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883 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/09/23(金) 01:01:19 0
悪いが俺はDQNが生み捨てたガキなんぞ、金もらっても育てる気ないな。
孤児の身の上には同情するが、せいぜい親を反面教師にして、
真人間に育ってくれることを祈るだけだ。
884 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/09/23(金) 01:02:57 0
子供は親とは関係無い、という俺は少し子供に甘すぎるだろうか。
その親は今すぐ死ぬべきだが、子供に罪は無い。
886 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/09/23(金) 01:05:11 0
>>883
激しく同意なわけだが、もし「こいつは俺か?」っていうくらい、
自分が小さかった頃を思い出させるような子供がいたら、俺はわからんな。
人間の価値は遺伝情報よりも、後天的に形成される人格にあると信じたい。
887 名前:嵐商事 ◆cDQE7L84QY 本日のレス 投稿日:2005/09/23(金) 01:07:23 0
>>884殿
貴殿の教育しだいでありましょうが、大概は「蛙の子は蛙」ですぞ。
蛙の遺伝子を受け継いだ者を完璧に非モテ化させること、DQNの遺伝子を受け継いだ者に惨めな人生を送らせることが、DQNに対する何よりの復讐になるのではないか、と思った。
ネタじゃなく結構マジで。
でも、DQNってそもそも自分の遺伝子を受け継いだ子供が不幸せになろうとどうなろうと構わないっていう人のことでもあるからなあ。
かといって放っとけばDQNの再生産にしかならんし。
つまり、こうだ。DQNの遺伝子を受け継いだ者を、どうにかして政治家とか弁護士とかにならせて、世の中をDQNの住みづらいものに変えていくこと。これなら復讐になる。うん。
「あなたに必要なのは、諦めることだ」という解決策の提示。短期的に解決することを目指して焦るのではなく、敢えて問題を棚上げし長期化させることによって、短期的なストレスを解消する。これも有効な解決策だ。
テロを伴う非モテ活動の「解決策」としてのまずさはここにある。活動そのものが、自らのストレスを増大する方向にしか働き得ないからだ。ということは、これが解決策として有効なのは、自分自身が「ストレスを感じることがストレス解消」という人間であるタイプ、ぶっちゃけていえば、マゾヒストである場合だけだと言えるのではないかと思う。
結局、非モテを取り巻く世界も、非モテの人自身も、臆病すぎるんじゃないのか。今までの価値観と違うものを受け入れる事への不安、今までの自分が失われてしまう事への恐怖。だから過剰反応して、非モテイジメに走ったり非モテのテロなんてことをしてしまう。どうしてそこまで頑なにならなくてはならないのだろう。
というか益田ラヂヲ氏の考えがますます一層分からなくなってきた。
詰まるところテロに走るというのは、お互いもはや理解し合うことはできないという大前提のもと、ただただ自分の気晴らしのためだけに報復するということに他ならない。
ところが氏は一方で、自分が愛されることも望んでいるという。テロをしながら愛されたいというのは矛盾している。自分に対して殴りかかってくるような人にどうして仲良くできる? 自分の知り合いに対して刃を向けるような人とどうして仲良くできる?
これを矛盾と捉えるのは、僕が、「テロに走る氏」と「愛されたいと願う氏」が一つの人格であると考えているせいだろうか。つまり、氏にとっては「愛されたいと願う氏」がリアルの人格であって、「テロに走る氏」というのはただのネタ人格、ということなのだろうか。そう考えると全てが腑に落ちる。確かに氏は実名も顔写真も晒しておらず、いつでもこれを「ネタ人格」として切り捨てて社会復帰を果たせる状態だからだ。
それに比べ、僕は実名も勤務先もこれまでの自分の活動そのものも全て晒しており、今更これらを「ネタ人格」と切り捨てることなどできはしない。ここにあるものが全て素の僕だ。だから僕は何に対してもガチンコ勝負でぶつかるしかない。「ネタですから」と逃れることができないし、許されない。
僕には、一つの名前において発言することは全体として筋が通っているのが自然だという思いがあり、誰も彼も自然にそういう状態を目指すものであるはずだという思い込みがある。これはおそらく「問題解決」について少々学んだ事があるためだろう。
「問題解決」。望む姿と現在の自分の姿とが一致していないときに感じるギャップを「問題」と定義し、そのギャップを埋めるかなくす事すなわち「解決」の方法を考え実践する、ある意味では、自己満足を最大化するためのメソッドだ。問題解決では、自分の理想はどうなのか、それに対して現状はどうなのか、その間にはどのようなギャップがあるのか、すなわち「何が問題なのか」を認識することが、最も重要な出発点だ。だからいわゆる「非モテ」は、すでに問題解決の最初のステージに立っていると言うことができる。そこまで状況が見えているのなら、あとはその「問題」をいかにして「解決」するかだけが問題だと言っていい。
