たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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先日2巻が発売された「隣死臨死!!江古田ちゃん」は相変わらず切なくて面白いのだけれども、他人、特に女性、もっと言えば若かったり綺麗だったりする人のする事の裏をいちいち勘ぐらずにはいられなくなってしまうのが困る。
どうでもいいけど、「りんし」と入力して変換したら「隣死臨死」とは変換できないのに「輪死」は出てくるAnthyってどうなのよ。なんだよ輪になって死ぬって。
追記。変換できないから正しい漢字を思い出せなくて間違って書いてしまったよ。家に帰ってATOKで正しい漢字を知って慌てて修正した。んもうっ、Anthyのバカバカバカバカっ!!(ツンデレ風に)
この歳になってくると、同じフィールドで自分より年下の人と出会うことは珍しくなくなってくる。
10代であれこれやってる人は珍しくても、20代であれこれやってるひとは全然珍しくない。「若くて凄い人」は、本当に年が若くて物凄く実力がある人も多いんだろうけれども、そう評される人の中の一部は確実に、単に早熟なだけなんだろう。大人になってからしはじめるはずの事をちょっと早めに始めてしまっただけで、他の人も大人になってくれば、差が全然なくなる。
差がなくなるだけで終わらず、追い抜かれてしまった場合は、もっと悲惨だ。早熟なだけなのに、相対的に現時点で「凄い」だけでしかないのに、「自分は永続的に絶対的に凄い」と勘違いしてしまって、それ以上自分を磨くことを怠ってしまったら。気がついたら後から来た人にガンガン抜かれていって、もう追い付くことなんかできなくなってしまっていたりする。
そして、今の地位を守ることだけに固執するようになる。後から来て自分を追い抜いていく人達を見て、ただひたすら妬むばかり。
分不相応に肥大化してしまった自尊心、いや、もはやただの見栄でしかないそれを、小さく削るしかないと分かっていても、削れない。削る痛みに耐えられない。ヤスリで皮膚をごりごり擦るような鈍く長い痛みに耐えられない。
削る痛みに耐えられないから、まるごと捨てる。根っこから引き抜いて全部捨ててしまう。プライドのかけらもない人間、いっちょあがり。
でも肥大化した自尊心が上に乗っかってる状態がいままでデフォになってしまっていたから、またすぐに自尊心が元の大きさまでふくれあがってしまう。
まったく、始末に終えない。
ほとんどのリサイクルは実際には資源の余計な浪費にしかなっておらず、「資源を大事にする自分」という理想像を手に入れるための消費行動に過ぎない、というのはよく聞く話だ。
しかしこれを知ってもなお僕は、物をゴミ箱に捨てることに抵抗を覚えるし、資源ゴミの日に資源ゴミを出すと「赦された」気分になる。理屈で自分に言い聞かせたいんだけど、なかなか言うことを聞いてくれない僕がいる。
「思い入れ」という人間性の非効率を見ても思ったけど、理屈に合わない事と分かっていながらも、自分の心の中のバランスを保つためだけに、人は無駄な事をするんだろう。
著作権の保護と言いますが、注意深く見てください。著作権を守れって声高に叫んでいるのは著作者やクリエーターではなく、真ん中に入って仲介している人たちですよ。
しかしながら、(※引用注:Firefoxは)裏を返せば何をやるにも面倒、とも言える。ふとした思いつきでメニューやショートカットを増やしたい衝動に駆られたとき、すらすらとスクリプトを書けない私は、探すか諦めるかの二択を迫られる。Operaであれば出来るか出来ないかの二択。出来るならちょっとiniファイルに書き足すだけだし、出来ないなら諦めるだけ。決断にもそう時間は要しない。
スクリプトを書く必要は必ずしも無くて、拡張機能で大抵の問題は解決できると思うんだけど、それはともかく、この出来ないなら諦めるだけ
というのが明暗を決めるのかもしれない、と思った。
