たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
GMailを本格的に使えるような態勢が着々と整いつつある。
自宅マシンのノートン先生がずっと前から死にっぱなしで、メールを受信しようとしたらすぐにccApp.exeが死んでしまい、1週間でメール受信できる日が実質2日くらいあるかないか、下手すりゃ1~2週間はメールを受信できないままっていうことすらある。マメに再起動すりゃいいんだろうけど、なかなかそうもいかないし。
で、たまに再起動直後のccApp.exeが生きてる状態でメールを受信してみれば、アレですよ。何百通というspamメールの山ですよ。それでspam受信してる間にccApp.exeがまた死んで、2つめのアカウントのメールを受信できないまま終わってしまう。もうやってらんない。
今のGMailではGMailのUIから他のPOPアカウントのメールを受信できるようになっているので、それを試してみることにした。
フィルタの設定やスレッドの表示などがいまいち慣れなくて常用にはし辛いけど、とりあえずは使えそうかな。
あと、POPでの受信についても、GMailを経由して受信すればローカルに溜まるspamが減ってくれるだろうか。
2chのあの「ひろゆき」について。
僕はこの人の写真を見る度にどうにもムカッ腹が立つ。嫌悪感を強く覚え、直視できなくなる。どうしてなんだろう。
やっかみなのかもしれない。イケメンなのが羨ましいのかもしれない。賢いのが羨ましいのかもしれない。どこだかの官僚の息子だという「選ばれし身分」なのが羨ましいのかもしれない。訴訟を起こされて敗訴しても「賠償金なんて踏み倒してイイじゃん」と平然としている事に対し、「こっちは警察コワイ裁判コワイとビクビクしてるのに何でこいつだけこんなに平然としていやがるんだ、悔しい」と感じているのかもしれない。自分が縛られている法律という手枷足枷を歯牙にもかけていないこの人間が羨ましいのかもしれない。
義憤なのかもしれない。物事を引っかき回して社会を引っかき回していながら、こうしてへらへらしている事に、憤っているのかもしれない。
怖いのかもしれない。冒頭のリンク先の記事のように、この人がパネルディスカッションなりシンポジウムなりで顔出しする時はいつも、人の期待に冷や水を浴びせるようなことばかり言っている。甘い期待だと分かっているからこそ、それを正面からばっさり一刀両断され、期待を打ち砕かれ、希望を失わされるのが、怖いのかもしれない。
また、この人がその気になったら僕のようなちっぽけな人間なんて簡単に社会的に抹殺されるかもしれない、その恐怖に怯えているのかもしれない。だから本人に言うでもなくこうして自分の日記にグチグチ書いているんだろう。
悔しいのかもしれない。こういう事を書いた所でこの人はきっと僕の事なんて屁でもないと思うに違いない、というより、気にも留めやしないだろう。人が蟻を踏み潰して気がつくか? 気がつくわけがない。彼もきっと、僕を踏みつぶした所で気がつきやしないに違いない。それが悔しい。僕を産んでくれた両親だとか育ってきた環境だとかを全否定されることが悔しい。
僕自身は絶叫マシンはあんまり興味がなくて、進んで命を危険に晒すことのリスクと爽快感なり何なりとを天秤にかけても命の方が絶対に大事(より正確に言えば、死ぬのが怖いって事なんだけど)なので、風神雷神にも乗ったことはないのだけれども、名前は知ってるし下から見上げたこともあるので、このニュースの第一報には結構驚いた。
杜撰な運営が事故の原因だったとか、運営会社が中国のディズニーパクリ遊園地と同じだとか、後から出てくる情報に「うへーマジですかー」と驚くやらウンザリするやらでした。
企業では自分の年収の3倍の利益をあげなければ雇っている意味が無い
という言葉の出自を探してググったら、利益感覚のギャップという記事に行き当たった。
ある会社員の給料が仮に16万だとしたら、会社は保険だなんだでその倍の金額、彼に対しては32万円を最終的には支払っていることになる、という話は以前聞いたことがある。前者が指す物が手取りのことなのかそれとも給与明細に書かれているところの給与の額なのかどっちのことを言ってるのかよく分からんけど、どっちだったとしても、今の僕は会社に貢献できてるのかは疑問だ……いろんな意味で。
最近は子捨てポストもとい赤ちゃんポストなんてものもあるそうだけど、望まれないで生まれた赤ちゃんは一体どこへ行くのか。生まれる前に堕胎する場合も多いだろうし、母子家庭で育てていく人もいるだろうけれども、この本はそういう行き先の中でも特に、海外への養子斡旋について追いかけたルポだ。
