たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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通勤途中の北新地駅の地下道で開催されてるヒューマンアカデミー(専門学校)の卒業制作展をちょっと見てきた。
建築とかデザインとかイラストとか色々あったけど、マンガカレッジのマンガは結構見物だった。僕の見た中では「4コママンガ」と題された作品と「おとなさがし」という作品が面白かったと思う。前者はギャグセンスがいい。後者は内容としては平凡だと思うけどテーマが僕の心情にすごくマッチしたので。
Webでの自分語りって、ナルシシストや自己顕示欲の強い人間にとっては結構アリな手段のような気がする。
べつに何十万とアクセス数を稼ぐということではなくて、自分の発した情報を永劫に遺す(それは究極の自己愛の一つの形ではないだろうか)ことが可能なように思えるという意味で。形のあるデータとして遺らなくても、記憶には残るかもしれないし。
そういう意味でもっと有効なのは、今だったら、Winnyネットワーク上に自分の情報を放流することだろうか。
僕がわりかし何でもかんでもここで書いてしまっているのは、以前にも書いたけど、これを自分の人生の足跡にしたいから・自分の頭の中にある可能な限り多くの情報を書き付けて「自分の存在」をWeb上に移植したいからというところが結構ある。単に気が向くからやってるだけというところも、他人の役に立てたいからというところも、あるんだけれども。
問題は、本当にこれで自分という存在の痕跡を遺せるのか? という点なんだな。
冬コミで出した本のとらのあな委託分が完売したよ! といっても、委託分は75冊だったんだけど。
ともかくこれで、身内分などを差し引いて、300部強が出た計算になりますね。いやあ、これは快挙だ。ご覧下さった皆さん、本当にありがとうございます。
自分がプロデュースした物が認められるのって、素直に嬉しいわ。でも元はといえば、ふぉくす子とさんだば子をデザインされたいぬねさんや、ご協力いただいた皆さんのお陰に依るところが大きいわけで(特にいぬねさん)。みんなありがとう! みんなおめでとう!
怒りを感じたら、まずは「自分は怒りを感じたのだ」と、腹に落とす。その後、何故怒ったのか、怒りの原因は何なのか、その原因はどうすれば取り除けるのか、それを考える。そして原因を自分の内に見つける。自分の外は自分の意志では動かせないが、自分の内は動かせる。そうして、自分の内にある原因を取り除く。結果、怒りは鎮まる。
これが自分なりの、感情のコントロール方法なのだと思っている。そういったことができるうちは、まだ、冷静と言えるのだと思う。
逆に、感情にまかせて――感情に流されているうちは、冷静ではないのだと思う。脳のCPU資源を100%そのことに費やすから、他のことなんて考えられない。熱くなって、周りが見えなくなる。そして醜態をさらす。
脳のCPU資源を100%感情に費やすことは、その感情に非常に真摯に向き合うということなのかもしれない。ほんの少しの割合でもその資源を、感情を分析することに費やすというのは、感情に対して失礼なことなのかもしれない。
逆に、脳のCPU資源資源を100%感情に費やすことは、自分に対して、他のこともできる可能性を秘めている自分の脳のCPU資源に対して、失礼なことなのかもしれない。その何割かでも、別のことに費やすのは、自分に対して真摯に接するということなのかもしれない。
本当は脳のCPU資源を100%それに使わなくても良いようなことに、例えば30%しか使わないでも良いようなことにむりやり100%を割り当てて、本来であれば70%を使って考えるはずだったであろうことを頭の中から追いやり、3倍以上「薄まった」その感情に脳のCPU資源を全て費やすというのは、自分に対しても、その感情に対しても、失礼なことなのではないかと思う。また、脳のCPU資源を120%使い切ってしまいかねないような大きな感情を、脳のCPU資源を100%使って受け止めるというのは、感情に対しても自分に対しても、真摯に向き合っているのではないかと思う。
リソースを有効に活用することが、一番良いことなのだと、僕は無邪気に考えるのですよ。
ただ、脳のCPU資源を100%全て費やしてない感情によって相手に接することが真摯なのかどうかという、別の問題もあったりして……。
より正確に言うなら、「バッテリー交換プログラムに則って丸ごと新品と交換され、元の品と同じパーソナライズが施されたiPod miniが届いた」ということで。
真琴さんが、バッテリー交換で丸ごと交換なら本体自体が第1世代iPod mini(電池の持ちが悪い)から第2世代iPod mini(電池の持ちが格段に良い)にアップグレードされたりはしないだろうか? ということを気にされていたので一応詳しく調べてみた。
本体の「設定」→「情報」でソフトウェアのバージョンやハードウェアのモデル番号が表示されるんだけれども、それによると、このハードウェアのモデル番号は「P9160J」。買ったときの箱に書かれていたモデル番号は「M9160J/A」で、世代別モデルナンバー比較表によると、これは第1世代iPod mini(Silver/4GB)のモデル番号だそうだ。第2世代iPod miniのSilver/4GBならM9800J/Aということなので、バッテリー交換でも本体はちゃんと第1世代のものが帰ってくるということが分かりましたとさ。めでたしめでたし。
うーん……交換が終わったコレは誰かに譲って、iPod nanoを買うべきだろうか……?