問題解決の文脈における「解決」とは、文字通り「正面からぶつかって問題を解くこと」だけを言うのではない。「どうせあれは酸っぱいブドウだったんだ」と自分を諦めさせることも「解決」だし、「モテないことが何だ、俺はこの分野では誰にも負けない実績があるんだ」と他のことに走るのも「解決」だ。
何が「問題」であるか見えていて(自分という人格の承認が得られていないこと)、それに対して何が「解決」の道であるかも見えている(承認を得ること、承認は必要ないと考えを改めること、など)、にもかかわらず、問題を解決する方向ではない方向の言説ばかりが目立つ(承認を求めながら、承認を否定する)。問題を解決しようという意識が窺えないのが、どうやら、僕が氏の言説に対して抱いた違和感の正体のようだ。
あるいは、もしかしたら、これが氏にとっての「解決」なのかもしれない。問題を解決せず敢えて棚上げすることによって、非モテ活動家というポジションを手に入れ、一目置かれる、自分の置かれた状況そのものを「ネタ化」して「メタな立場に立つ」、「誰からも承認されない、筋が通らないことをしていることをもって、自分の承認とする」ことが。僕にとっては、そんな「ストレートでない」「ねじれた」解決は受け入れがたいものではあるが、だからといって、その道そのものを否定する権利は誰にもないのだ。
結局僕も、「他人の気持ち」で物を考えることなんか全然できていなかった、「自分ならこうする」という形でしか問題を捉えることができていなかった、ということか。
明治セックル維新 新政府御性文帖→キモい男 - kmizusawaの日記、【百傑】はてなダイアリー総合【こんどーっ☆】、童貞にモテる方法を見て思ったことの言語化。
デフレスパイラルとは、「物が売れない→値下げする→帳尻を合わせるために給料下げる・首を切る→みんな貧乏になる→物が売れなくなる→……」という感じの悪循環で物価がどんどん下がっていく事を言う。
非モテ現象もそれとよく似ている。「誰からも愛されない→恋愛経験を積めない・愛される経験を積めない→切実に愛を欲して焦る→キモイ行動に出てしまう→他人から避けられる→経験を積むことなく失敗→誰からも愛されない……」という負のスパイラルだ。
ある時点でモテないこと(デフレスパイラルで言うなら、物価の安さ)というのは、この負のスパイラルにおいては表出した一現象でしかない。問題の本質は、連続的にモテなさが増大している所、モテ度の低下が止まらないという所(デフレスパイラルで言うなら、物価が下がり続けているという状況そのもの)にある。この問題において「滑り台」とは「恋愛という価値観」だと僕は思う。
滑り台に乗っていることが大前提となっていて、その前提を崩すことができないと思いこんでいる、そもそも、滑り台に乗っていることが「特別に自然とは言えない状態」だと気付いていない、日本語で言えば、恋愛至上主義が骨の髄まで染み込んでいてそれ以外の価値観を受け入れられないから、「滑り台を登ること」以外に頭が回らない。身の回りに起こること全てを「滑り台を登ること」に関連付けて考えてしまう。例えばちょっとしたスキンシップがあっただけで、「これを手がかりに登れるんじゃないか?」と考えてしまう。だから、いつまで経っても本当の解決に辿り着けない。
本当の解決を望むなら、この「滑り落ちているという状況」そのものから脱しなくてはならない。そうして初めて、登り始めることができる。滑り台に乗ったまま登ることはできない。滑り台から降りることが、その特効薬なのだ。それは日本語で言えば、価値観を転換するということになる。
自己愛が強く、変化を恐れる
心が人一倍強い非モテには、これが非常に難しい。しかし、何か動かずにはいられない。だから、解決のために動くよりも楽で易しい、非モテとして凝り固まる道を選ぶ。解決のために動きたいのに、動けないから、その永遠に満たされない要望からのストレスが原動力となって、より一層、頑なになる。
……という仮説。
非モテグラフ(仮命名)に30秒で自分のスタンスをかきいれてみた→帰ってきた非モテの分類
面白い。これは6次元のグラフで表現することができますね。……6次元というと「縦横奥行き、後はどう表せばいいんだよ! 時間軸かよ!」とツッコまれそうですが、なんのことはない、位置以外の尺度を持ち込めば話は簡単なのです。ということで独断と偏見で以下のように対応付けてみることを考えた。
とりあえず「ホントにモテたくない」側を前に、「ホントはモテたい」側を後ろにまとめてみた。「コミュニケーションスキル」はより広範な概念としてコミュニケーションスペックに勝手に置き換え。
2次元の画像で表すには透視図ではなく投影図で描くとよさそう。金子氏は赤いバーでスタンスを表していらっしゃるけれども、グラフ化するのであれば、バーの中点をその尺度における値とするのが妥当でしょう。
……ということで作ってみたのがこれ。
色を使ってしまったのは微妙なところ(白黒の濃淡でも良かったかな)だけど、ちっとはわかりやすくなったんじゃなかろか?
