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の動向はもえじら組ブログで。
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Webで読める無料の月刊誌「COMIC SEED!」を運営していたぺんぎん書房が倒産したということを、同誌に連載されていたきづきあきら氏のblogで初めて知りました。氏の「ヨイコノミライ!」、続きが気になってたのに……
どれだけ考察しても論理的な答えが出ないということは、その怒りは、理によってではなく感情によって生じたものなのだろう。理によって生じた怒りはおそらく正義だけれども、そうでない怒りはただの怒りでしかなくて、それは正義でも悪でも何でもない。
ただの感情によって生じた怒りを圧殺できるのが、大人なのではないかと僕は思う。その意味で僕は大人になれない子供だと思う。
出勤時にたまに献血車を見かけるもののいつも遅刻ギリギリか大遅刻なのでスルーしてたんだけど、今日は珍しく(ぉぃ)余裕があったので、献血してみた。A型の血なんて有り余ってて要らんかもしれんけどね……
血を抜いてる間話してたんだけど、ロケーション的に駅前というのは人が多く通るけどほとんど立ち寄ってくれなくて結局大して集まらない、とのことだった。まあ確かにこんな時間帯にこんな場所だと、みんな急いでてスルーするわな(いつもの僕みたいに)。
さて。ジュース2本もらって、抜いた分の水分は補給したけど、さっそく尿意を催してきたわけで……
なんだかんだ言って自分自身も、気をつけてはいるものの、酔った勢い+水を向けられたりしてしまうと、ついポロッと、非モテ的にはタブーな話題を漏らしてしまうことがある。しかも大声で。酔っぱらいって最悪ね。
ただ、こないだ書いたとおり、その意図としては、必ずしも他者を傷付けようというものではないんです。むしろそういう明確な意図を持った発言なんてできやしません。
子供の写真を年賀状に貼り付けるというのがよく分かる例だけど、どうして人はこうも自分の妻やら子やら子の作ったものやら(図画工作の授業の課題など)を他人に見せびらかしたがるのだろうか。――とずっと不思議に思ってたんだけど、なんだか少しその心理が分かった気がする。
見せたいのは、容姿や制作物の出来やなんかじゃあないんだ。「それを手にしている幸せ」そのものなんだ。物理的なそれそのものじゃあなく、自分がそれに対して抱いている思い入れなんだ。それが、「見栄」じゃあない「誇り」から来る自慢というものなんだろう。
誇れるものがたくさんあるということは、いろんなものを持っているということではなく、その人がいろんなものに思い入れがある、愛しているということなんだろう。
そう考えると、他人の子供自慢だとか嫁自慢だとかダンナ自慢だとかも、見てるだけで微笑ましく思えてきませんかね。
携帯写メをPCに転送するのにいちいちメールで送ってたらパケ代がかさんでたまらんので、携帯にmini SDメモリーカードのスロットが付いてたからメディア買うてきた。mini SDメモリーカード⇔SDメモリーカードの変換アダプタが付いてるモデルが特価で売られてて、よく考えたらLet's noteにはSDのスロットがあったよなと思って(Debianからは使えないけどWindowsで起動すれば使える)、とりあえずそれだけ。
でもいちいちこのためだけにLet's noteを引っ張り出してくるのは面倒なので、SDが使えるリーダをそのうち買ってくるような気がします。
それはいいんだけどmini SDちっちぇぇぇぇぇぇ。
僕は本質的にはやっぱり「萌え」じゃ満足しきることはできない人間なんだろう。
萌えとは、ある意味では、恋愛感情の自家発電だ。自家発電で構わないという人もいるだろうけれども、自家発電では困るという人もいる。僕は困る方の人だ。誰か他人の目を通して承認されないと、自分で承認したのでは意味がないと思ってしまう。ということは、承認してくれる他者が必要だ。他者は自家発電では作れない。
ただ、満足しきれるかどうかということと、それでやっていけるかいけないかというのとは、また別の問題だ。例えば僕は満足しきるほど広大な大邸宅に済むということはできていないけれども、こぢんまりとした家でも生活は送っている。
生活に必要な電力全てを供給できものとして萌えによる自家発電を用いている人と、萌えでは電気スタンドを点けるくらいの電力しか供給できない人との違い、っていうかなんというか……
僕は、処女じゃないと付き合う意味がないとか、そういう考えに至る心理というのがよく分からない。そりゃあ、「初めて」ってのは特別なことだから、その特別なことを経験できるというのは、あればあったで嬉しいオプションだろうけど……
「処女でなきゃ駄目だ!」と思ってる人の中には、処女性以外の観点で女性の魅力を認識できていないためにそうなってしまってる人もいるんじゃないだろうか。それ以外の、例えば、普通に話が合うとか。極端な話、「話の合わない処女」と「話の合う非処女」どっちと恋愛したいかというような問いにもできる。
それとも、話が合うとかそういうのとは別の次元の問題だと考えているんだろうか。そうだとするなら、そこはもう「何が別格で大事か」と考えるところでの価値観の違いだから、何も言えないなあ。