っこは、「コミュニケーション弱者」に対する「軽蔑の視線」を許容するのか、しないのか?ってことを見て。
軽蔑・差別をおおっぴらに許容はしたくないけど、根絶は無理かなーと思う。なぜなら自分自身、コミュニケーション能力・スペックが低い自分の事を軽蔑してしまうから。自分の中で消せないものを他人にまで求められない。
昔、小林よしのりが部落差別関係の話で「差別は喜怒哀楽と同じ、人からなくすことのできない感情だ」みたいなことを言っていた気がする。そういうものなのかなと僕も思う。
人間は(例外はあるだろうけれども、概ねは)群を作って暮らす動物だ。「群の掟に従わない者は追い出す」のも「群の中で序列を付ける」のも、群を作る動物の特徴だと言えるのではないだろうか。
人類は、ヒトという種の限界を越えられるのだろうか。そういう壮大な試みのように僕には思えてきた。
そうそう。昨日の昼の党首討論会?だっけ? BS2で生中継してた奴。一応録画しといて、昨日帰宅後にちょっとだけ見たんだけれども。
とりあえず、最初の所の見た目の印象は 小泉総裁>神崎代表>>志井委員長>>福島党首>>>岡田代表 だと思った(綿貫代表のはちゃんと見てない)。
と、今更な感想を書いてみる。
Firefox Hacksの前書きを見ていて、何故鬱になったのか。羨ましかったからだ。
日頃自虐的なことを言っていても、実際の所、僕はFirefox関係での自称「実績」に誇りのような感情を抱いていた。これだけの時間と労力を投じてきたことは伊達じゃないはずだと、自分で思いこもうとしていた。
でも、それはやはり伊達だった。あるいは、ただ時間を無駄にかけていただけで、質的には全く進歩していなかった。僕がくすぶっている一方で、こうしてブランドものの本の前書きという晴れの場所で有識者に称えられ評価されている凄い人がいるということを見て、その事を痛感させられた。
自分の仕事に、誇りを持てなくなった。
そういうことは今に始まった事じゃあないけれど。
いつもそうなんだよな。自分と、自分よりはるかに高みにいる人とを比べて、勝手に「ああ俺はなんて駄目なんだ」と考える。それが駄目なんだ。僕なんかがそんな人達に追いつけるわけないじゃあないか。それで届かなくて「やっぱリ駄目だった」なんて言うのは、高さ300メートルのバスケットゴールにシュートを決められなくて「やっぱリ僕にバスケは無理だった」とバスケ自体を諦めて、正規の高さのゴールにチャレンジすらしないようなものだ。
逃げを打つ人生なのが嫌だ。逃げを打たずに生きるのは大変なことだ。僕はたった3日ともたなかった。逃げを打たないと生きられない自分が嫌だ。