たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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拡張機能の開発に必要な知識というとXUL、CSS、JavaScript、XPCOM、と多岐に渡るので限られた誌面に掲載するためにはある程度「これは知ってるものとしますよ」みたいな前提を設けないといけないんだけど。「名前空間URI」という単語を地の文に普通に書いてたら「これ注釈いるんじゃね?」みたいなツッコミをいただいた。
え゛。XML知ってりゃ常識だと思ってたんスけど……ていうかXMLも常識かと思ってました……
CSSをHTML専用の言語と認識している人がCSSの文法的な妥当性を語ってるのを見たときも、素でおったまげた。
でもこれは反省するべきポイントなのかもしれない。初心者でも分かりやすいような文章を書くことを心がけたいと思っているにも関わらず、自分自身で「これくらいかみ砕いて説明した方が分かりやすいだろう」と思う最低レベルの基準をいつの間にかずっと高いところに置いてしまっていたのではないか。知らず知らずのうちに浮世離れしてしまっていたのではないか。自分の仕事に対する姿勢を改める必要を感じた。
通勤経路上にいくつか高校があるので、たまに登下校中の高校生を見かけるんだけど……女子のスカートがことごとく短くて(膝下がデフォの世界しか知らなかったから、膝上が東京では当たり前ということを見知って、おったまげてますよ、ええ)、つい目で追ってしまう。
性的な視線であることは否定しない。でもそれだけでなく、リア充(リアル生活が充実してる人)的学生生活への憧れも間違いなく喚起されている。だからその度に辛く切なくなる。彼女らの短いスカートから覗く脚を目にして、1秒目は眼福と思い、2秒目には喪われた青春を思い憂鬱になり、3秒を過ぎたら未来への絶望で暗い気持ちになり、だんだん生きる気力が萎えてくる。
なんでこんな事でまで沈まなきゃならないんだ僕は……
救済者願望は救済者願望であって、救済願望ではないのです
、という話の中の、星界の紋章Ⅱからの引用を見て、以前僕が言いたかったことそのまんまだと思った。
結果として前より幸せになるか不幸になるか、どちらのケースが多いのだろう。
「世間は(社会は)そんなに甘くない」「生きていくのは厳しい」っていうような表現はよく目にする。
でも実際今までこうしてなんとか生きてきて、案外なんとかなってしまっていて、それほど滅多打ちにされてもいなくて、手をさしのべてくれる人もいて、お目こぼしして貰うようなこともあったりして、世間って結構いいかげんなところがあるんだな、っていうことも思っていて。
多分、「世間の厳しさ」っていうのは、鬼のようにいつでもビシバシ辛く当たってくるとか、そういう意味の「厳しさ」では、本当は、ないんじゃないかなあ、って、ふと思った。もちろんそういう意味の「厳しさ」に晒されることもあるだろうけど、でもそれよりもっと恐ろしい物が、それよりもっと「厳しい」所が「世間」にはあるンじゃないかと思う。
それは、「世間の気まぐれさ」。どうでもいいときにばっかりうまく回って、助けて欲しいときには助けてくれない。親切にもハシゴをかけてくれて、いざ屋根に上ったと思ったら、今度は僕が上にいるのも忘れて平気でハシゴを取っ払ってしまうような、気まぐれなところ。次の一手を予想できないから、がっちり防御を固めていても何事もなくスルーされることもあれば、気を抜いているときに限って一番弱いところを狙い打ちにされることもある。安心することができない、全く疑いを捨てて生きていくことができない。よく分からないままに流されるしかなくて、でも流されるばかりだとどこまでも落ちていく。自分で舵を取って切り開いていくことがとても難しい。昨日の敵は今日の友かもしれないし今日も敵かもしれない。昨日の友は今日も友かもしれないし今日は敵かもしれない。
そんな「世間」の得体の知れないところ、ままならないところこそが、何より一番恐ろしくて、厳しいんじゃないか、と、思ってきている。
ビデオインタビューの様子の動画によると、MJでもしいたけが流行ってるみたいですよ。
傷つけたくない症候群の鬱陶しい空気感を見ていて、思い出されたこと。
そういえば僕は割とつい最近まで、同級生の名前を覚えられなかった。いや、男子はなんとか覚えられたけれど、女子は壊滅的だった。大学の研究室のような狭い小人数の場ですら、そうだった(卒業制作のために籍を置いた研究室では男だけだったんだけど、1年かそのくらいの時の一般教養の課題の一つで、無作為に選ばれた学生達でチームを組んで……というのがあったんですよ)。
最近になってmixi経由で高校時代の同級生の人達と少し交流が復活したけれども、正直言って、顔と名前が一致しない人の方が多かった。一応同じクラスだったらしいと分かっていても、「これはあの人だ」と、名前から顔を思い浮かべることがなかなかできなかった。自分からマイミク申請できるくらいに相手の事を思い出せたのは、ごく数名だけだった。思い出せた人の中には、自分は思い出せても相手は思い出せないんじゃないか、っていうか僕の事なんて覚えてないんじゃないか、むしろ在学中から「知らなかった」んじゃないか、という人もいて(なぜそう恐れるのかといえば、自分自身が他の人を「覚えていなかった」り、「知らなかった」りするからに他ならない)、自分からマイミク申請できなかった。
いや、そもそも、顔を知らなかったと言った方が正しいだろう。同じクラスの人でも、女の人を前にして僕はまともに話せなかった。学祭の準備やなんかのためにどうしても話さざるを得ない時でも、相手の目を見ない、顔を見ても表情を認識しない、ただそこにその名前の人がいるということを示すアイコンとしてだけ相手の姿を認識することで、僕はやっと女性と話すことができていた。