SVG形式の元データも置いときますので、Inkscapeあたりで編集して再利用してみてください(誰ともなく)。
こないだ書いた「田舎弁士」エントリ→それへの言及→その翌日の記事→先の言及記事に対する言及と辿った。
まぁ、元「非モテ」や脱「非モテ」からアドバイスを受けたくない、「非モテ」の人は、一度、文章だけで、自転車に乗れるようになるマニュアルを、乗れる人からの物言いではない表現で作れるかどうか考えてみたらいいんじゃないでしょか。もちろん、「まずは乗ってみよう!」は禁句だ(笑) 「繰りかえしているうちに乗れるようになるさ!」も禁句だ(笑)
・・・そういったマニュアルが作れるのなら、「非モテからの脱却」というものも、文章だけで説明/指南する物が作れるかもしれませんねぇ。
でも、一部の「非モテ」は、こういうマニュアルを、本気で求めているッぽいからなぁ・・・。
最後の記事のこのくだりに同意する。「非モテであることの苦しみから解放される」ってのはマニュアルでどうこうできる問題じゃあないんじゃないだろうか。
恋愛至上主義の無意味さというのは、読書とか、モノ作りの経験とか、僕が一昨年の12月から昨年10月まで続けていた「毎日の『良かった』探し」とか、恋愛とは直接関係のない事柄を山のように積み重ねて物凄く遠回りして初めて分かるものなんじゃないだろうか、と僕は思う。それを全部すっ飛ばして「異なる価値観」という巨大な断崖絶壁を乗り越え一気に答えに辿り着くショートカットは、脱非モテした人が非モテの人にさしのべた言葉の中にあるのだと思うけれども、それはあまりにか細くて、絶壁を登り切る前に切れてしまう。
あるいは、現在進行形で非モテな人の背中には、長年かけて蓄積したあまりに重い暗い感情がおぶさりすぎてて、それが邪魔で自力じゃあその絶壁を上れない。ずるずるずるずる、いつまでも引きずって……
軽くなった気がする。引きずりすぎて、すり減ったかな。
十分にすり減るまで時間と手間をかけて遠回りするしかないんじゃないだろうか。
やっぱ、非モテ問題とダイエット問題は似てるなと思った。
究極の護身法と聞いて、ついつい「電波男」「電波大戦」の方の意味での「護身」を想像してしまった自分。いや、ある意味ではそれでも正解かもしれんけど。(※一般的な「護身」はトラブルに備えての対策を言うが、「電波男」においては、板垣漫画に倣い「危険にそもそも近付かない、危険を近づけない」というアクティブな逃避行動を「護身の完成形」としている。モテ非モテの文脈では、護身完成=女に心身ともに近寄らない、というニュアンスになる。)
普通は離婚時には結婚中に稼いだ財産・二人で共同で購入した物は折半して分ける事になるけれども、結婚前に「もし離婚しても、結婚中に稼いだお金はそれぞれ個人の物であり、夫婦の共有財産ではありません」という契約を結んでおいた場合はそうはならないから、つまりこれは財産目的の結婚詐欺の被害防止に使えるんじゃないか(ホントにそういう目的なんであれば契約に同意するハズなんて無いから、踏み絵として機能する)、という話。夫婦財産契約登記ちう制度なんだそうな。
明治セックル維新 新政府御性文帖→明日は選挙 - 恵司のはてなダイアリー
僕自身はこの人の「喪なのは自覚しているけれども、女性から直接的にキモイ等の侮蔑の言葉を投げつけられたことはない」という立場にかなり近い。小中学校の時には「キモッ」みたいに言われたことは結構あるんだけど、高校から上すなわち男と女というものを具体的に意識しだしてからについてはわりかし平穏だったので。これも、自分はモテ非モテ論争から距離を置くべきなんだろうか、自分に語る資格はないのではないかと思う理由。
実体験に基づく強烈なルサンチマンではなく、他人の体験談を自分のもののように感じてしまうという異様に感化されやすい性格と未知のものに対する恐怖とが結合した結果としての「自分は喪だし今後も一生喪」という認識なのだと思う。今でも、そしておそらく今後も、夏の葬列のログを見ると自分のことに思えて暗澹たる気持ちになる。ただ、誰の目から見てもモテ系な人の話には同感できないから、性根の部分では非モテもしくはそれに通じる何かが息づいているんだろうなと思う。
胸のこの辺がズッキュンズッキュン痛くて見てらんないよ……まあ○井とやらもアニエスとやらも全く縁がございませんがね。つまりある意味この舞台にすら上がれない「落ちてこぼれるまでもなく、そもそも乗れなかった」人間。
男と女の非モテの話に関連して、非モテ女はなぜ語らないのか?を見て。
男側は「実際に非モテの男」が「俺は非モテだ」と声をあげているのに対し、女側は「実際には非モテではない女」が「私は非モテだ」と声をあげているのではないか、と思えてきた。なぜそのようなことになるのだろうか。
逆の見方をすれば、こうも言える。なぜ「実際には非モテではない男」が「俺は非モテだ」と声をあげたり、「実際に非モテの女」が「私は非モテだ」と声をあげたりといったことがないのだろうか。
このねじれ現象は非常に興味深い。