どこだかで見かけたこの本の書評を見るまで知らなかったけど、日本では養子斡旋についての法規制が全然進んでなくて、特に海外の養子斡旋はほとんど人身売買の様相を呈しているのだとか。斡旋するのに資格もいらず、莫大な斡旋料を要求され、斡旋の状況を国に届け出る必要もなく、国も養子斡旋には我関せずで、どこに引き取られていくのか分からず、後から情報を追うこともできず、行方不明になってしまった子供というのが多いのだとかなんとか。
これ読んで初めて知ったけど、日本国内で「第三者に養子を斡旋する仕組み」というのは無いんだそうで……里親制度という、里親として自治体に登録した人の所に孤児が預けられる制度はあっても、里親と孤児の間に法的な親子関係はなくて、双方が合意した時に里親が孤児を養子に迎え入れるケースがあるという程度なんだと。だからそういう子は施設に預けられざるを得ず、「施設に入れるより海外の裕福な家庭で育てられた方が子供のため」という斡旋業者の言い分が説得力を持ってしまうんだとか。
ていうか何で僕なんかがこんな本を読もうと思ったのかというと、エロ同人誌描いたりとかするくらいにエロに対して異常なまでに関心の高い廃人だから、テメエこういう事まで全部分かった上でエロを求めてんだろうな? あぁ? みたいな天からの声に責め苛まれて、これを読んで「こういう問題にも関心があるんですよーただ単にエロいだけじゃないんですよー」というエクスキューズにしたかったからなんだろうな。
マジレスするとSEOなんて意識してやったことないんですけどね。いくつかのキーワード(サイト名や自分の名前)で検索すると確かに上位に出るけど、それはなんというか、他の人が扱ってない事柄について一次情報を公開していて、二次以降の情報を公開する人がいないからでしかないんじゃないのか、という気がする。
とある便利な機能について、その作者がFirefox用の拡張機能として実装して実験した後、デスクトップアプリケーションとして作り直して正式リリースしようとしている件について、「今時デスクトップアプリケーションなんて誰も使わないよ」とコメントされたそうだ。今のこの状況で全く同感だ、とまで言い切る自信は僕には無いけど、なんとなく、そういう方向になりそうだなあとは思う。
僕自身は、絵の編集やなんかは気が済むまで時間をかけてじっくりやりたいタイプなんで、ちゃんと作りこまれたデスクトップアプリケーションが無いとお話にならない。だからWebベースの物に完全にスイッチするという姿を想像し辛い。でも、そこまでのこだわりを持っていない人は――もしくは、僕と違う所にこだわりのポイントを持っている人は、お絵描きチャットやお絵描き掲示板のJavaアプレットで十分満足している場合もあるようだ。「ふたば」とかの盛り上がりっぷりを見るとそれがよく分かる。スピーディーにたくさんの作品を発表するスタイルには、あの形式がとてもよくマッチしている気がする。
ただ、新しく何かを始めるにあたって、Webベースで、あるいは普段使っているブラウザの中でそれを実現できる手段があるのなら、それで満足してしまう可能性はある。僕自身、初めて触ったお絵描きツールがオンラインの物であったら、それに特化した制作スタイルになっていたかもしれない。僕がオフラインでの制作に拘り続けているのは、絵を描くという事に関してネットに触れる前に制作スタイルを確立してしまったからなのかもしれない。
ネットに触れるようになってから始めた事について振り返ってみると、自分自身、今ではオンラインのサービスに頼りきって生活している。巡回はlivedoor Readerにほぼ統一してしまったし、英和・和英辞書検索も英辞郎ばっかりだし、テキスト翻訳もそう。乗り換え案内も地図検索も全部オンラインだ。
オンラインのサービスなら特に何も考えなくてもフロントエンド・データベースともに最新の状態が保たれているだろうし、というのも、オンラインべったりになっている大きな理由だ。同じ理由で、少なくとも、自動アップデート機能を備えていないデスクトップアプリよりは、自動アップデートの可能なFirefox拡張機能の方が、その点において僕には魅力的だ。
今敢えて「XUL Runner」というデスクトップアプリ専用のランタイムを開発することに注力するメリットは薄いと思う。MozillaがFirefoxだけに注力するという判断をしたのなら、それはやっぱり正しいことなのかもしれない。XUL Runnerよりは、Firefox Mobileとでも言えるような仕組みを実用的な速度で動くように作ることの方が、よっぽど現実的(実現可能性が高いという意味ではなく、成功可能性が高いという意味で)だと思う。