僕自身を振り返ってみると、PCのこと、ソフトウェア、自分の作業環境というか自分の「デスクトップ環境」に関しては、諦めが悪いというか執念深い気がする。今の環境を捨てて新たな環境を構築し直す労を惜しんで未だにWindows 2000を使い続けているし、ハードウェアトラブルで環境を作り直さないといけなくなった時もレジストリをごりごりいじってどうにか今までの環境を極力引き継ぐようにしたし、もっと前は、Windows 98から2000に移行する時も仮想マシンの中にWindows 98環境をそのまま再現してレジストリの内容をひっぱってきたりしていた。画像編集には今でもFanfare Photographerを使っているし。テキストエディタはマクロを作り込みまくったせいで秀丸から抜け出せずにいるし。
諦める時って、ある意味ではスッキリするんだけど、ある意味では悲しくて悔しい。他人に屈した、負けを認めた、そんな気がしてしまう。ガキっぽい対抗意識をガンガンに燃やしてしまう僕だから、諦めないといけない場面が比較的少ないFirefoxにのめり込むのかもしれない。
AiO GesturesとSplit Browserの連携を試みてみよう、と思って挫折した。基本的にSplit Browserは、Firefoxの初期状態の構造であることを前提にして開発されている拡張機能とは、とても相性が悪い。ハック用のコードを書いてみようと思っても、変更箇所が膨大になりすぎて、とてもやる気が起こらない。FireBugとの連携が結局中途半端な状態で止まってしまってるのもそのせいだ。
Split Browserが連携しやすいのは、Firefox全体に渡ってではなく、tabbrowserというウィジェットに対してだけ拡張を行うように設計されている物だ。マルチプルタブハンドラや情報化タブやなんかは最初からそういう風に設計したので、わりかし簡単に連携がとれるようになった。
非難轟々ですな。
この件については、異論反論の方にほぼ全面的に同意だ。初期のポリシーがどうであったかとか、ゆきちさんがどう考えているかとかに関係なく、Wikipediaは今となっては、公共性を帯びた活動になっている。公共性を帯びた活動であるのなら、「表現の自由を守る必要なんか無い」わけがない。
ある活動に公共性があるかないかを判断するのは、活動している本人ではなく、あくまで、社会だ。活動の参加者にその自覚が無いのは致命的だと思う。
スクールカーストとか本気で言ってるの? 勝手に人をランク付けて何卑屈になってんの? ……とかいうことを言ってる人をたまに見かけた気がするし、非モテ界隈でそういう話題が出る度に本気でそう思ってる人も少なからずいるんだろうなと思うんだけど。
大島永遠の「女子高生」において、女子高にもそういうヒエラルキーが普通に存在しているということが描かれているし(もちろん、ギャグ漫画である以上は誇張されているのだろうけれども)、スクールカーストは普遍的な存在だと思う。
「スクールカーストなんて無い」と言う人は、単に、自分の属していた層のヒエラルキー内の位置を客観的に考えてみたことが無いだけなんじゃないだろうか。
世の中、知らない方が幸せな事ってのがたくさんある。スクールカーストの存在とその中での自分の位置も、そういう「知らない方がいい事」の一つなのだろう。
とあるカメラマンの初めての写真集(一人のプロのモデルの横顔を5年間追い続けた記録)という物を見た。高校の頃(17歳)から現在(22歳)までの記録だそうで。
見てみたら、最後の写真ではなんかお腹が妙に大きくなってて、キャプションには「2007年7月、母になる」と書いてあった。出産予定がその頃ということなのだろう。
その写真を見て真っ先に思ったのが、「あぁ……また一人、先を越されたんだ……」ってことだった。人と比べる事じゃあないのに、ついつい、人と比べてしまう。僕より若くして「親」になって、僕よりずっとずっと先の世界を生きている彼女ら彼らは、きっと僕のことなんか、「歳だけ無駄に食ってて人生経験の浅い奴」って見下すに違いない……そんな風に思ってしまう。
何より見下されるべきなのは、人生経験が浅いことよりも何よりも、そういう風にいつでも劣等感に囚われていること、自分と他人を常に比較して順位付けるという思考回路それ自体だと、自分でも分かっているのだけれども。
最初読んだとき「このブルジョワジーのモテ女めが! なーにが、安っぽくて気に入らないから売っ払っちゃいました、だ! 男の純情を踏みにじりおって!! 許せん!!!」とブチギレかけたんだけど、トピ主の追記を読むうちにだんだん考えが変わってきた。