知人が、かつてノートに書き留めていた日記の束を最近になって偶然見つけて、内容の恥ずかしさのあまりそれらを捨ててしまった、ということを書いていた。6年間にも及ぶそうだから、相当な量だろう。
この日記……じゃなかった近況報告は、たしかサイトを作ったときからずっと書いてるけど、通算でもうそろそろ8年分になるわけか。さすがに古すぎる奴は僕も恥ずかしいから、圧縮して置いとくだけにしてるけど、でも完全に消してしまおうという気にはちょっとなれない。
過去の日記を捨てるということは、自分自身でも忘れていたような過去の記憶の記録を捨てるということは、過去そのものを捨てるという事にとても近いのではないだろうか、と思う。整形とか、引っ越しとか、改名とか、そういう行為も、目的がどうかはともかく、結果的には「過去の自分と現在の自分との関連を断つ」行為になると言えるだろう。
それができない人と、できる人との差は、どこにあるんだろう。
自己愛の強さの差だろうか。本質的には自分大好きナルシシストだから、過去の自分を切り捨てられないんだろうか。
あるいは、「質より量」なのかもしれない。今の人生、過去の人生、どの一瞬を切り取っても厚みのない価値の薄いものであるなら、せめて量だけでも集めて重ねて価値を見出したいのかもしれない。
もしかしたら、未来が失われることを、突然自分がこの世から消え去ってしまうことを、恐れているのかもしれない。「過去を捨てる」ということは、大抵の場合、「新しい、未来の自分」の価値を上昇させるために行う行為だと思う。でも、その「未来」が無かったら、どうだろう。積み重ねてきた過去も、これから積み重ねるはずであった未来も、どっちもなくなってしまったら、自分の価値はどこに残るんだろう。自分のことを誰が覚えていてくれるというんだろう。
諦めが悪いんでしょうね。いろんな意味で。
どうして勉強しなきゃならないんだよ!因数分解が何の役に立つんだよ!
因数分解は使いませんでしたが、Split Browserでこないだ付けた新機能の「分割されたブラウザのタイトルバーをドラッグして、他のブラウザのブラウズ領域の上下左右適当なとこにドロップすると、分割されたブラウザをその位置に移動する」を実装するにあたっては1次関数のグラフの知識を久しぶりに脳の奥底から引っ張り出してきました。嘘。実は引っ張り出してこれなかったのでぐぐった。
ブラウズ領域を対角線で4つに分割して、それぞれのどのエリアにポインタがあるのかを調べるという計算。対角線の1次関数の式を作って、そこにYの値を放り込んで「対角線上のX」の値を求め、実際のXの値と比較することで、今ポインタがその対角線より左にあるか右にあるかが分かる。この計算を2つの対角線について行えば、ポインタが対角線によって分割された4つの領域のどこにあるのかを求めることができる。
……という計算なんだけど、学校でやった計算とはY軸のプラスマイナスが逆だし、screenXとscreenYを参照するから原点が(0, 0)からズレてるし、グラフの傾きがブラウズ領域の縦横の大きさによって変わるし、てな感じで、単純な計算なのにえらく苦労したですよ。中学か高校の頃だったらこんなの一瞬で解けたんだろうなあ。
まあそんな感じで紙の上に図やら式やらを書いて四苦八苦した結果がsplitbrowser.jsのSplitBrowser.getDropPositionOnContentArea()
なんですけど。
感受性が高い、と言うとなんだか良い事のように聞こえますけれども、それってつまり、雰囲気に流されやすいとか他人に影響されやすいとか、そういうことなのではないでしょうか。
あるあるに騙されて必死で納豆買い漁る人や、横山ノックやそのまんま東に投票する人、自分とこの党首のした事も忘れて阪神淡路大震災の話で自衛隊批判をする人(そしてそれに「そうだそうだ!」と同意する人)、レイザーラモンHGやギター侍をもてはやす人、オレオレ詐欺に引っかかる人、相手の涙に騙されてオロオロする人とかと、どこがどう違うのか僕には分かりません。
いや決して感受性が高いと評された事それ自体が嫌なのではないのですよ。むしろ、嬉しいとすら感じた。でも、それを嬉しいと感じてしまう浅はかな自分が嫌だった。「フーン」でスルーできない自分が嫌になった。そんな言葉たった一つに影響される自分が嫌だった。そんな事では動じない人になりたかった。スルー力の高い人に。
しかしまあ感情移入しまくりとか状況似てるとか書いてしまいましたけれども、こういう純粋で美しい恋物語と比較して、自分の現状ってもっとずっと救いようがないですね。
彼女らは若々しさ溢れる高校生、毎日二人で一緒にランチ、彼女の想いは純粋ときたもんだ。対してこっちは、学校なんてとうの昔に卒業しちまって先の見えないオープンソース業界に寄生して生きてるただのヲタ、昼食一緒なんてあり得ないし(ていうかもう半年以上以下略)、自分の気持ちはただの性欲との区別すら付けられない邪心まみれときたもんだ。共通してるところと言えば、なかなか構ってもらえないという事くらいじゃ……
あ、もう一つ共通点あったな。ほとんど毎日手作り弁当って所(※食費節約その他の目的で弁当自作してるというだけのことで、誰かと一緒にとかそういうことではないですよ)。まあ、こっちはメニューほぼ固定で魚が塩鯖と塩鮭で変わるくらいの、まさしくただの餌って感じですがね……
まあ違いを探せばそんなもんいくらでも見つかるんでこのくらいでやめておくけれども。機会がなくてあんまり読まないけど、少女漫画って、自分の状況とか心情とかにちょっとでも共通するところがある時に一番ビビッと来るものなのかもしれないなと思った。少年漫画とかは、なんつうんだろ、あくまで他人を応援してる感覚が強いのかもしれない。