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漫画家志望のとある友人は、現在、プロの作家さんの元でアシスタントをしながらプロデビュー目指して修行中だという。
とある後輩は、某誌の新人賞で入選したとかで、今もおそらくプロを目指して日々を送っていることと思う。
そんな彼らがこんな地獄のような業界に飛び込んでいくのかと思うと、恐ろしさのあまり引き留めたくなる。
尤も、僕も人の事を心配する暇などありはしないのだけれども。
冬コミ前後から正月までの間にモヤモヤ考えてたことを出し尽くしてしばし呆然としてみる。
で、思ったこと。
頭ん中で考えてる間は「俺って今すんげえイイ事言ってね?!」と舞い上がってても、実際に出力すると「あれ……僕の言葉ってこんなにショボかった?」となるものだなあ。
実際に作品を作らず「頭の中では超大作の構想を練ってるんだぜ」とか言ってる人って、大抵アテにならないよね。
こういうこと、前にも書いた気がするなあ。
実名もしくはその人格を特定するIDとして機能する名前のもとに行動することは、それだけでリスクになる。何か馬鹿な事をすれば、過去に築き上げてきた信頼の全てを失うことになる。後からいいことをしても、過去の失言・失敗を蒸し返され、信頼を築くチャンスを奪われる。名前と発言とを結び付けて生きることは、自分の弱味を晒すということである。
匿名で行動することは、それらのリスクから逃れるもっとも手軽な手段だ。ID名付きで何もしないで、匿名でだけ行動すると、信頼が築かれID名に紐付けられることはなくなってしまうが、その代わり失う物もなくなる。失う物がないのは、守る物がないのは、ある意味最強だ。
最強の武器を自らかなぐり捨てて、ID名のもとに良い発言も悪い発言も継続して行い続けている人は、勇気ある人として尊敬に値するのではないかと、僕は思う。
まあ、そのあたりの事が分かっていない、あるいは分かったふりをしているだけの、ただの馬鹿なのかもしれないけど。僕みたいな。
もし多くのアメリカ人が本当に「ユニークさ」を重視していてやたら自信たっぷりなのであるとすれば、ユニークさを重視することと自信たっぷりであることの間には関係があるのではないかと思うようになってきた。というか、自分自身がそう思うようになりつつある。
ユニークというのは、ここでは「面白い」とかそういう意味合いではなくて、「一意な」という意味ね。
これは思いつきで書いているだけだけれども、いつでも何でもユニークであることを指向する、ユニークな生き方をすることを心がけると、その生き方の足跡自体が強固なアイデンティティになり、無根拠な自信すなわち自尊心が育つのではないだろうか。
ユニークであることを指向しないということは、誰かの後追いだとか、同じ生き方を踏襲するとか、そういうことになる。他の人と同じようなルートを通るということは、そのルートの通り方の巧みさを比較することができる。順位を付けることができてしまう。「今の自分の順位が上位であること」を自分自身の拠り所にしたとしても、その順位から転落する可能性は常につきまとう。下位に転落した瞬間にアイデンティティを喪失してしまうことになる。また、常に他人と比べられ、追い越され追い抜かれる恐怖に怯え続けることになる。
ユニークな生き方というものを考えると、その恐怖から解放される。なぜならユニークな足取りというものは、誰もマネできない(しない)から誰とも比べられない。誰にも「勝てる」ことがない代わりに、「追い抜かれる」心配もない。
それ故に、ユニークな人生経験を持つ人は、無根拠な自信に満ちあふれるようになるのではないだろうか? または、自分に自信がない人は、安全で無難な選択をしがちだと思うけれども、そこで敢えて冒険的な選択をすることで、コンプレックスから解放され、自信を身に着けられるようになるのではないだろうか?
あるいは。今の自分の人生が十分にユニークであるということに気づく、もしくは、ユニークな人生であると考えるようになれば、自信を持てるようになるのではないだろうか?
僕が最近、何かとネタ人生を突き進もうとしたり、チャンスと見れば特攻したりしているのは、そのせいなのかもしれない。
ここまでのまとめ。
んで、今日、その著者の方とお会いしてきましたよ。「変身」決行の前の打ち合わせということで。
色々興味深い話が聞けたと思う。特に口止めされてなかったから暴露しちゃいますよ?(鬼)
僕は僕でまた思いつきで色々ベラベラと。
異なる世界の人と話すと、今までハッキリとは見えていなかったことや、確信を持てなかったことに、確信めいたものを持てるようになってきたりする。
まあ会って話して思ったのは、氏のあのノリは悪意と言うよりは、ヲタに対する無知故のただの無神経(←暴言)。例えるなら「パワフルなかーちゃん」的な印象を受けました(←失礼)。
見方を変えれば、ヲタがあまりに神経質すぎるとも言えるかもしれない。
上に書いた「タブー」に無意識のうちに触れてしまいかねないのが、価値観の異なる人同士のコミュニケーションの難しさですね。しかしそこに拘泥してても建設的な話にはならんでしょう、と、僕は思います。
決行の日へ続く。
広く浅くがモットーです。嘘です。極める集中力と持続力が無いだけです。
まあ、こんなにわかファンが多数発生するせいで一時的にでもそれ関係の需要が伸びて結果的にはその分野の金の流れや人の流れが潤うんだったら、大目に見てくれると嬉しいです……
昨日友人の言で初めて気づいたこと。
ベジータはツンデレ。
「お、俺は別にお前を助けたい訳じゃないぞっ! お前を倒すのは俺だっていうだけなんだからなっ!!(頬を染めながら)」
萌えますか?
Kammy+氏の別のエントリに寄せられたコメントを見ていて気づいたが、嫌悪と恐怖を明確に区別したがる人がいるようだ。だが僕は、嫌悪と恐怖、嫌悪と軽蔑は、どれも同質の感情ではないかと思う。
「恐怖」とは、嫌悪の対象を己の力では退けることができない時、嫌悪の対象が己よりも格上である時に抱く感情だ。「軽蔑」とは、嫌悪の対象が己よりも格下である時に抱く感情だ。恐怖と軽蔑は、己と嫌悪の対象との力関係によって分かれるものでしかない。と、僕は考える。
ファッションについて無知な人間がファッションに関わろうとする時、ファッションについて無知な人間は、ファッションに詳しい人間に比べ、少なくとも知識・経験面においては絶対的な弱者だ。ファッションに力を注ぐことを嫌悪する人間がファッションに挑戦しようとするときに、この力関係を意識して感じる不快感は、恐怖と呼んで差し支えないのではなかろうか。
そして、これを恐怖と認めようとしない行動は、防衛機制の「代償」に該当するのではないだろうか。