ふと思ったんだけど。
眼鏡かけてるからといって知的とは限らず、のび太のように頭が悪くて且つ眼鏡かけてるという例もあるので、「眼鏡=知的」というイメージは成り立たないと言っていいと思う。
しかしながら、「眼鏡=理性的」というイメージについては成り立ちうるのではないだろうか。
眼鏡を常時かけている人なら分かると思うけど、眼鏡をかけた状態というのは結構気を遣う。そのまま横向きに寝転がろうとすると眼鏡が歪むし、かけたままボール遊びをすれば顔面に着弾した時に眼鏡が歪むし、といった具合で、常に眼鏡の存在を意識し、眼鏡に配慮した行動を取らなくてはならない。よって、常時眼鏡をかけたまま過ごしている人は、眼鏡を正常に保ちつづけながら生活できるだけの理性を兼ね備えているということが窺い知れると言えないだろうか。
……いや、ただのこじつけですよ。妄想ですよ。
小さい頃、ラブコメもの(これってもう死語かね?)の漫画とかで、主人公の男がデートの計画を綿密に立てているとかそういうシーンを見て、「馬鹿でー」と思っていた僕がいる。しかし、生まれてから22年と11ヶ月、そんなシチュエーションにすら直面できなかった僕がいる。
今、いざ自分がそういう機会に恵まれてみると、そうしたがった「彼」の気持ちがよく分かる。それがほほえましい笑いのネタとして世間に受け入れられる理由が理解できる。
そんな僕が今物を調べるのに使っているのは、GoogleだったりGoogleローカルだったりマピオンだったりして、僕は最初からこういう便利なツールを使って色々することができて、よい時代に生まれたものなのだなあと思ったりとか、こういう物がない時代に恋愛とか色々なことをしていた人達は大変だったのだなあと思ったりとか、でもそういう大変な時代(つまり僕が青春真っ盛りだった頃)に恋愛を体験できなかったのは悔しくそしてやるせないことだなあと思ったりとかした。
そして。こんな些細なこと一つとっても劣等感とか焦燥感とかそういったものが抜けきらない自分が、実に哀れに思えるのです。
iPod miniの電池交換完了の連絡が来た……って要するに代替品が準備できたって事なんだけど(iPodは電池交換だけでもまるごと新品に交換するのがデフォだそうで。回収された古いiPodはどうなるのかしらん?)。
パーソナライズがあるから、到着までにはまだもうちょっとかかるらしい。
バレンタインデーについて、欧米とかでは、「女が男に」「チョコレートを渡す」という縛りなんかなくて、男でも女でも好きな人にプレゼントをするとかなんとかいう話を聞いた気がする。
だからというわけでもないんだけど、誰かくれないかなーと口をポカーンと開けて待ってアホ面晒すくらいなら、むしろこっちからプレゼントばらまいてやるぜご奉仕させやがれくらいの心持ちで挑むのが、今の僕の方針と言えるかもしれない。「貰えない」ことによる性根の歪みも、行き着くところまで行けば、世のため人のためになったりすると言えなくもないかもしれない。